第2話:チョコレートデイズ
俺たちがここで暮らし始めたのは1年前だ。海に面した、寂れた港町。俺たちの会話を除けば、ほとんどの音は波の音で構成されている……控えめに言っても、何もない場所である。
いかにも不便……というか、実際不便なこと極まりないのだが、静かな環境と美味しい空気が欲しいのだとアヤは言っていた。
アヤは、浮世離れ、生活破綻者、掴み所なしの三点が揃った……まあ、人間としては少々ズレている人だ。そして、小さい頃から病弱。今も複数の病気を患っている。
世間から外れまくっていることを自覚しているのかどうかは分からないが、本人としてはここに骨をうずめる気満々らしい。こんな何もないところに。船すら寄りつかない、見捨てられたといっても過言ではない場所に。
そもそも、骨を埋める……だなんて不謹慎なことは言わないで欲しいものだ。死ぬ病気じゃないんだから。
そう伝えれば……
「そうは言っても人はいつか死ぬものだし……ねえ……」
と言って憚らない。
まあ、そうなのだが。そりゃあ、誰だっていつかは死ぬけれど。
彼は希死念慮が強いわけではない。でないとこんな辺鄙な場所に来てまで療養を選ぶはずもない。
だがしかし、生きることに対してどうにも執着がない。そもそも生きたいと思ってるのかもよく分からない。
手を掴んでやらないと、気がつけばどこかに行ってしまいそうな人。
目を離した隙に、影さえも消えてなくなりそうな人。
それがアヤだ。
一方、俺。俺は……何だろう。小さい頃から一緒の……幼馴染?
気がつけばアヤの同居人兼家政婦兼介護士になっていたから、関係を整理するのはちょっと難しい。
だが、ただ一つ言えるのは、俺にとってアヤは大切な存在だということだ。
アヤもそう考えているから俺と一緒に過ごしているのだろう。
と、思う。
『この世に絶対はない』
『あるとすれば、絶対はないという絶対だが、これも覆るかもしれない』
これが、アヤの口癖というか、モットーのようだった。絶対的な何かというのは、確かに存在しない。
でも、それを言い始めたらアヤと俺の関係も絶対がない。それはあまり考えたくなかった。現に……
「幸せだ……」
目の前でチョコ片手にとろけているアヤを見ているとどうでも良くなってくるし……
「美味しいか」
「美味しい……生きてるって感じがする……」
「普段からもっといいもの食べて長生きしろよ」
海辺のカフェスペース……とはいっても、店が建っているわけでもなければ屋台が出ているわけでもない、単に白いデッキチェア二つと白いバルコニーデスク……1組のテーブルセットがぽつねんと置いてあるだけの謎の場所。
俺たち以外誰も来やしない「カフェ」は、外で話をする時の俺たちの溜まり場のようなものと化していた。
アヤは、噛み締めるようにチョコをかじっている。
とはいえ半分以上は既になくなっており、健康のことを考えるとそろそろストップをかけるべきなのかもしれないが……
「……ふふふ……」
アヤは夢中でチョコを食べており、それを邪魔するのは……どうにも申し訳ない気持ちになる。そもそもアヤがかわいい。かわいいなこいつ。
「……まあ、いいか」
アヤの言う通り、チョコが届くのも随分と久々だ。
ここは随分と辺鄙な場所だから、欲しいものが足りていないことは何度か起きている。
我慢しないことも時には大事だろう。
それにしても、と俺は周りを見渡す。この港町を憂う。
最初はここまでの寂れ具合ではなかったはずだった。静かな場所といえどそこそこの行き来で賑わっていたし、掃除をしてくれるやつ、海を泳ぐやつ、色んなやつがいた。
しかし、気がつけば俺たち二人を除いて皆いなくなってしまったのだ。
「ここも、前みたいに賑やかにはならないんだな」
「うん。そればかりはもう仕方ない。ここの宿命ってやつだね」
随分あっさりしたものだ。アヤらしいといえばアヤらしいが。
