その三 関直己の話
夏もそろそろ終わろうかという、八月の末だった。
それでも日中はひどく暑く、外へ出れば汗が流れた。
けれど、夕方になれば涼しくなり、そのうちに秋がやってくることを思わせた。
その日の夕方は、特にそうだった。日中の暑さが嘘のように涼しく、俺は薄手の長袖シャツを着て、家を出た。
いくら涼しかろうと、それでもまだ夏だと言い張るように、西日だけが眩しかった。適当に扱いすぎて、錆だらけになっているママチャリは、ブレーキが利きにくくなっていたが、それに跨った。
走った。
この日、初めて信号無視をした。
その日、母が死んだ。
ガンだった。それが分かった時には、もう手の施しようがない程に進行していたらしい。
もう、十年以上前の話だ。俺が、中学二年の夏だった。
まだ肌寒い春先に入院し、夏に亡くなるまで、母は一度も家に帰らなかった。
父は、母の回復を、どこかで信じていたからだと思う。
母が不在の間、家のことは俺と父で分担してやっていたはずだ。料理は、この頃に覚えたんだと思う。
朝になったら学校へ行き、夕方には部活に参加していたはずだ。部活が終われば、家に帰りがてら、近所のキンパツスーパーで買い物をしたんじゃなかったか。
家に帰ると、まず自分の部屋に荷物を置いて、それから料理をしたと思う。作ったものは、一人で食べたはずだ。俺が小さな頃から、父は仕事が忙しく、いつも帰りが遅かった。
そういう風に、生活していたんじゃないかと思う。
そうして、八月の終わり。あくる日、母は死んだ。
母が危ないという連絡は、家の電話で聞いたんだろうか。それとも、持たされていたケータイで聞いたのか。
俺が母のママチャリで病院へ向かい、着いた時には、母はもう、この世の人ではなくなっていた。
動かない母を目で見て、次に、冷たくなったその体を、手で触って確かめた。その感触だけは、覚えている。
“だと思う”とか、“らしい”、“はずだ”としか言えないのは、はっきりと覚えていないからだ。
母が亡くなってから、通夜や葬式のこと、火葬の時のこと、はっきりと覚えているものは何一つない。それどころか、母が入院してから亡くなるまでのことで、俺がはっきりと覚えていることなど何もない。俺は一体、何度、母を見舞っただろう。母は、どんな様子だったろう。
そして時間の経過と共に、母の存在そのものが、おぼろげになっていった。
母は、どんな風に俺を呼んでいただろう。母は、どんな声をしていただろう。
母が亡くなってから誰とも、母の話は一切しなかった。父とさえ。
そして、大学受験をキッカケにして、俺は家を出た。
以来、父とは電話やメールだけで、一度も顔を合わせていない。
家を出て、初めての夏。大学生になって、初めての夏休みだったが、俺はどこへも行かなかった。誰の誘いも「バイトが忙しい」と断った。実際、バイトはしていたが、実際はほとんど家に引きこもっていた。どこへ行く気にも、何をする気にもなれなかったからだ。
そして、大学二年の夏。
ある日、ふいに思い立って、俺は精神科へ行った。そこで紹介してもらって、カウンセリングを受けるようになった。半年くらいは二週に一度くらいのペースで通ったが、二年前の秋から回数が減っていって、今はもう、予約カードがどこにあるのかすら分からない。
二年前の秋、九月五日の夜。
俺は、忘れもしない。彼女が、俺を引っ張り上げてくれたことを。
初めてだった。あんなに、人を愛しく思えたのは。
どんな人の隣でも、あんなに安心したことはなかった。できることなら、俺はこの子を守ってあげたい。何からも。そんなことを、俺は大真面目に思ったのだ。この子のために、俺がしてあげられることがあるなら、何でもしてあげたいとすら。
これらのことを、チャコちゃんは全て知らない。
隠しているわけではないし、知られて困るわけでもない。ただ、チャコちゃんは、こんなことは知らなくていいと思っているだけだ。
彼女は、可愛い人だ。子どものように無邪気で、いつも底抜けに明るい。すぐムキになったり、ちょっとしたことですぐに腹を立てるけれど、それも彼女の長所だと俺は思っている。
彼女は、良くも悪くも素直で、裏がないのだ。嘘は吐けないし、吐いたところで、すぐにバレるようなものしか思いつかない。
人によっては、そんな彼女を「ただ馬鹿なだけだ」と言う。
けれど、そんなものは僻みだ。誰しも、本当は彼女のように素直に生きたいと思っているけれど、実際のところはそうはいかない。社会に参加し、人と関わっていかなければ、生きてはいけないから。
人間関係とは、複雑だ。作り上げるのはとても困難で、長く時間が掛かる。しかし、築いたものが壊れるのは一瞬だというのが、そのいい証拠である。
では、どうしたら、築き上げた良い関係を持続できるのか。その方法は、皆、知っている。
人間関係を円滑にするには?
