第19話:スモークグレイ
アヤを探すのに、時間はかからなかった。
家の裏手、日の光が届いているところを見たことがない暗がり。
そこでアヤは何をしていたかというと……
「……お前、隠れて吸うことないだろう」
「……」
煙草を吸っていた。紙ではなく、細く洗練されたフォルムの電子煙草。
アヤは喫煙者だ。こんなに不健康なのに喫煙をしているのは本当にどうなんだろう。
最近は全然手をつけてなかったから、禁煙に成功したのかと思っていたのだが……
「非喫煙者の君に配慮して隠れて吸う、何も問題はないんじゃないか?」
「お前の健康に問題がある。喫煙はお前の寿命を縮めるし──」
「確かに。パッケージにも堂々と書いてある……分かりきったことだ」
アヤは指先でくるくると電子煙草を回してみせる。その姿は様になっているが、かっこいいから、大人っぽいから、というイメージの向こうにある現実を直視しないわけにはいかない。
「分かっていても、やめないのか」
「そうだよ。気ままで、飽き性で、我慢ができない。僕はそういうものだからね」
確かに、アヤはそういう人間だ。気ままで自分勝手。飽き性だけど熱中すると周りが見えなくなってしまうし、自分に素直すぎる。だから我慢もできない。
……だから煙草に手を出すのか?それ自体は自然な流れかもしれない。
だからといって煙草を続けてもいいのか?それは……また別の話であるはずだ。
「さっきは、君のダメなところを自分の意思で確認してしまって、勝手に嫌な気持ちになってしまったからね。そんな自分を恥じているところだったんだ。こういう時は煙の力がないとやってられないねえ」
俺の、だめなところ。シャワールームでの出来事をぼんやりと思い出して、ううむと俺は首をかしげる。
「……別に良くないか?俺がダメだというのなら、お前は何を気にすることがある?」
「君には分からないだろうけど、そういうこともあったりするんだよ」
ふぅ、とアヤが白い煙を吐く。その中に含まれている有害な物質がどれだけアヤの肺を蝕んでいるのかを考えれば、今すぐにでも右手の電子煙草をはたき落とすべきなのだろうが……
「それは困る……うん、困るな。お前には健やかでいてもらいたいんだ。それがアヤ自身の行動で侵されるのは、困る」
「まあ、君は困るんだろうね。でも僕はこれで納得しているわけだし、君が粘り続ける理由として弱くはないか?」
……そうかもしれないけど。でも、引き下がりたくはない。俺はどうすればいいのだろう。
「もちろん、これは僕たちの生活だからね────」
アヤが一歩俺に近づく。
「────副流煙が嫌って言われたら、検討するよ?」
視界が白くけぶる。続いて、アヤの笑う顔が見えてくる。
理解する。煙草の煙を吹きかけられたのだと。
ニコチン、タール、そして一酸化炭素。人体に有害な成分が、俺の鼻をくすぐる────
「……やっぱりダメだな、こういうところが」
……はて。
「……えっと、何がだめなんだ?」
「君にはどうしようもないことだよ」
何がどうしようもないことなのかは分からない。でも、絶対に俺が理解できない領域の話だというのなら、アヤの好きにさせるべきなのだろうか。
「……お前が喫煙なしに生活できないなら、俺も考えてみるよ」
ふむ、とアヤが首をかしげる。
「……例えば、どのような?」
例えば、何があるだろう。だが、ここまで来たら考えるまでもないだろう。
そう、それこそ例えば、このような。
「許す、とか…」
「…………」
アヤの視線は────冷たかった。表情が欠落しているだとか、そういうものでもなかった。
「君さあ。本当にそれでいいと思ってるのか?」
そこにあったのは、紛れも無い────怒りだった。
「何が────」
「さっきまで喫煙反対派だったんだよね?それなのに許してくれるの?折衷案や禁煙策を出すでもなく?全部許す?」
ぎり、と歯軋りする音がして。アヤは乱暴に電子煙草をポケットへと突っ込んだ。
「馬鹿か君は!本当に馬鹿なのは知ってるつもりだったがここまで来ると笑うのも難しい!」
「……でも、お前には必要なんだろう?」
だから、許すべきなんじゃないかって。そう思い直しただけなんだよ。
「そうだとも!だがそんな話を今はしていないんだ分かるか、分からないだろうな君は!ああもう、吸った直後なのに気分最悪だ、勘弁してくれ!」
……そうだよ。分からないよ。俺は何も分かっちゃいないよ。
