君主の器と将の器
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
黒竜江流域における不穏分子の反乱を鎮圧した私が中華王朝の首都へ凱旋する事が出来たのは、内戦が勃発してから二年半も経っての事だった。
目下の憂いの根源を絶つ事が出来たのだから、我が敬愛する女王陛下は晴れやかにして慈悲深い笑顔で私を御迎え下さるに違いない。
宮中へ参内するその時まで、私はそう信じて疑わなかった。
「愛新覚羅紅蘭陛下、御久しゅう御座います。この司馬花琳、陛下の君命を果たす事が出来ました。」
「上将軍、誠に大義でありました。貴公への報奨は、追って伝えます。」
ところが玉座に御座す陛下の笑顔は、慈悲深さこそ普段通りであるものの晴れやかさとは無縁であるように感じられたのだ。
それはあたかも、何らかの悩み事を押し殺していらっしゃるかのようだった。
そんな陛下の御様子が引っ掛かっていた私は、丞相である楽永音に帰り際で呼び止められ、執務室で茶菓子を勧められたのだ。
どうやら丞相としても、陛下の御様子が気掛かりだったらしい。
「単刀直入に申し上げますが、上将軍には陛下の相談相手になって頂きたいのです。陛下は何やら、胸中に蟠りを抱えていらっしゃるのでしょう。」
台湾からの輸入品である清茶の芳香と湯気には目もくれず、丞相は静かに立ち上がった。
そうして穏やかな午後の日差しが差す執務室の中をせわしなく歩き回る様子には、彼女なりに陛下の御身を案じる気持ちが伺える。
「それは私も案じていた所だよ。しかしだな、丞相。そうした役割は貴公が果たすべきであり、武官である私が行うのは差し出がましいのではないかな。」
「いいえ、上将軍。貴女でなくてはならないのですよ。私は所詮、陛下の即位後の御姿しか知らない若輩者。ところが上将軍は、中華王朝建国以前から陛下と懇意の仲で御座いましたからね。一介の臣下である私には打ち明けにくい御悩み事も、旧友である上将軍になら吐露出来るのやも知れませんよ。」
このように丞相から言われてしまうと、断る訳にはいかないだろう。
私は陛下の執務が一段落した頃合いを見計らい、人払いをした上での謁見を願い出たのだ。
人払いが行われて静かになった玉座の間に御座す陛下の御尊顔は、先の拝謁時に比べれば随分と穏やかなように感じられた。
「こうして二人きりで御会いするのも随分と久し振りですね、上将軍。今は敢えて、昔のように花琳と呼ばせて頂きますよ。」
「勿体無き御言葉で御座います、紅蘭陛下。」
折り目正しい土揖の拱手礼に、鈴を転がすような清廉な声色。
そうした御所作の上品さと優美さは、初めて御会いした頃と変わらぬものだった。
あの頃の私達二人には女王や上将軍といった厳しい肩書等は存在せず、お互いに単なる華僑の娘に過ぎなかったのだ。
きっと陛下は今でも私の事を、少女時代からの知己として親しみを抱かれているのだろう。
そんな陛下の御気持ちは、私としても喜ばしい限りだ。
然しながら今の私達には、君主と臣下という序列が歴然と存在する。
丞相を始めとする官僚達や部下達の目も考えなくてはならないのが、なかなかに難しい所だ。
「花琳、貴女が謁見を申し込まれた理由は薄々と察しております。少し気掛かりな事が御座いましてね。近いうちに機会を見つけて、貴女か永音にでも御意見を伺おうと考えていたのですよ。」
そう仰ると、陛下は私の目を射抜くかのように真っ直ぐ見据えながら、静かに切り出されたのだ。
「二年半余りも続いた此度の内戦、どうにか鎮圧出来たものの払った犠牲も少なくはありません。戦場となった黒竜江流域は甚大な被害を受け、官民共に少なからぬ犠牲者が出てしまいました。特に我が国軍と共同戦線を張って下さった大日本帝国陸軍に至っては、園里香上級大佐という優秀な幹部将校を失う悲劇に見舞われたのです。それを考えますと、私は何とも心苦しくて…」
「恐れながら申し上げますが、それは流石に陛下の御責任では御座いません。軍人たる者、戦場で命を落とす覚悟がなくては一日たりとも務まりませんし、それは我が中華王朝の国軍も大日本帝国陸軍も同じ事で御座います。此度の内戦に於いて全責任を負うべきは、賊軍である紅露共栄軍で御座います。そもそも彼奴等が無差別テロや反乱を起こさなければ、この二年半の間に生じた犠牲者達も生命を全う出来たはずなのですから…」
王室への忠節心と勇猛さを誇りとする我が国軍と、先の戦争では多国籍軍の中核として活躍した大日本帝国の忠勇無双たる将兵達。
この両者が固く手を結んだ連合軍による活躍によって、あの恐るべき紅露共栄軍も跡形なく壊滅した。
それなのに、我が親愛なる女王陛下の慈悲深き御心を未だに悩ませるとは…
