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その一 チャコちゃんの話

「変な形してんね、君んち。エンピツみたいだ」


 九月初めの、涼しい朝だった。眩しい朝日に目を細めて、彼はあたしの住むマンションを見上げると、そう言った。おもしろいこと言う人だなあ。あたしはそう思って笑うと、彼の腕に飛びついた。


 この頃はまだ、自分の部屋のことを「スタイリッシュで都会的! 素敵!」なんて思っていたからだ。今となっては、彼のこの言葉は別に褒め言葉だったわけじゃないと分かってる。

 濃い緑色をした、三角形の3階建て。彼の言う通り、本当に“エンピツ”みたいなマンションだったから。


 そもそも、この“エンピツタワー”を建てた人はマンションじゃなくて、コレクションルームのつもりだったそうだ。

 建てた人っていうのは、ココのオーナーのお父さんなんだけど、いわゆる道楽じいさんってヤツだったらしい。とにかく、なんでも“集めること”が趣味っていうコレクターで、最終的には「集めに集めたものを飾っておく城が必要だ!」と“エンピツタワー”を建てたそうだ。お金持ちって、庶民とは考えることがちがうよね。集めに集めて置き場に困ったら、普通は「……捨てるか」ってなるじゃん。なのに「コレ置いとく建物つくろう!」って思うんだから。


 でも、完成と同時に、その道楽じいさんは亡くなってしまって、それを相続することになったのがオーナー。

 こちらはお父さんと正反対で、趣味道楽にはまったく興味がない人だった。なので「コレクションルームなんて、あったってしょうがない」と改装。そして、三階建てのちょっとオシャレな“コレクションルーム”は、三階建ての各階に一部屋しかないヘンテコなマンションになった。飾り棚くらいの感覚で建てられたんだから、改装くらいじゃ()()()()()()()にはならなかったそうだ。


 そういうわけで「こういう特殊な間取りなんで、家賃は……と、このくらいです」と、かなりお安い。それくらいの値段じゃなきゃ、いくら立地条件が二重マルでも、誰も借りっこないからだ。


 だって三角形だし、狭いし、おまけにお風呂がない! 妙にオシャレな、ガラス張りのこじんまりしたシャワールームがついてるだけ。それも畳一枚分のスペースすらないものだ。っていうか、シャワーシーンが丸見えって……“ない”よね。それを抜きにしても、三角形の間取り( 正しくは、居住スペースが三角形。で、間取り図で全体を見ると“矢印”だ )なんて、住みやすいわけないんだけど。


 けれどあたしは、今でも住んでいる。上京して初めての、あたしだけの“お城”を“エンピツタワー”と名付けた男と、ふたりで。


「チャコちゃーん。コーヒー飲みたいねぇ」

「そうだねー」


 いや、ふたりで住んでるのは、少し違うか。あたしからすれば、この状態は同棲に違いないけれど。


 あたし達のことをよく知る人達――つまり、あたしの女友達のことだ――は、「アンタんとこのは、アレよ。“半同棲”っていうか……“週末婚”ってヤツじゃないの?」と言う。


 さて、あたしを“チャコちゃん”と呼んで、コーヒーが飲みたいと言うこの男の名前は、関直己(せきなおき)。来月で付き合って三年になる、あたしの彼氏である。


 今から二年前の夏。合コンで出会ったあたし達は、お互いに一目惚れ……だったなら、完璧なラブストーリーだった。実際のところは、あたしだけが直己に『ちょーゾッコン! マジでラブ!』である。タイプじゃないと言って逃げる直己を、ひたすら追いかけた。とにかく押して押して、押しまくった。果てには押し倒して……九月初めの、あの涼しい朝に、お付き合いすることとなった。直己がこのマンションのことを、“エンピツタワー”と名付けた日だ。


 あれから、三年が経とうとしている。あたし達はお互い、二十九になった。三年……長いようで短かいってのも、短い! と言い切ることも、あたしにはしっくりこない。だって、だらだらと、のんびりと四季を過ごして……気づいたら三年も経っちゃってたんだから。


「チャコちゃん、コーヒー飲もうよ」


 あたしのお気に入りの、赤いシングルソファにだらぁっと座ったまま、直己が言った。


 先週末、直己が「面白そう、これ。録っといていい?」と録画予約してあったバラエティー番組に、視線を釘づけにされてるのだ。ああ、なげかわしい! 出会った頃はもっとお腹まわりもキュッと締まってて、とくに細い腰がセクシーで大好きだったのに。いくら最初はあたしの片想いだったにせよ、付き合ってからはものすごーく優しくて、それにマメだった。こうして遠回しにだって、あたしにコーヒーいれさせようなんてしなかったのに!


