第6話:白の刹那
君は、夢を見ない。
望むものはない、固執するものもない。
きっと、過去に整理をつける必要もない。
そんな君に、夢は不必要なんだろう。
それでもいつかは……
……いや、高望みしすぎか。
…………そもそも夢なんて、見ない方がいいのだから。
君が夢を見ることなど、想像もつかない。
どちらにしたって、いいこともない。
おやすみ、タスク。
良い眠りを。
夢なき眠りを。
何もない、『人生』を。
「うーん、たまには散歩に出るものだなあ!」
昼寝で元気になったアヤと共に、俺たちは再び散歩に繰り出していた。
海に面した桟橋。アヤが散歩する時は大抵ここだ。桟橋に身を預けて風を感じるのが好きなようだった。俺も、ここを散歩するのが好きだ。アヤの髪が風に揺られてきらきら輝いているのは、綺麗だと思うから。
「お前は、本当に海が好きなんだな」
「違うね、僕は『この海』が好きなんだ。訂正しておくよ」
「そうか、すまない」
今日は珍しいことの連続だ。朝に外出して、外で遊んで、さらに夕方に散歩をする……
アヤが健康になっていく兆しなんだろうか。喜ばしいことだ。
「久々に外出をメインにすると、僕の肉体のかたさを感じざるを得ないねえ。のびてみるかあ」
「……無理はするなよ」
「う……体……のびない……たすけて……」
言わんこっちゃない。無理してほぐそうとすると筋を痛めるぞ。
「ほら、腰さすってやるから……」
ちょっと間抜けなアヤに付き合いつつも、俺はアヤの発言の意図について思いを馳せていた。
アヤは言っていた。家の中から見る海と、近くで見る海は違うのだと。
海はどこから見ても海だが、波の音の大きさや海風の強さもまた海の重要なパーツらしい。アヤが一番好きなのは、ベッドルームで聞く遠くの波の音だそうだ。
俺は……よく分からない。どっちも同じものだと思ってしまう。
これを正直に話したところ、アヤには風情がないと笑われた。
よく指摘されることだからあった方がいいのかもしれないが、俺にはさっぱりだ。
それでも、夕日に照らされるアヤの横顔は綺麗で、波の音と共に髪が揺れている。滅多にない光景には、価値があると感じる。
これではいけないのだろうか。
……これで、いいよな?
「散歩してるとさ、意外と話すことがなくなるよね。それは脳の調子を整える上では重要なことらしいんだけど、僕は常に君との会話を欲しているからして……そうだな、たまには僕から雑学を喋ろうかな」
おや、これまためずらしい。
……アヤのいう『雑学』が最終的に雑学に着地したためしを俺は知らないけれど。
「9月23日は、昼時間と夜時間が等しくなる日として設定されることが多い。そうだな、僕は日本国籍の人間だから秋分の日と呼ぶべきだろうか」
アヤは左右でぴんと二本の指を立てた。よこよこと動かす様からして、等しい昼と夜を表しているのだろうか。
「それを中日として、前に3日。後に3日。これが日本における彼岸送りの日程だ」
今度は、3本の右手指と3本の左手指。
「人は、親しい者の死を悲しむことを是とした。此岸送り、盆、彼岸送り、ハロウィン、『死者の日』……あらゆる死者にまつわるイベントが存在し、いずれも今日まで大切にされ続けている。人類は、死を悼むのがどうも好きなようだ。……ねえ、タスク」
手の動きがぴたりとやんだ。
「親しい者が死んだら、本当に悲しまないといけないんだろうか?」
アヤは海の向こう側を見ていた。俺からは顔の表情を読み取ることはできなくて、ただ一つの言葉だけを……正解などおそらくありはしない問いを、投げかけられている。
「……それはアヤが決めることじゃないのか?悲しければ悲しいし、悲しくないなら悲しくない。それだけの話だろう」
「なるほど?」
「誰かが死んで、悲しんだり、空虚感を覚えたりするなら、その結果が全てなんじゃないか。たぶん……」
……実は、考えたことがなかった。親しい者が死んだら、悲しまなければいけないのかどうか。悲しむべきという常識があるのは知っている。知っているからか、考えるきっかけすらなかったように感じる。
「……俺の場合だと、アヤが死んだ後に俺がどうなるかって話……だろう」
「それで構わないよ。まあ、どんな死因でもいい。僕が死んだ後に、君は悲しむべきなのか」
「…………」
答えられない。だって、一緒にいるのが当たり前だと思ってるからだ。アヤがいなくなった後のことなんて、何一つ考えたことがない。
悲しむべきなのか?分からない。悲しむ義務があるのなら、従うべきなんだろうか。だけど感情に義務を課すのは、果たして正しいことなんだろうか?