「お前は賑やかな方が好きだと思っていたけど」
「そんなこと言ったっけ?」
ふむ、とアヤが首をかしげる。こういう時は、あれだ。この話題に興味がある時だ。ここぞとばかりに俺は乗り出す。
「言ってはいないかもしれない。だが、人と話すのは嫌いじゃないとは言っていた。それとはまた違うのか?」
「なるほど。ではその認識を改めてもらう必要がありそうだ」
アヤは、ゆるく腰掛け直し、手をそっと俺の手に重ねる。
「まず、僕は静かな方が好きだ」
アヤの中指が、と、と、と、と俺の手を叩く。
「結局、騒がしさの90%ぐらいはかろうじて無視できる無価値なもので、9%は確実に僕に害なす面倒ごと……」
指はくるりと俺の手の甲に丸を描き……
「1%は早々にこの世から消し去るべき害。そういうものだよ」
パッと離れていった。ちりちりと指先で何かをすり潰すような動きを添えて。
ううむ、それで100%か。ならもう何も言うまい……
「それと、僕はタスクと話すのが好きなんだ。ここは勘違いするべきじゃない。僕にとって、タスクの声以外の音は全部無価値だ。君だって同じだろう?」
微笑むアヤは、ゆるりと首をかしげ、俺を上目遣いで見上げていた。
身長は同じはずなのに、彼の姿勢が悪いせいかいつも俺を見上げている。そうやって見上げられると俺が弱いことも、多分理解されている。
それにしても、俺の声以外の音は全て無価値ときたか。随分と大きな勘違いをしていたみたいだ。だが……
「お前も認識を改めないとな。お前の心臓の音も俺は好きだから、そこは同じじゃない」
声なんて、多少遠くでも聞こえるものだ。環境が揃えば地球の反対側にいたって聞くことができる。
でも、心臓の音は格別だ。アヤが絶対に隣にいるという、確かな証だから。
「むー……」
だが、そんな俺の思いにどうもアヤは不満そうである。何故だ。
「負けた気がする」
「何に」
「タスクと己に」
「何を」
はぁーあ、と大きなため息をつきながら、アヤは机をダンと叩いた。どうにも管巻きたいことがあるらしい。
「考えれば分かることだ。僕は君の声に価値があると言った。君は、僕の心臓の音にも価値があると言った。これで比較する場合、僕は声音以外の君の体が発する音に価値を見出していないことになってしまうだろう?」
ふむ、確かに?
「それは良くない。良くないし……僕の君への好意の表明が誤っていたというのも……」
……確かに?
「……そう、良くない」
…………。
「語彙のキレが足りないな」
「はあ?いいじゃないか、僕とてこういう日はある……」
いや、とアヤは指先をわしわし動かし始める。何かに気付いたようだ。
「違うな。君は事あるごとに僕の不健康を労っ……もとい、なじってくる。良くないよ?こじつけて非難するというのは」
「どうだろうな?実際のところ、運動不足で栄養不足は脳不足になるっていういい例だろうに」
「おやおや、僕が脳不足なら君は何だ?容量不足か?蓄えるだけが脳じゃあないよ、知識バカ君」
「む。じゃあお前は思考バカで屁理屈バカだ」
「そうだとも。僕は思考バカで屁理屈バカであるが故に君の反論を全てはたき落とす準備がある。が……」
アヤの指先の動きが大人しくなる。これまた、何かに気付いたらしい。
「よく考えれば僕はタスクと僕自身に負けたことへの見解を述べていたんじゃなかったか?何故今知識バカvs思考バカの対立構造になっているんだろう?」
ふむ、と俺も考えてみる。しかして、特に考える意味はないだろうと判断する。
「そうだな。まあ発言の飛躍はよくある事だよ」
「いかんせん、自分が過去に何を言ったか然程覚えられないものでね……」
「俺が覚えてるから大丈夫だ」
「それもそうか。じゃあいっか」
でさ!とアヤは切り返してくる。
「馬鹿と言った方が馬鹿という子供の常套句があるらしいが、あれはどういう理屈で発生してるんだろうね?」