『時間は残酷なもの』とかいうセリフは、映画とかでよくある言い回しなんだって思ってたけど、最近になって本当の意味が分かった。“三年前の直己と、今の直己は全然ちがう”ってことだ。


 でも、あたしはずっとずっとずっと、出会った日からずっと直己が大好きだ。出会った日より、付き合い始めた日より、昨日より大好きだ。


「じゃあ、あたしがしてあげる。ねぇ、直己」

「うん?」

「大好き! 直己のこと、すっごく大好きだよ」


 だから結局、コーヒーだっていれてあげる。

 ぐったりと寝そべっていた冷たいフローリングから起き上がって、流し台まで何歩か歩いた。


 “流し台”というのは、うちのキッチンスペースのことである。コレはとてもじゃないけど“キッチン”なんて呼べるもんじゃないから、“流し台”で統一してる。

 どうして“流し台”なのかというと、コンロは 2口あるけど、お湯を沸かしてカップ麺を作って、食べ残しを流すくらいしかできることなんてないからだ。作業台は、薬味専用みたいな小さい真四角のまな板が、ギリギリ載る程度のスペースしかない。料理は好きなほうだけど、こんなに狭いんじゃ、何か買ってきちゃったほうがずっといい。


 流し台の上にある備えつけの戸棚を開けて、インスタントコーヒーのビンを取り出す。

 ああ、マグカップ持ってくるの忘れちゃった。でも、直己の座ってるソファの後ろの棚に入ってるし、言えば持ってきてくれるだろう。


 そう思って口を開きかけた時、直己が言った。


「うん、俺も好き」

「じゃあ、結婚してくれる!?」


 ……()()はもう、なんていうか……条件反射ってヤツだ。頭で考えるより先に、言葉が勝手に口から飛び出してしまう。そんな調子で、咄嗟に出たあたしの本音に、直己は『また始まった』という顔をした。あからさまなヤツめ! 口で言ってなくても、顔が言ってるぞ!


 もうほとんど結婚してるようなもんなのに、どうしてちゃんとしたカタチをとってくれないのか、あたしにはサッパリ分からない。だってアンタ、ほとんどココにいるんだから、もう一緒に暮らしてるようなもんじゃないのよ。籍入れるくらい、大したことじゃないじゃん。


 あたしはそう思うけど、直己はちがうらしい。


 あたしだって、別に結婚を軽く考えてるわけじゃないのに。でも、あたしは直己がすごく好きで、そのことは直己だってよく知ってるはずだ。それに、直己のほうもあたしを好きだと言うのに、なんで“結婚”がダメなんだろうか。もう、三年も一緒にいるのに。


「チャコちゃん。俺は別に、チャコちゃんと結婚しないって言ってるわけじゃないよ。いつも言ってるだろ。そのうち、色々と準備できたらねって」

「直己、いつもそう言うけど、準備ってなんなん? いつ終わるん? あたし達、もう三年も一緒におって、あたし、もう三十なるんよ? 分かっとる?」


 ムッとして少し強い口調で言うも、何も返してこなかった。

 こちらに背を向けるように置かれたソファに座る直己の表情は、うかがい知れない。


 こんな風に直己を責めるんじゃ、ダメなんだと分かってはいる。でも、だからといって、気持ちまでがそれに追いついてくれるわけじゃない。


 直己との“結婚”を意識するようになってから、あたしは、そのことが痛いほどによく分かる。こんなの、全然分かりたくなんかなかったけど。ああ、でも、もう時間がない。


 あたしは二十九で、きっとすぐに三十になってしまう。十七の誕生日の夜から、あたしの人生タイマーはぐんぐん時間を加速させていったんだから。気づいたら二十歳、気づいたら二十歳“二年目”、気づいたら…………。こんな調子なのだ。二十九から三十になるまでの時間なんて、きっとポケーッとしてる間に過ぎてっちゃうに決まってる。時間が、ないのだ。


