静謐
AM. 6:30
永遠に紡ぐ縹の天。
青藍穿つ白き薙刀。
無色透明の澄んだ空気を織る深緑豊かな郊外の様。
西洋情緒に富むこの旧市街の名を、歴史書はグレースカクテルと謳い、この町は今や世界遺産の目録に並ぶ一人だ。
リズミカルな歩調を刻みたくなる石畳の通り。
バロックの様式美と自然の恩恵が描き出すこの町は、朝の紅茶を嗜むのに剴切な香りを醸している。
クラシックな金風に乗った子供たちの和気藹々たる声や、偕老同穴の夫婦の談笑、老若男女の会話、ストリートピアノの跳ねるような音色が、十重二十重に折り重なり、グレースカクテルの活気を彩った。
ある少年の途は、始発の近郊列車と乗合バスを接いで、ここグレースカクテルのタイルへ編まれていた。
英国のロンドンバスを模した二階建て構造のバスを降り、石畳の地にブーツでキスをする。
朝まだきの肌寒さに鋭い吐息を漏らす。
黒色のパーカーはオーバーサイズ。大きなフードを目深に被り直した。
有明というのに四通八達を呈す大通りに、少年の欠伸は消えていく。
品のある活気の下を、少年は歩いた。
五分くらいの徒歩。
城のような噴水を主とする広場に到着。
噴水の手前に設置された、嫋やかな女体を思わす流線形のベンチの前へやってくると、片手でかき上げるようにフードを脱いだ。
どこか青みがかった銀の髪に黒色のインナー。黒色のメッシュも走っている。
女性のように上の髪が長く、髪型は一見ボブのようにも見え、自由な毛先が可憐さに拍車をかける。
見えるうなじは雪のように純白で、十字架のピアスが旭日に目を細めた。
腰を下ろす。
反動で澄んだ銀髪がふわりと上がる。
家々をかいくぐってきたそよ風に戦ぐ艶麗で白色の睫毛。
触れれば消えてしまいそうなほどに透き通った夢幻泡影な美白。
右眼には泣きボクロ。色気に富んだ艶やかな瞳。
整った端正な、女神のごとき面差し。
そんな美しすぎる顔立ちと髪型がゆえ、さながら美女が男装をしているかのよう。
「終電乗り遅れたんですけど」
性別が判らないほど掠れた特徴的な声。
マフポケットに両手を含めて、俯きながら不意に言葉を発した。
朝の寒冷を乗せた色なき風が、両耳に下がる透明な十字架を揺らす。
「おや、それはなにより」
遅れて新聞を捲る音が聴こえる。
「人間が生命活動をギリギリ維持できないくらいまで皮膚剥ぎますよ」
「私そんなに酷いこと言った?」
妖艶な瞳を細めた少年が、同じベンチに坐るもう一人の人物を睨んだ。
少年の睥睨が指すその人物は、組んだ膝の上で豁然と英字新聞を広げていた。
色艶のよいトップハット。
背まで伸びたボリューミーな長髪は四方八方に跳んでおり、エクリュの色と亜麻色が入り混じる様は絵画のように美しい。
左の眼窩に嵌めた瀟洒なモノクル。
知的な印象を抱かせる綺麗な顔立ちと黒色のトレンチコートはよく似合っていると言えよう。
スフェーンのごとき輝きを持つ切れ長の瞳を細めて、羅列した英語を黙読していた。
「それにしても、モカほどの腕だ。スマホで分散させる必要はなかったんじゃないかい?発想自体は実に面白かったけれどもね」
新聞に視線を固定しながら、横に置いたコーヒーカップを手に取る。
二十五歳の男と十八歳の少年が坐するベンチの後ろを、今日も千差万別の人間が往来する。
彼らの座談など聞く由もない。
「人という生き物は古来より深夜テンションで変なことをする種なんです」
「とても興味深い」
「エインスという生き物は古来より昼夜問わず途方もない気の狂い方をしている種なんです」
「なんてことを言うんだ」
無愛想に話す少年のことを、男はモカと呼んだ。
ラ・モカ
十八歳。
「しかし、モカと屋外で話すのは危険だね」
男の言葉に、モカは顔を上げる。
さらさらとした長い前髪を紅指し指で整え、噴水の周りを視界に収めた。
黒の睫毛と鮮やかな二重は、いつも彼を眠たそうに演出する。
彼が顔を上げたのと同時に、はじかれるように飛び跳ねる女子高生の集団。
