第17話:レッドアラート
シャワーが降り注いでは、びちゃびちゃとアヤの体を伝って落ちていく音。扉が開かれたことで一瞬クリアになった視界も、やがて白く煙っていく。
俺は腕をアヤに掴まれて、狭いシャワールームの中に閉じ込められていた。アヤの瞳が、この世で最も美しいはずのものが、間近で俺を見据えている。
「アヤ……?」
「……シャワールームって、二人で入ると密着できていいね。一人用だから当たり前なんだけどさ」
一糸纏わぬアヤの姿。日焼けと縁がなさそうで、筋肉も脂肪もろくについていなくて。シャワーで体温が上がって火照っているのに、生白さが拭えない。
浮き出た鎖骨まで伸びた髪から、ぽたりとしずくが垂れて薄い胸板へと。
「……何が、したいんだ?」
「何も?そういう気分というか」
俺の体がみるみるうちにずぶ濡れになっていく。湯温を逃さないための空間が、俺の体温を上昇させていく。
────本当に細く薄い体をしているな。アヤの体に対して、そんなことを思った。折れてしまいそう、羽のように軽い体。不健康で華奢な体に対して適切なのかは分からないが、そういった表現が頭の中を駆け巡る。だが、それも降り注ぐシャワーによって優先事項から外されていくのだ。
俺の手首を掴む力はどうにもか弱く、肉付きの悪い彼の手首が水に濡れて、余計に白く見える。
それでも、俺は振り払うことができなかった。
「……あの、シャワーとめてくれないか」
「やだ」
「じゃあ、水シャワーに……」
「僕は冷水を浴びる趣味を持っていない。却下」
頭が、くらくらしてきた。あつい。水。水がじわじわと服に染み込んでいく。重たくなっていく。
逃げたい。逃げなきゃここから。でも、どうやって?アヤの手を振り払えないのに。
「手、離してくれないか」
「なんで?君なら僕をどうにかできるでしょ。こんなか弱い病人の力なんてたかが知れているのにさ」
「それは……そうなんだけど」
「じゃあ、このままだ」
ようやく、アヤが笑った。間違いなく、笑顔にカテゴライズされるものである。だが、それ以上のところに辿り着けない。日頃の微笑みや、ゲームプレイに全力を出していたものとは明らかに違う、でも……
……それだけだ。何が違う?どこが?何故?何をもってそう感じたのか?分からない、分かるはずもない、だって、俺は、今、おかしくなっている最中なのだから。
おかしくなる。思考が千切れていく。いかれそうになる。まずい。いやだ。
「はなしてくれ」
「嫌だよ」
「どうなるかわからない。アヤを傷つけるかもしれない」
「今日の君は全部変なのだから、今更じゃないか?可笑しさも変も飛び越えて、もっと狂ってしまいなよ。飽きるまでは見守ってあげるからさ」
俺の手首を掴む力が強くなったのを感じる。かり、と俺の肌にアヤの爪が立てられる。ああでも、強くなったところでアヤの握力なんてたかがしれているのだ。爪だって、俺がこまめに切っているから肌を傷つけるには至らない。その程度の力で、俺は縫い止められている。
────何で?どうして俺はここから抜け出せないんだ?湯気でアヤの顔がはっきりしなくなってくる。あるいは、俺が本当にどうにかなりつつあるのか。アヤは、教えてくれるのだろうか。聞いたら、答えてくれるのだろうか。
「狂うって、なに」
「君が君でなくなること」
俺が、俺でなくなること?どうして、なんで。俺は……
「俺は、ずっと『俺』だよ」
アヤはぐっと顔を俺に近づけた。シャワーで濡れぼそった前髪が俺の鼻をくすぐる。
「僕からしたら、君はもう『君』じゃない。狂ってるかどうかを決めるのは他人なんだ」
アヤは俺の首筋をつつ、となぞってチョーカーを────アヤにもらった『首輪』を────とんと叩いた。
「そういうわけで狂ってる君も見たいけれど……これまで通りの可愛い君の方が好きだからどうしたものか。ねえ、僕はどうすればいいと思う?」