何も分からないけど、どうして分からないのかも、分からないけど。
それでも、俺は。俺は────
「え、なに。何で手掴むの。仕返し?」
俺はアヤの右手を掴んでいた。
「俺は、何をすればいい。俺には何が出来て、何が出来ないんだ?」
問いかけるためか?だが、問いかけるだけなら手を掴む必要などありはしない。
「お前のために、何が出来る?」
アヤの手を掴まないと、置いていかれる気がした。
それで、理由としては十分じゃないか。なあ、アヤ。
俺を、おいていかないで。
「……君が僕に出来ることはこれで全部だよ。素敵な同居人、僕の生活を支えてくれる家政夫、生きようという意欲に欠ける僕を維持してくれる介護人……君はそれ以下でしかなく、これより上にはなり得ない」
「昨日までいつも通りだったじゃないか」
「うん、そうだったかもね。でも今朝気が変わったよ。今はもう荒んでしまってどうしようもない」
掴む手に、やわくアヤの爪が突き刺さる。かり、と引っかかれる感触。
「そっちこそ、昨日までいつも通りだったじゃないか。何で自分から、僕の意思に関係なく行動するようになった?それでもなお僕の意思を全肯定するのは何故だ?君は今、どこにいるんだ?」
何の、質問なんだ?何を聞かれているんだ?
「……それが、不機嫌の原因か?俺は、ここにいるよ」
「ああ、本当に意味のない質問をした…………もう一度落ち着くか…………」
アヤは左手をポケットに突っ込み、もう一度電子煙草を握りしめる。電源をいれ、じりじりと蒸していく。
大きく吸って、大きく吐く。煙が俺たちを包み込む。副流煙には有害な物質が含まれていて、嫌な臭いがするものだ。アヤは、苦しくはないのだろうか。喫煙者本人は、気にならないものなのだろうか────
一服することで落ち着いてきたようで、アヤはもう一度静かに語り始める。
「……宣言しよう、これはテストだ。君を試すものに過ぎない」
「……ああ、なんだ?」
「9月23日は、昼時間と夜時間が等しくなる日として設定されることが多い。僕は日本国籍の人間だから秋分の日と呼称しよう」
「!」
それは、全てが始まる前にアヤが問いかけたものだった。
そして、俺がアヤに問いかけたものでもある。
「それを中日として、前に3日。後に3日。これが日本における彼岸送りの日程だ」
電子煙草片手に、アヤは器用に手の指で3を作ってみせる。
「人は、親しい者の死を悲しむことを是とした。此岸送り、盆、彼岸送り、ハロウィン、『死者の日』……あらゆる死者にまつわるイベントが存在し、いずれも今日まで大切にされ続けている。人類は、死を悼むのがどうも好きなようだ……ねえ、タスク」
そうして電子煙草をポケットへとしまって、彼の左手が俺の握る手へと重ねられる。
「親しい者が死んだら、本当に悲しまないといけないのかどうか。僕はずっとこのことを考えている……今の君は、僕の出した答えと君の出した答えを、持っているんじゃないか?」
どうなんだい?アヤの右手と左手が、俺の右手を強く握りしめ合う。
……そうだ。俺はその答えを両方持っている。
「……悲しまなくていい。俺が死んでも、お前は悲しくないんだろう」
「……うん、それで?」
「俺はその答えを出せないから、アヤの答えが間違っているかどうかは分からない。これでいいのか」
アヤはにこりと微笑んだ。
「……僕の分は正解だね。君がまだ答えを出せないというのも……かわいらしいものだ。それでここまで来ちゃうなんて、可哀想に」
アヤは俺の手を優しく撫でる。さっきまであんなに苛立っていたのに。怒りすら滲ませていたのに。煙草ってのは、そこまで精神の安寧に貢献してしまうものなのか。
俺じゃ、そうはなれなかったとでもいうのだろうか。
「はてさて、何で知ってるのかはさておき……」
だが、その優しい手つきもすぐに終わる。アヤの右手と左手、その指先が、爪先が、俺の手へと食い込んでいく。
「それでも、僕のために何かしたいんだ?」
何かしたい?それはなんだか違う気がする。これは願望なんかじゃない。
願望なんていう、│不確かなもので《・・・・・・・》│語れはしない《・・・・・・》。
「それしか、ないというか……」
そうだ。それしか俺には、ない。それ以外の道なんて、俺なんて、考えられるはずもない。俺は、タスクだから。
「だから君はダメなんだ」
──俺が、タスクであることが、ダメなのか?