「はは、ちょっと意地悪しちゃったな。ごめんね」
「いいよ別に」
時折思う。俺は妙なところで空っぽな人間だと。
空っぽだと感じたら、学んである程度埋めることは出来る。
でも、それでいいのだろうか。それだけで、本当にいいんだろうか。
「……いいと、思うか?」
「……何が?」
「俺は、このままでいいのかどうか。判断がつかないんだ」
「なるほど。なるほどねえ」
アヤは変わらず向こうを見たきりだった。風も凪いできて、アヤの後ろ姿から読み取れる表情すらも曖昧になっていく。アヤの感覚が遠ざかる。アヤを感じられないということは、アヤがいなくなるということで。
──もしこのまま、どんな顔か分からないまま終わったらどうする?アヤを感じ取れないまま、アヤとの時間が消え失せたらどうすればいい?
そんな嫌な予感が、突如として俺の内へと到来する。そうなったら、そんなことが起きてしまったら、どうしよう。俺に何ができる?何もできないのか?
──そんなことは、決して起こりえない。
そうだ、そんなことは起こらない。このままアヤはまた振り向いて、穏やかに笑ってくれる。それ以外の未来は、存在してはいけない。
「君はそれでいいんだよ。いつも通り、僕のことだけ考えていればいいのさ。それにね……」
果たして、アヤはようやく振り向いた。
──そこに笑顔はなく、何の表情も読み取れやしなかったけれど。
「変わろうとしても、もう遅いんだよ」
俺は、何かを言おうと口を開いたはずだった。
強烈な地鳴りと揺れが突如として押し寄せて、アヤの言葉と共にかき消されていった。
地鳴りに対処しきれず、俺は見事に転んで、慌てて上体を起こすと────
────世界が、割れていた。アヤの背後には、そうとしか表現できない光景が広がっていた。
空が粉々になって、世界に裂け目ができていた。裂け目からは強烈な光が漏れていて、光の向こうへと空の破片が消えていく。遅れて、大量の水柱。強烈な水音。そうしてまた地鳴り。──本当に前触れもなく水柱があがったな、なんてことを現実逃避のように考えてしまう。
地響き、轟音。非常識、非現実、見たことのない光景、ありえない光景、ありえてはいけない光景、この世のものとは思えない、凄惨で苛烈な────
なんだ、これ。何が起きている?
人間、あまりに非現実的な光景を目の当たりにすると固まって動けなくなるという。俺も例に漏れることはなかった。何が起きているのかは、分からない。だがこれだけは分かる。
これは本当に、やばいやつである。
だが、そんな中でも。
「……本当に来るんだ」
ぼそり、というアヤの独り言が俺の耳へと届いた。
そうだ、アヤの言葉はちゃんと聞こえる。これでいい。これが全てなんだ。何が起きているのかは分からないが、アヤに危険が及ぶことだけは避けなければならない。アヤを守るために何ができるだろう。せめて何か落ちてきた時に庇わないといけないか、あるいはアヤを抱き抱えてここから早く逃げるべきか、あるいは────
「それじゃあ、タスク」
「そうだな、アヤ────」
「バイバイ」
視界のど真ん中に据えられた、銃口。口径9mm。銃口に遮られて見えない、アヤの表情。
それが、俺が見た最後の光景だった。
?-??? --- ??-?? --?-? ?-?-- -??-? --?-? ?-?? -? ?-?? ?? ?-? ?-
この結末、お前はどう思う?
