表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

その三 関直己の話

 夏もそろそろ終わろうかという、八月の末だった。

 それでも日中はひどく暑く、外へ出れば汗が流れた。

 けれど、夕方になれば涼しくなり、そのうちに秋がやってくることを思わせた。


 その日の夕方は、特にそうだった。日中の暑さが嘘のように涼しく、俺は薄手の長袖シャツを着て、家を出た。

 いくら涼しかろうと、それでもまだ夏だと言い張るように、西日だけが眩しかった。適当に扱いすぎて、錆だらけになっているママチャリは、ブレーキが利きにくくなっていたが、それに跨った。


 走った。

 この日、初めて信号無視をした。

 その日、母が死んだ。


 ガンだった。それが分かった時には、もう手の施しようがない程に進行していたらしい。


 もう、十年以上前の話だ。俺が、中学二年の夏だった。

 まだ肌寒い春先に入院し、夏に亡くなるまで、母は一度も家に帰らなかった。


 父は、母の回復を、どこかで信じていたからだと思う。

 母が不在の間、家のことは俺と父で分担してやっていたはずだ。料理は、この頃に覚えたんだと思う。


 朝になったら学校へ行き、夕方には部活に参加していたはずだ。部活が終われば、家に帰りがてら、近所のキンパツスーパーで買い物をしたんじゃなかったか。


 家に帰ると、まず自分の部屋に荷物を置いて、それから料理をしたと思う。作ったものは、一人で食べたはずだ。俺が小さな頃から、父は仕事が忙しく、いつも帰りが遅かった。

 そういう風に、生活していたんじゃないかと思う。


 そうして、八月の終わり。あくる日、母は死んだ。


 母が危ないという連絡は、家の電話で聞いたんだろうか。それとも、持たされていたケータイで聞いたのか。

 俺が母のママチャリで病院へ向かい、着いた時には、母はもう、この世の人ではなくなっていた。

 動かない母を目で見て、次に、冷たくなったその体を、手で触って確かめた。その感触だけは、覚えている。


 “だと思う”とか、“らしい”、“はずだ”としか言えないのは、はっきりと覚えていないからだ。


 母が亡くなってから、通夜や葬式のこと、火葬の時のこと、はっきりと覚えているものは何一つない。それどころか、母が入院してから亡くなるまでのことで、俺がはっきりと覚えていることなど何もない。俺は一体、何度、母を見舞っただろう。母は、どんな様子だったろう。


 そして時間の経過と共に、母の存在そのものが、おぼろげになっていった。


 母は、どんな風に俺を呼んでいただろう。母は、どんな声をしていただろう。

 母が亡くなってから誰とも、母の話は一切しなかった。父とさえ。


 そして、大学受験をキッカケにして、俺は家を出た。

 以来、父とは電話やメールだけで、一度も顔を合わせていない。


 家を出て、初めての夏。大学生になって、初めての夏休みだったが、俺はどこへも行かなかった。誰の誘いも「バイトが忙しい」と断った。実際、バイトはしていたが、実際はほとんど家に引きこもっていた。どこへ行く気にも、何をする気にもなれなかったからだ。


 そして、大学二年の夏。


 ある日、ふいに思い立って、俺は精神科へ行った。そこで紹介してもらって、カウンセリングを受けるようになった。半年くらいは二週に一度くらいのペースで通ったが、二年前の秋から回数が減っていって、今はもう、予約カードがどこにあるのかすら分からない。


 二年前の秋、九月五日の夜。


 俺は、忘れもしない。彼女が、俺を引っ張り上げてくれたことを。


 初めてだった。あんなに、人を愛しく思えたのは。

 どんな人の隣でも、あんなに安心したことはなかった。できることなら、俺はこの子を守ってあげたい。何からも。そんなことを、俺は大真面目に思ったのだ。この子のために、俺がしてあげられることがあるなら、何でもしてあげたいとすら。


 これらのことを、チャコちゃんは全て知らない。


 隠しているわけではないし、知られて困るわけでもない。ただ、チャコちゃんは、こんなことは知らなくていいと思っているだけだ。


 彼女は、可愛い人だ。子どものように無邪気で、いつも底抜けに明るい。すぐムキになったり、ちょっとしたことですぐに腹を立てるけれど、それも彼女の長所だと俺は思っている。

 彼女は、良くも悪くも素直で、裏がないのだ。嘘は吐けないし、吐いたところで、すぐにバレるようなものしか思いつかない。


 人によっては、そんな彼女を「ただ馬鹿なだけだ」と言う。


 けれど、そんなものは僻みだ。誰しも、本当は彼女のように素直に生きたいと思っているけれど、実際のところはそうはいかない。社会に参加し、人と関わっていかなければ、生きてはいけないから。


 人間関係とは、複雑だ。作り上げるのはとても困難で、長く時間が掛かる。しかし、築いたものが壊れるのは一瞬だというのが、そのいい証拠である。


 では、どうしたら、築き上げた良い関係を持続できるのか。その方法は、皆、知っている。


 人間関係を円滑にするには?