 直己とずっと一緒にいたい。

 直己の“彼女”じゃなくて、直己の“奥さん”になりたい。


 子どももほしい。まず男の子、そして、その妹だ。ううん、どちらが先だっていい。とにかく、子どもはほしい。二人は絶対。できることなら、三人だって四人だっていい。兄がいたり姉がいたり、妹がいたり弟がいたりするのは、とってもいいことだと思うから。


 ちなみに、あたしは末っ子長女で、上にお兄ちゃんが三人いる。歳が離れてるせいか、小さい頃はたくさん遊んでもらった記憶がある。まぁ、意地悪も同じくらいされたけど。


 子どもが生まれて大きくなる頃には、マイホームを買えるようになってたらいいなぁ。広いお庭があったら素敵。子どもたちはそこでたくさん遊んで、休日には家族でバーベキューしたりするのだ。夏にはおっきなビニールプールを買えば、くたくたになるまで水遊びができるし、冬になって雪が積もったら、雪合戦なんかもできちゃう。


 ああ、間取りは特にこだわらない。そりゃあ、広ければいいとは思うけど。ただし、三角形だけは、もうごめんだ。これだけは譲らない。


 この部屋も、できることなら引き払って、普通の間取りのマンションへ越したいけど……この辺りは治安もいいし、駅近で便利がいい上に、コンビニがものすごく近いのだ。夜中にアイスが食べたくなったって、すぐ買いに行ける。そうそう! 大きい総合病院もあれば、個人でやってるハセガワ医院だってあるから、ちょっとした風邪でも急病でも困らない。……何が言いたいかというと、間取りのことはともかく、暮らしやすさにおいては条件が揃いすぎていて、引っ越そうにも「まぁ、いっか。ココ、便利いいし」なんて思って、更新してしまうってことだ。


 ……本当のところは、これも言い訳なんだけど。


 あたしは「女の子にしては大らかすぎるっていうか……ズボラよね」と、家族にも友達にもみーんなに面と向かって言われる程度には――いや、ココはズバッと言い切ってしまおう。あたしは極度のめんどくさがり屋だ。つまり、単純に引っ越しがめんどくさい! だから引っ越さない!


 でも、それ以上の理由として、大好きな直己との思い出を、この“エンピツタワー”は全て知っているから。というのがある。あたし達が恋人として関係を始めた瞬間から、今まで一緒に過ごしてきたこの三年近くを、使い勝手が悪くて、狭くて、三角で……どうしょもない、この“エンピツタワー”は、ずっと見てきたのだ。


 そして、そんなどうしょもない“エンピツタワー”にふさわしく、あたし達の関係も……近頃は「どうしょもない」の一言に尽きる。


 そりゃあ、二人っきりでおんなじ空間を、ながーい時間ずっと共有していれば、どんなに仲良しでラブラブなカップルにでも訪れるだろう。そう、あの“魔の期間”――いわゆる倦怠期。


「……直己、マグカップ、持ってきてくれる?」


 水を入れたヤカンを火にかけて、インスタントコーヒーのビンを開ける。直己の返事はない。聞こえてはいるだろうけど、だらだら眺めてるだけのテレビから、すぐに意識を逸らせないのだ。


 ああ、サイテー。コーヒー、あたしの分まで用意できないかも。もう、ほんの少ししかない。小さく溜息をついた。


 倦怠期……話には聞いて、知っていた。けど、それがあたし達にもやってくるなんて、思ってもみなかった。

 だって、あたしは直己が大好きで、直己もあたしを好きだと言ってくれるから。


 あたし達ふたりは正反対のタイプで、だからこそ直己は初め、あたしのことを突っぱねた。だけど、全然ちがうからこそ、お互いの足りない部分を補い合うことができて、テトリスみたいにピッタリはまった。


 このままずっと、想像もできないくらい先の未来でも、あたしは直己の隣にいて、直己はあたしの隣にいると思ってた。あたし達が手を繋いで歩いているこの道には、近い将来“結婚”というイベントが待ってると信じていた。いや、過去形はおかしい。