モカの氷のような相好をちらりちらりと見ながら黄色い声で噂している。
一角では、女子大学生二名が信じられないといった様子。
「定期的にモデル雑誌やファッション誌の人間に追い回されるから、君は可及的外に出ない方がいいんだ」
眼窩に嵌めたモノクルを調整しながら彼は続けた。
「ちなみに現場まで向かうとき、ガラの悪い有象無象に喧嘩売られなかったかい?いくら治安がいい国とはいえ、あの一帯は花道を歩くことのできなかった化生の者が跋扈しているからね」
「昨夜は静かでしたよ。……なにをそこまで気にする必要があるんですか。襲われても対処できます」
「襲った側に手向ける献花のチョイスに難儀するのだよ。モカみたいな怪力ゴリラマントヒヒの安否など心配しても意味がないからね」
「仕事以外では殺人をするなと言ったのは先生でしょう。守っていますよ」
剣呑なフレーズが取引されるも、周囲の睦まじい喧騒によって、この会話もまた景色の一つとなってゆく。
モカの声を片耳に入れて満足げに唸りながら、アメリカーノを喉に通す。
再び俯くモカ。
彼が起きたのは、前日の明け方である。
最新の起床から一日が経ったゆえ、うたた寝に転ぶのも致し方がない。
静かで無害な賑々しさ、郊外特有の小鳥の囀り、安らぎを贈る噴水の潺、朝に出会える淋しい青嵐。
大自然に擁されてハンモックに身を預ける心地よさと近しい快楽があった。
喋々と喋るでもなく、言ノ葉を出し惜しみするでもなく、相互的に空気を熟知した間柄。
新聞のページを捲る音のあとに、男が声をかけた。
「モカ、見てくれ」
深い余裕に満ちた声で、新聞の見出しをモカに見せる。
特に不満を零すわけでもなく、素直に紙面に顔を覗かせる少年。
「薬物乱用者 男女五人が何者かに襲撃される。中には顔面を―――刀剣のようなもので斬り裂かれた傷痕が残っており……とな」
男が口誦したのは、見出しの下部の椽大の筆。
池魚の殃に薙ぎ払われた、男三人、女二人の生前の顔写真が、説明の上部を大々的に占めていた。
皆一様に口をへの字に曲げた朴念仁らしい表情である。
上質な治安が特徴のこの国において、かのような血腥い凶悪事件は特筆すべき異質さだ。
観光客の累増を支える一角として挙げられる『優れた治安』の水面下で、違法薬物や殺人が横行している可能性があるのは、政府観光局や行政機関にとっては痛手となり……。
「報道させたんですか?」
「牽制と、平和ボケしないための注意喚起だよ。―――表にも、裏に対しても」
男はどこか愉しそうに口元を弛ませると、新聞を持ち直した。
モカは前傾姿勢になり顎に手を添えて黙考した。
森林浴に身を委ねているかのような落ち着いた息を吐く。
広場に醸される南風の薫に笑みを浮かべ、再度コーヒーを飲む男。
マグカップを満たしていたアメリカーノを飲み干して、新聞に目を通しながら一人言う。
「今日は私のコーディネートにお小言は言わないんだね」
「お小言じゃないです正論です。いつもに比べれば今日はまだまともな服装なので……まぁ少しクラシックなところが変ですが」
「似合ってるだろう?このモノクル」
「今時それ付けてる人なんて滅多に見ませんよ」
「てか結構痛いねこれ痛って」
モカの冷たい一言も、男は慣れた様子で受け流す。
英字新聞を閉じ、コンパクトに整えると、マグカップを片手に立ち上がる。
モカは顔を上げてから俄かに面倒臭そうな雰囲気をまとわせて腰を上げた。
「そろそろ帰ろう。眠たいだろう」
「すごく」
男はモカの背中を押して、ビットローファーを前に出した。
石畳と革靴の奏でる玉音は、彼のコートとマッチしている。
噴水広場を離れながら、部下の業績を讃えた。
「こちらの処理も済んだし、任務完了だ。ご苦労様」
もはやなにも返さないモカの反応も彼は知悉していた。
エインス・レヴィ・アイゼンハワー・ローゼンタール
三十二歳。表向きの職業は探偵。
「てか誰が怪力ゴリラマントヒヒですか」
「ラグ長すぎない?」