あの賊軍共の遺した爪痕は、私が考えている以上に根深いのだろう。
ところが黒竜江流域で勃発した紅露共栄軍による反乱は、何とも意外な形で陛下の御心を騒がせていたらしい。
「それは承知しておりますよ、花琳。そもそも紅露共栄軍さえ存在しなければ、あの一連の悲劇は何も起きなかったのですから。されど此度の武装蜂起の引き金は、現体制への不満にあるとも耳に致しました。先の戦争で荒廃した祖国を『中華王朝』と改めて復興させてから、早くも十四年。民の為の国政に務めて参りましたが、まだまだ至らない所のある自分が情けなく感じられるのです。」
陛下の御声は何時になく沈んでおり、その物憂げな横顔を見ていると私まで辛くなってしまう。
そもそも中華王朝は建国されて間もない新興国で、国政においては何かと手探りを余儀なくされているのだから、陛下の御心痛もある程度は止むを得ない所があるだろう。
それ故に次のような弱音を陛下が吐露されるのも、私には薄々予想が出来ていたのだ。
「だから私は、ふと考えてしまうのです。もしも中華王朝を建国したのが、私ではなく貴女だったなら。或いは太傅である夕華の手によって、金朝の後継国家として建国していたのなら。この国は果たしてどうなっていたのだろう。もしかしたらより良い仁政が敷かれていて、此度の反乱も起きなかったのではないか。今更申しても詮無き事ですが、ふと脳裏を過ってしまうのです。」
確かに我が司馬一族は、晋を興して三国時代に終止符を打った司馬炎の直系にあたる。
当主であるこの私が皇位請求権さえ行使すれば、漢民族の国家である晋を再建する事だって決して不可能ではないのだ。
そして太傅として翠蘭王女殿下の教育係を務めている完顔夕華にしても、かつて金を建国した完顔阿骨打の末裔という点では、私と同じ立場にある。
現在の中華王朝は清朝の後継国家という位置付けだが、晋の流れを汲む漢系王朝や金の後継国家という可能性だって存在したのだ。
それが単なる可能性の段階で留まった由を、今の私は陛下にお伝えしなくてはならない。
「たとえ陛下が清朝の王位継承権を主張せず、私や太傅が晋や金の後継国家を建国したとしても、紅露共栄軍は変わらずに蜂起した事でしょう。旧体制派の軍閥が寄り集まった彼奴等はマルクス主義を絶対視しており、立憲君主制国家である我が中華王朝とは決して相容れぬ存在でした。」
「中華王朝に王室がある以上、君主が誰であれ彼等との戦闘は避けられなかった。そういう事になってしまうのですね。」
臣下の忠言にはキチンと御耳を傾けられ、そこから多くを学ばれる。
そんな陛下の素直な御姿勢には、周の文王や漢の劉邦といった古の名君達に通じる風格が感じられた。
そうした陛下の御人柄に惹かれたからこそ、こうして私達は叛意を抱かずに忠節を尽くしているのだ。
その事も、陛下に御伝えする必要があるだろう。
「仰る通りで御座います、陛下。そして陛下は臣下である私共の御話を真摯に傾聴され、尚且つ常に民の為になる仁政を心掛けていらっしゃいます。加えて、御自身の改善点を常に探される謙虚さと向上心まで備えていらっしゃるのです。これぞ正しく、君主の器に相応しい御方で御座います。人間誰しも、各々に見合った器が御座います。陛下に君主の器が御座いますように、私には将の器が、完顔夕華には官僚の器が、それぞれ相応しいかと存じ上げます。」
「将の器に官僚の器、そして君主の器。どの器が合うかは人それぞれではあるけれども、各自の天分を活かす事が大切なのですね。私や翠蘭も女王に相応しい人間となれるよう、己を一層に磨きたい所で御座いますよ。」
どうやら陛下の胸中に巣食っていた不安の種は、陛下御自身の御心持ちによって無事に解決したらしい。
心許せる者からの適切なアドバイスさえあれば、後はそれを糧にして自らの力で立ち直る事が出来る。
彼女は…否、この御方は昔からそのような女性なのだ。
少女時代の私と知り合って親友として打ち解けた、一介の華僑の息女だったあの頃から。
「花琳…いいえ、上将軍。私や翠蘭が女王に相応しい人間でいられるよう、これからも頼りにさせて頂きますよ。」
「勿論であります、陛下。この司馬花琳、中華王朝と陛下の御為に今後とも粉骨砕身致す所存であります!」
襟を正して長揖の礼で陛下に応じながら、私は胸中の誓いを新たにしたのだった。
少女時代のように無邪気に呼び合う事は、今の私達には決して叶う事のない夢物語だ。
だけど私達の間に育まれた友情は、たとえ君主と臣下の間柄となっても変わらずに存続している。
それを改めて確認出来た事は、私にとっても陛下にとっても大いなる収穫になった事だろう。
この親愛なる女王陛下が今後とも健やかな御心持ちで御過ごし頂けるよう、官僚や部下達と力を合わせて一層に励まなくてはならないな。