 だってあたしは、今でも信じている。あたしは絶対、直己と結婚するんだと。


「……あ、ごめん。なんだっけ、マグカップだっけ」

「うん、そう。持ってきて。あとコーヒーの詰め替え、気づいたら買っといてよ。コーヒー飲むの、ほとんど直己やろ。あたしは、直己おらんかったら飲まんっちゃけんさ。気づかんよ」

「あー、ごめんね。忘れてた。次、来る時に買ってくるよ」


 マグカップをふたつ持って、直己が“流し台”までやってきた。くたくたで、毛玉だらけのスウェット姿が情けなくて、ちょっと笑えた。


 神経質なくらい、善悪の基準がハッキリしてて、ルールやマナーにうるさい直己。外ではシャキッとしてるのに、あたしと一緒にココでだらだら過ごしている間だけは、ちがう。カッコ悪くて、情けなくて、だらしなくて甘えた。外で会う時のほうがずっと素敵なのに、あたしはこっちの直己のほうが断然、大好きだ。


 だって、こんな姿の直己なんて、あたし以外には誰も知らないんだから。


 ふふふ、と笑うあたしに、直己はちょっと眉を寄せたけど、すぐに思い出したような顔をして、「あぁ!」と声を上げた。


「そういえばさ、チャコちゃん、来月の記念日はどこ行きたい? 一年目はテスニーランドで、去年はテスニーシーだったろ? 今年はどうしよう」


 そういえば、今、直己が手にしてるネズミーマウスとネズミーハニーのお揃いのマグカップは、一昨年の“交際一周年記念”のお祝いに行った、テスニーランドで買ったものだ。


 そういえば、あの時があたしの初テスニーだったなぁ。


 ここらで、あたしのこともちょこっと紹介しておこう。

 あたし――相川千絵子(あいかわちえこ)は、今から三年前、二十七の春に長崎から上京してきた美容師だ。生まれも育ちも長崎で、こっちへ出てくるまでは一人暮らしもしたことがなかった世間知らず。


 お兄ちゃん達は、あたしのすぐ上で三歳ちがって、いちばん上とは八歳もちがうもんだから、みんな、とっとと外へ出てってしまった。

 そして残った末っ子(しかも唯一の女の子である)あたしは、実家でとても大事にしてもらってた。家事とかは子どものお手伝い程度で、食事も洗濯も掃除もお母さんがやってくれていた。


 美容師になった理由? 特にない。ただ、キレイな仕事がしたかった。

 だから、進学や就職では必ずするような準備なんてほとんどせず、高校を卒業してすぐに、地元の美容専門学校へ入学した。


 シャンプー&ブロー、カット、カラー、エクステ。そういった技術は、もちろん学んだ。他にも、衛生管理とか、皮膚の機能とか病気のこととか。


 苦労したのは、美容に関係する物理化学の勉強だった。あたしは昔っから理系がてんでダメだったのに、美容師ってカラーやパーマで薬品や機械を使うから、そういう知識もなければなれない。想像してたより、ずっと大変だった。

 学校に通いながら、同期の友達に紹介してもらった美容室“ Challenge”でバイトもした。お客さんじゃない視点で美容室、美容師と関わることで、自分が何をしたらいいのかってヒントを得ることもできたし、何よりもよかったのは、勉強の面倒もみてもらえたことである。

 “Challenge ”のスタッフの中に、あたしの通う学校の卒業生だという人(美和子さんという女の人で、あたしは“ミワさん”と呼ばせてもらっていた)がいて、何かと優しくしてくれた。


 そうやって周りに助けられながら、あたしは学校をなんとか卒業。死ぬほど勉強した結果として、その年の国家試験にも見事合格!