 それは、“建前”という名の“嘘”だ。


 誰もがそのことを知っていて、そうすることが何よりだと思っている。言いたいことの大部分を、いつも胸の内に押し込め、生きている。だから、チャコちゃんのような人を妬み羨んで、いつも欠点を探しては、貶めていたいのだ。


 まぁ、かく言う俺も、そういう人間の一人だったのだが。


 二年前の夏の、ひどく蒸し暑い夜のことだった。

 大学の同期が、久し振りに連絡を寄こしてきたと思えば、挨拶もそこそこに、こう言った。


「関が、こういうのキライなのは知ってるけどさ~、頼むよ。人助けだと思ってさ。人数、足りねーんだよ。もう関にしか頼めねぇんだ。どいつも捕まんなくって……。なぁ、マジ、頼むって! オレ、この合コンに賭けてんだよ!」


 俺は勿論、こう返した。


「嫌だね、合コンなんて」


 しかし、相手も譲らない。


「そこをなんとか! 関ィ、マジ、オレ、もうマジ、カノジョでもいねーとやってらんねぇんだよ! 分かるだろ!? 社会人、ツライ! オアシス、必要! イエス! 合コン!! なぁ~、オレら親友じゃん!! 助けろよ!!」


「社会に出たら立派な大人なんだから、責任が生じて、何かと苦労するのも当然だろ。お前、もう二十七だろ? 今更、何を馬鹿なこと言ってんだよ。大体、自分のことで手がいっぱいの奴が、“彼女”なんて出来てみろ。どうせ、一月も経たずに振られるぞ」


「お前こそ、何言ってんの? バカなの? 守るべき存在……カノジョがあるからこそ、男は気張れるんだよ!! ねぇ、ホント、マジで! 関……いや、関くん! 関さん! 関サマ! 頼んます、一生のオネガイ!!」


 大の男が、気色悪いったらなかった。

 そもそも、“一生のお願い”という言葉を使って許されるのは、子どもだけなのだ。

 しかし、こいつは切羽詰っていたし、元々が“そういうこと”を常時、平気な顔で言ってしまう奴なので仕方ない。


 それに、後から聞いたところ、この合コンには本気で賭けていたらしい。先に結果だけ言ってしまうと、こいつは結局、何も得られなかったが。


 この時、合コンなんぞ()()()()()()に参加すること自体に渋っていた俺の方が、予想だにせずチャコちゃんを得た。

 これについては、それはもう大ブーイングを受けた。それはさておき、こいつ(村尾という)が、いつまでも情けない声を出して、先に述べたような泣き言を繰り返すので、俺は渋々だが了承してしまった。


「分かったよ、もう。今回だけ、これっきりだぞ」


 今にして思えば、村尾が俺に連絡を寄こさずにいたら? 泣き言を鬱陶しく繰り返し、俺を辟易させなかったら?

 チャコちゃんとは、出会うことすらなかったのだ。感謝の念で、胸がいっぱいである。

 村尾、ありがとう。大学時代は、何かと飲もう飲もうと誘うお前を疎ましくも思っていたが、今は本当に、お前が同期だったことを嬉しく思っている。


 待ち合わせ場所で顔を合わせた瞬間、「まさか、マジで来てくれるとは思わなかった! サンキュー!」と村尾は言った。

 わざわざ言われる程に、俺は付き合いの悪い男だった。


 しかし、村尾は、待ち合わせ時間ギリギリでの欠員に際し、俺にも連絡してみようと思ってくれたのだ。口に出しはしないが、俺はあれから、お前のことが割り合い好きになったよ。

 まぁ、だからと言って、毎週のように寄こしてくる『飲もうぜ! 関!!』という連絡に、いちいち丁寧に返事はしないが。けれど、こいつはその程度のこと、なんとも思わない。


 仕方ないので、月に一度くらいは付き合ってやっている。

 酒は、好きじゃないのだ。後述するが、以前は好きだったのだけど、()()好きじゃないのだ。

 もう、あんな情けない目に遭いたくない。


 ……場面を変えよう。その、“合コン”のシーンへ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