アヤは笑っている。きっと。さっきまで笑っていたなら、今もそうだ。何でわからなくなってるんだろう。でも、そんなこともどうでもいいか。そこにいるのは分かっているんだし。
ならばせめても、目の前にいるアヤに手を伸ばしておけば良いのだと、頭の中の俺が警告を鳴らしている。
どうせ狂うのなら、アヤの近くでおかしくなればいいんだ。近づいちゃいけない理由なんて、あるはずもない。俺はタスクで、お前はアヤなのだから。
もっと近づけ。アヤとの距離がゼロであるのなら俺の本望なんじゃないか。
もっとトんでしまえ。アヤはもっと刺激が欲しいのだから、俺が何をしたところでアヤは受け入れるんじゃないか。それこそ、飽きるまでは見守ってくれるんじゃないのか。
いっそ壊れてしまえ。従順にアヤを追いかける俺なんて。
超えてはいけない線を超えたって、それもまた俺の選択で、アヤの望みの一つなら、別に……
別に、なんだ?結局、狂うってなんだ?アヤの考える狂った俺とは、どんなものなんだ?今の全てが狂っているというのなら、俺は狂ってない俺との判別をつけられそうにない。ならば別の、違う、何が違う、ああ、分からない、分からなくなっていくんだ、本当にどうにかなっているんだ、俺は。
思考がぐちゃぐちゃだ。まとまらない、結びつかない、だめかもしれない。
そうだ、暑いせいだ。ずっとシャワーを浴びてるせいだ。間違いない。きっとそうだ。そのはずだ。そうだよな?
────それだけか?アヤの言動でおかしくなっている俺など、あり得てはいけないから、原因を別に探しているんじゃないのか?
────それは、誰にとって?『タスク』?『アヤ』?何で、あり得てはいけないんだ?思考が止まる、これ以上進めないのは、何で?
知ってはいけないものが、あるのか?知りようのない領域なのか?……知らぬふりを、誰かが、自分が、していたいと、するべきだと、思っているんじゃないのか?それは、何で?
ああ、だめだ、本当にだめだ。これ以上は本当にだめなんだ。
「だしてくれ」
「ありきたりだねえ」
一笑にふして取り合ってもくれない。アヤの左手が、俺の濡れて張りついた服の下へ、指先で少しずつかき分けながら滑り込んでくる。シャワーで温まっているはずの手はひどく冷えていて、場違いにもまた彼の健康のことを考えて、そして、今はその意味もなくなりつつあることにまた一つ頭を殴られたような気がした。
「体、熱いね。これ以上熱くなったら火傷しちゃうかも」
「アヤがやけどしたら、いやだ」
「でもこのままだと僕は大火傷だ。扉をあけるとは、そういうことなのだと思うけど」
「それはちがう、ちがうよ……」
どうにかしないと。アヤを傷つけてしまう前に、どうにかなってしまう前に、間に合わなくなる前に。俺が壊れて、手遅れになって、どうにもならなくなる前に。
────言葉を。懇願を。乞うための音を。
「アヤ、たすけて」
しばらく、シャワー音だけが響いていた。
「……いいよ、助けてあげる。ほら」
扉が開かれる。閉じ込められていた蒸気がぶわっと外へと流れ出して。俺の体はとんと押されて──それも弱々しい力で──シャワールームの外へと。
ぱたん、と扉が閉まる。きゅ、と水栓を閉める音と共に、シャワー音すらも聞こえなくなって……
……静寂が訪れた。
…………
熱気から解放されて、徐々に冷静さが戻ってくるのが分かる。
何だ、「たすけて」って……俺がアヤを助けないといけないのに……
とりあえず何をするべきかを最初に考えた時に、このぐしょ濡れになった服をどうにかすることだと思った俺は、脱いだ勢いのままに服を洗濯機へ放り込んだ。タオルで全身の水を拭き取って、これも放り込む。既にアヤの服もシュートされていたので、ついでに洗濯機を回す。やりかけだった洗濯物を干す行為を、ひとまずやり遂げる。
……まだ自分の体が熱い。
この洗濯が終わるまで、何を……していようか……
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