「なんだその……定義の無限ループ起こしてクラッシュしそうな理論……」
「うんうん、僕もそう思う。がしかし、最初にこの発言がなされた時に人は一定の納得を得たから残ってしまったということだろう?」
「それはそうだな」
「一見どころか明らかに非論理的だが、人はこういう言説を好む。僕には分からないが、最近は少し面白いと思い始めているんだよ」
「お前が面白いと感じるなら良いことだな。気になるのか?人の非論理的な言動が」
「タスクなら、人間の非論理的エピソードがいくらでも話せると踏んでいる。どうだろう?」
「はは、腕によりをかけて話してやるよ。人がいか~に訳わかんないものかをな」
何もない辺鄙な場所において、俺たちの生活を彩るのは会話だ。
アヤは、この通りに話がどんどん逸れていく。言い換えれば、会話がどこまでも発展するということで。
対して俺は、話をどんどん繋げられるほど頭の回転が早いわけじゃない。その代わりに、知識量については少し自慢できる。
だから、アヤの話を聞いて、促して、知識で応える。俺たちの話はいくらでも続いていくし、話に飽きるなんて想像もつかない。
かつて、アヤが俺に話してくれたことがある。
『いいかい、タスク。会話とは、相手のことを理解できる素晴らしいツールだ』
『僕は、君のことをどこまでも知りたい。君も、僕のことをどこまでも知ってほしい。そう願いたいから君との会話がやめられないし、それが叶っているから明日も君との会話を望むんだろう』
『無論、これは理想の会話像でしかないのだけどね。でも、君にはどんな理想を抱いたって許される。違うかい?』
微笑みの向こうの信頼を確かに感じたことを、俺は覚えている。
アヤは会話を強く望む人だ。それを叶えない理由はない、いくらでも付き合おう。朝から晩まで、たとえ夢の中であっても。
そうして俺たちの1日は作られていく。何もない場所だけど、アヤがいるから大切な場所だ。
「いやあチョコ美味しかった。良かった」
「アヤ」
「なんだい?」
「包紙をその辺に捨てるな。俺が持って帰るから」
「はーい」
……まあ、彼に色々問題があるのは確かだけど。
でも、それでもいい、支えてやりたいと俺が願うのならそれが全てだと。そう思うのだ。
「前はゴミ拾いしてくれたやつがいたけど、今は俺しかいないんだから気をつけような」
「はーい」
「その『はーい』って言ってる時は絶対に守らないって分かってるからな」
アヤが、ぽいと包紙をパスしてくる。ノーコンと評価するにふさわしいその投球を俺は慌ててキャッチする。
「だけど許してくれるんでしょ?僕も分かってるからね」
俺のことを見据えてくる、それでいて無邪気な笑顔。打算と純粋が入り混じった、彼にしか出来ない表情。
「そう、かもしれないし、そうじゃないと言い切ることはできないが」
それらに俺は弱い。こう言うとさらに彼の笑顔はパッと花開くのだから、これもまたコンボで繋がってくる。
俺は弱いのだ、あまりにも……
「やったね。そして、君はこれからのお願いも聞いてくれると信じているんだけれど……」
「なんだ?そう言われると何が来ても断りづらいな」
アヤの指先が、くるくると。
よほど頼みづらいのか、あるいは慣れないことを言おうとしているのか。
だが、続いた言葉は大したものではなかった。
「海で遊びたいんだ。久々のチョコレートデーだし、こういう日があってもいいだろう?」
……あまり聞かないお願いではあったけれど。
海で遊ぶ、か。確かにインドアを極めたアヤらしくない提案ではある。
しかし、そうだな。
「お前の体が大丈夫なら問題はない。行こうか」
「ありがとねえ」
アヤが俺の手を握り込む。俺はそれに従う。
二人一緒に、手を繋ぎながら海へと歩いていく────
よろしければ、ブックマーク、いいね、感想、評価のほどよろしくお願いします。