それは、“建前”という名の“嘘”だ。
誰もがそのことを知っていて、そうすることが何よりだと思っている。言いたいことの大部分を、いつも胸の内に押し込め、生きている。だから、チャコちゃんのような人を妬み羨んで、いつも欠点を探しては、貶めていたいのだ。
まぁ、かく言う俺も、そういう人間の一人だったのだが。
二年前の夏の、ひどく蒸し暑い夜のことだった。
大学の同期が、久し振りに連絡を寄こしてきたと思えば、挨拶もそこそこに、こう言った。
「関が、こういうのキライなのは知ってるけどさ~、頼むよ。人助けだと思ってさ。人数、足りねーんだよ。もう関にしか頼めねぇんだ。どいつも捕まんなくって……。なぁ、マジ、頼むって! オレ、この合コンに賭けてんだよ!」
俺は勿論、こう返した。
「嫌だね、合コンなんて」
しかし、相手も譲らない。
「そこをなんとか! 関ィ、マジ、オレ、もうマジ、カノジョでもいねーとやってらんねぇんだよ! 分かるだろ!? 社会人、ツライ! オアシス、必要! イエス! 合コン!! なぁ~、オレら親友じゃん!! 助けろよ!!」
「社会に出たら立派な大人なんだから、責任が生じて、何かと苦労するのも当然だろ。お前、もう二十七だろ? 今更、何を馬鹿なこと言ってんだよ。大体、自分のことで手がいっぱいの奴が、“彼女”なんて出来てみろ。どうせ、一月も経たずに振られるぞ」
「お前こそ、何言ってんの? バカなの? 守るべき存在……カノジョがあるからこそ、男は気張れるんだよ!! ねぇ、ホント、マジで! 関……いや、関くん! 関さん! 関サマ! 頼んます、一生のオネガイ!!」
大の男が、気色悪いったらなかった。
そもそも、“一生のお願い”という言葉を使って許されるのは、子どもだけなのだ。
しかし、こいつは切羽詰っていたし、元々が“そういうこと”を常時、平気な顔で言ってしまう奴なので仕方ない。
それに、後から聞いたところ、この合コンには本気で賭けていたらしい。先に結果だけ言ってしまうと、こいつは結局、何も得られなかったが。
この時、合コンなんぞくだらんものに参加すること自体に渋っていた俺の方が、予想だにせずチャコちゃんを得た。
これについては、それはもう大ブーイングを受けた。それはさておき、こいつ(村尾という)が、いつまでも情けない声を出して、先に述べたような泣き言を繰り返すので、俺は渋々だが了承してしまった。
「分かったよ、もう。今回だけ、これっきりだぞ」
今にして思えば、村尾が俺に連絡を寄こさずにいたら? 泣き言を鬱陶しく繰り返し、俺を辟易させなかったら?
チャコちゃんとは、出会うことすらなかったのだ。感謝の念で、胸がいっぱいである。
村尾、ありがとう。大学時代は、何かと飲もう飲もうと誘うお前を疎ましくも思っていたが、今は本当に、お前が同期だったことを嬉しく思っている。
待ち合わせ場所で顔を合わせた瞬間、「まさか、マジで来てくれるとは思わなかった! サンキュー!」と村尾は言った。
わざわざ言われる程に、俺は付き合いの悪い男だった。
しかし、村尾は、待ち合わせ時間ギリギリでの欠員に際し、俺にも連絡してみようと思ってくれたのだ。口に出しはしないが、俺はあれから、お前のことが割り合い好きになったよ。
まぁ、だからと言って、毎週のように寄こしてくる『飲もうぜ! 関!!』という連絡に、いちいち丁寧に返事はしないが。けれど、こいつはその程度のこと、なんとも思わない。
仕方ないので、月に一度くらいは付き合ってやっている。
酒は、好きじゃないのだ。後述するが、以前は好きだったのだけど、今は好きじゃないのだ。
もう、あんな情けない目に遭いたくない。
……場面を変えよう。その、“合コン”のシーンへ。