1話:始まりです!
「ミユ・マリア・ロイター男爵令嬢。虫も殺せないという顔をしておきながら、君は格上の子爵令嬢であるハナ・アルディに、随分と嫌味を言ったそうだね。腕力はないからと、言葉の暴力か? 『ブルース様は私の婚約者なのよ、そんなに近づかないで!』『私はブルース様の婚約者なんです! 勘違いなさらないで』――随分と稚拙なことを。恥を知れ! 君こそ、勘違いするな。僕が公爵家の嫡男だからと色目を使って近寄り、強引に婚約にこぎつけたくせに。君とはもうお終いだ。婚約は破棄する!」
十五歳で婚約し、わずか三年。
ミユは、卒業を祝う舞踏会という華やかな場で、婚約者であるブルース・ヘンリー・フォードから、一方的な婚約破棄をつきつけられる。
だが、この婚約破棄を見て、ミユに駆け寄り、跪く青年がいる。シルバーブロンドに、サファイアのような瞳。白のテールコートを着たこの人物は、卒業生代表を務めた元生徒会長であり、この国の第二王子スチュアート・コール・レーモンだ。
「泣く必要はないよ、ミユ。これは終わりではない。始まりなのだから。さあ、わたしの手を取り、誓いをさせて欲しい。ミユをこれから先、守り、愛するのはこのわたしだ。この国の第二王子スチュアート・コール・レーモンは、男爵令嬢であるミユ・マリア・ロイターにプロポーズをする」
パタンと本を閉じ、私はスマホで時間を確認した。
月曜日は閉館日で、仕事もある。
ならば図書館にこの本は今日、返却し、帰りにスーパーの値下げ総菜でも買って帰ろう。
電子書籍もあるのだけど、ボンビーな私は、本は図書館で借りていた。リクエスト申請が通れば、流行りの婚約破棄ものの小説だって、読むことができたのだ。
トートバッグに本を入れ、自転車と家の鍵をパーカーのポケットに入れる。スマホは手に持ち、ワンルームの部屋を出て、マンションの駐輪場に向かうため、エレベーターのボタンを押す。到着を待ちながら、今、読んだ本について思い出す。
読了後、気になって何度も読みなおした婚約破棄のシーンのことだ。そして改めて思う。
ミユは可哀そう、と。
だって彼女はあの高飛車公爵家令息に婚約破棄され、第二王子とハッピーエンドということになっているが……。
私はハッピーエンドとは思わない。
だって。
第二王子のスチュアートはとんでもないヤンデレ!
ミユの一挙手一投足を気にして、彼女がレストルームに行く時でさえ、ついて行く。さすがに廊下で待つが、「君は王族の婚約者だから、あぶない目にあわないか心配」とか尤もらしいことを言う。ミユが外出するとなると「誰に会うの? どこに行くの? わたしを置いていくの?」と、子犬のように瞳を潤ませて言うのだが……。
完全に束縛系男子。ウザイ奴だと私は思う。作者はこれを「溺愛、ヤンデレ万歳」としているが、そんなことはない。溺愛とヤンデレの定義、間違っていませんかー?と言いたくなる。
もしあの公爵家の令息が、もっとまともだったら。あんな高飛車でなければ。ミユと婚約破棄しなかったら……。
そんなことを思いながら、自転車を漕いでいた。
横断歩道で、信号が点滅している。
でも自転車なのだ。変わる前に横断できるだろう。
そこでブレーキをかけることなく、ペダルを強く踏み込み、そして――。
◇
顔全体に感じる生温さ。名状しがたい匂い。ねっとり、ベチャベチャしたものが、顔中を覆っていると思った。
いきなり、な、なんなのよー!
カッと目を見開き、そこに見えたのは……。
え、何!? エイリアン!?
「パオーン!」
パオーン!?
「わあ、お母様、すごーい! ゾウにチュウされたぁ!」
声に見下ろすと、七五三で着るような紺色のブレザーに半ズボン、襟元には赤いリボン。おかっぱの金髪に碧い瞳の外国人の美少年がいる。
しかも私を見て、お母様と言わなかった!?
私、アラサーですし、喪女ですし、結婚した覚えも出産した覚えも、ないんですがー!
「まあ、奥様、綺麗なお顔が大変です! ちょっと、飼育係の方! こちらのゾウの教育はどうなっているのですか!? 今すぐ奥様が顔を洗えるよう、準備してくださいませ。この方が誰だか分かりませんか! あのジェラルド・ロバート・フォード公爵の奥方、キャサリン・リズ・フォード公爵夫人ですわよ!」
茶髪でグリーンの瞳の四十代くらいの女性が、大声で叫んでいる。ミュージカル女優が着ていそうなグリーンのドレスを着ている。
私、図書館に本を返却に行ったはず。
そこで……。
え、もしかして私、天に召された?
もしかして、どこか異世界に転生した、とか?
「お母様、大丈夫ですか~? 僕、このゾウ、欲しい~!」
紫の私のドレスのスカートを、くいっと引っ張るこの美少年。
まさかと思い、尋ねる。
「ボク、お名前は?」
「お母様、どうしたの~? 何かのゲーム?」
そこに飼育員と園長がやってきて、「申し訳ありません」と平謝り。スタッフの休憩所へ連れて行かれ、そこで顔を洗うことになる。
顔を洗い、タオルで拭きながら、壁にかかる鏡に映る自分の姿を見て、ビックリ!
バターブロンドに碧い瞳。前世日本人の私とは全然違う。
しかもどうやら結婚&出産を経験済みだが、体型に崩れは感じない。
手足はほっそり、ウエストもある。しかも……胸、デカっ!
さすが西洋系!
というか、キャサリン・リズ・フォード公爵夫人と私のことを言っていたわよね。
公爵って、貴族の頂点じゃない! しかも多分、あれは侍女では?
「それに家名は『フォード』ですって! まるでさっき読んだ……フォード公爵夫人? フォード、ふぉ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉーっ」
「お母様、『ふぉっ、ふぉっ、ふぉーっ』って、なんだかサンタのお爺さんみたい!」
侍女に抱かれた美少年が部屋に入って来た。
ドアがないので、ノックもなしで現れた二人を、まじまじと見る。特にこの少年。
「ボクの名前は、ブルース・ヘンリー・フォード?」
「うん! そうだよ、お母様!」