……分からない。
分かるわけがない。全てが唐突で、判断も何もあったもんじゃない。
結末は受け入れるということか。
だって、今はそれしか選択肢がない。
……他の選択肢があるなら、お前はどうする?
あるなら、見たい。知りたい。理解した上で、選びたい。何故こんなことになるのか、どうして世界が壊れるのか、何でアヤは俺を……
……俺を殺したのか。
俺は、真実を知りたい。
俺は、この先に踏み出したい。
ならば、足掻く他ないのだ。
何が起こるかなど、分からない。
辿り着き方すらも不明瞭で、そもそも何を知らないのかすら、知りえない。
それでも、俺はこのままじゃ終われない。
待っててくれ────
「アヤ……」
俺が伸ばした手は中空を掴み、そのまま布団へと落ちた。
寝起きでまだ目のピントがあっていない。ピントを合わせつつゆるりと視線を動かすと、そこには鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしたアヤが、ぽかんと呆けていた。
────だが、俺も同じくらいの呆け顔をしていたかもしれない。
「寝起きにも名前を呼んでくれるなんて、なんともロマンチックじゃないか。
ねえ、タスク?」
は、
え?
「どうしたんだい?固まるなんて君らしくもない。」
アヤが俺の額をつんつんと突いてくる。変わりないアヤ。俺をからかうのが好きなアヤ。そして俺を─────突いてきたその手で、引き金を引いたアヤ。
辺りを見渡す。世界が割れたとはとても思えない、平穏な朝。
まだ何も起きていない、日は登っていても薄暗い朝。
「うーん、もしかして寝ぼけ気味というやつ?ちゃんと眠れたかい?あるいは夜更かししちゃった?よくないなあそういうのは。ははは」
この世に絶対はない。あるとすれば、絶対はないという絶対だが、これも覆るかもしれない。
だが、この絶対が覆ることがあるとするなら、それは────
「……昨日は6時に起きたか?」
「はあ?何ありえないこと言ってるんだい、立派な昼起きなのは君が一番分かっていることじゃないのか」
アヤから視線を外すと、大量にたまった洗濯物。
「そうそう!今日はなんとチョコレートの仕入れがはいったらしいんだ。もらいに行こうよタスク」
珍しいことは、いくつも重なれば偶然の一致で済まされなくなる。
おそるおそる、アヤの向こうの電子時計を見る。
自分の中の感覚が信じられないから、外の情報を参照する。
9月23日、6時14分。
何が起きているのか分からなかった。しかし、何かが起きて、こうなっていることだけはよく分かった。信じる信じないではなく、目の前に存在する現実は受け入れなければならない。
タイムリープ……そんな言葉が自然と思い浮かんだ。
それは、奇跡。あるいは、不可能の産物。決して叶わぬ夢物語の象徴。現代において絶対に存在し得ないとされる、過去への旅。
奇跡は結実に。不可能は可能に。夢は現実に。存在してはいけない条理によって、俺は今ここにいる────
────9月23日18時00分の「未来」から、9月23日6時14分の「今」へと。
帰ってきたのだ。全てが始まる朝に。
…………どう、しよう。
「……とりあえず、髪縛ろうか」
「うん。いつもありがとう」
「こちらこそ、今日もありがとう」
今日が、9月23日が始まる。昨日とは決定的に違うことを知ってしまった、既知の1日が。決して二度となぞることはできなかったはずの、1日が。
それでも、奇跡によって与えられてしまった確かな1日が。
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