「そういうわけだからさ。手、ほどいてくれない?」
でも、いや、だからこそ。
俺は、どうしても、俺でいたいのだ。わがままでごめん。お前のためと言いながら、俺のために行動するような、悪い子でごめんなさい。
俺は、アヤの手をいっそう強く握りしめた。
「逃げよう」
「……は?」
「俺は、アヤのことを何も知らない。気づいてしまったんだ。確かにアヤの言う通り、俺は狂ってしまったのかもしれない」
そうだ。狂ってるかどうかを決めるのが他人だと言うなら、俺にとっての他人はアヤしかあり得ないのなら、アヤが俺の行先を決めるのだ。俺が狂っているかどうかを決めるのは、アヤ以外いないのだ。
俺が本来なら知り得るはずもないことに近づいて。俺が本来なら取るはずもない行動を取ったのなら。そしてアヤがそれを狂気だと断ずるのなら。
俺はとうに狂っている。タイムリープなんてものに飛び込んだその瞬間から。
「でも、そんなのどうでもいい。俺はアヤの隣で、アヤと一緒にいられるなら何だって構わないんだ」
だが、狂ったとしてもその本質だけは変わらない。これが俺の全てだ。比類なく、比喩ではなく。だから、俺はアヤの手を握りしめる。狂っていようといまいと、俺はそうするべきだから。
「……はは」
アヤが左手で腹をおさえる。
「っははははははあははははは!これだから君はダメだ、本当にダメだ。何も分かってないみたいだけど、それでこその君かもしれないね?君は今『そこ』にいるんだ、分かってきたよ」
何かが可笑しかったのだろう。アヤは腹を抱えてひとしきり笑った後、はーおかしいとぼやきながら俺に微笑みかける。
「それで?逃げるってどこへ?僕は何をすればいいんだい?」
その声には、ワクワク感すら滲んでいたように感ぜられた。
「この後、世界が壊れる」
「うんうん、そして?」
「……その後は、分からないけど。でも俺はお前を守る、一緒にいる。絶対に」
なるほど、とアヤは左手を顎に当てて考えてみせる。
「そっか。世界が壊れる……君にはそう見えるわけだ」
「だから、逃げよう」
「しかし、逃げる……ねえ」
アヤが右手をぐっと引く。つられて俺は引き寄せられる。
アヤの顔が、鼻先が、俺の鼻先とすれ違って。
────アヤは変わらず笑っていた。くすくすと、本当に可笑しいとでも言うように。
「これ以上の逃げ場所なんて、ないのに?」
轟音が鳴り響く。地面が揺れ、俺はまたバランスを崩し──アヤの手を握りしめたまま転んだことに気づいて、慌ててアヤの下敷きになる。
呆然としながら空を見上げれば────
────世界が、割れていた。
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