 在学中からずっとバイトとして働いていたことや、あたしの意欲を評価してもらえたこと、そしてミワさんが店長に推薦してくれたことで、あたしは“ Challenge”で美容師になった。

 けれど、実際に美容師として働き始めると、在学中なんかよりもっと大変だった。


 お店での“下積み”だ。


 どこへいってもそうだし、お客さんの髪を切ったり、色を抜いたり入れたりするんだから当然、必要なことなんだけど……まぁ、あの頃はまだ若くて、よく分かっちゃいなかった。

 ミワさんを中心に、先輩や店長には可愛がってもらっていたけれど、それとこれとは別だ。当たり前のことなんだけどね。

 初めの一年は、タオルの洗濯やらシャンプー、ブローくらいしかやらせてもらえなかった。そして、お店が終わってから店長にお願いして、誰もいないお店で一人、カットの練習をした。時にはミワさんが一緒に残ってくれることもあったけど、ツラかった。


 こんなツライなんて、思っとらんかった……。

 何度もそう思って、辞めますと言ってしまいそうにもなった。


 でも、辞めれなかった。


 先輩たちがお客さんを笑顔にしている姿を見ると、何度でも立ち直れた。

 だって、お店に来た時と帰る時では、お客さんの表情が全然ちがった。ほんのり頬を赤くさせて、口角がキュッと上がる。みんながみんな、魔法にかかったみたいに、とびっきりの笑顔だった。


 それを見るたび、いつかはあたしも、お客さんに指名してもらって、あんな風に笑ってもらえるような美容師になるけんね! と燃えた。ツラくなったら、いつもそれだけを考えて、努力を続けた。


 それでもツライ時は、東京の大学へ通っていた親友に電話して、優しくお説教をしてもらった。

 がむしゃらに、とにかくやれることは全部やる気で、勉強に勉強して、先輩たちにも積極的にたくさんのことを教わった。

 今まで生きてきた中で、あの頃がいちばん頑張っていた気がする。国家試験の時より、もしかしたら頑張ってたかもしれない。今「もっぺん、おんなじことをやれ」と言われても、体力的にも気力的にも「できない」と断言できる。


 それだけ頑張っていれば、その姿を見守ってくれてる人も応援してくれる人もいて、ついには報われた。

 少しずつ、やらせてもらえることが増えていって、二十五の冬、一人前の“美容師”としてデビューしたのだ。


 さて。仕事は順調。実家住まいで、生活費として月に五万をお母さんに渡すだけで、不自由なく生活していたのに、どうして上京することになったのか?


 これも「若さゆえ……」と言いたいところなんだけど、もう二十七のいい大人だったし、そういうのは言い訳になってしまうと思う。……思うんだけど、実際、そんな感じの子どもっぽい理由だった。


 美容師としてデビューして、一年が経ち……仕事に慣れもしたし、すると、心に余裕ができた。それから……欲が出てきたのだ。


 デビューして半年は、とにかく楽しくてしょうがなかった。ずっと立ち仕事だし、ツライことは変わりなかったけど、「ありがとう、チャコちゃん! この髪型、めっちゃかわいかね~! 顔、小さく見えるよ!」とか、「イメージ通りの色になっとるよ~! チャコちゃん、またお願いするけん、よろしくね」っていうお客さん達の言葉と、あたしが何より望んでた笑顔を見られて、すごくうれしかったから。


 でも、あたし、もっとなんか、できるっちゃないかな? もっとすごいこと、できんとかな?


 そんな風に思うようにもなった。生まれ育った長崎からも、家からも出たことがないような世間知らずだったくせに。

 今なら分かる。あの頃の生活は、決して“当たり前で平凡なもの”なんかじゃなかった。


 でも、当時はちがったのだ。恥ずかしいことに。


 ずーっと不便なことなんてなかったので、それが“普通”なんだと思い込んでいた。平凡でつまらなくて、変わり映えしない毎日が、窮屈に感じるようになっていた。


 あたしが「できる!」と思い込んでいた“何か”の正体は分からないまま、あたしは上京することを決めた。またしても、特に“準備”もしないままに。ただ、東京という都会に行きさえすれば、何かものすごいことが起こると思ったのだ。


「トレンドの発信地である東京へ行ったら、カリスマ美容師になれる!」


 そんな夢みたいなことを、本気で信じていた。学校で物理化学に苦しみ、ひたすら勉強したことや、長くツラかった下積み時代のことなんて、この時にはもう忘れてしまっていた。目の前にある、キラキラ輝く光に、目がくらんでしまっていたのだ。その先にあるものなんて、眼中になかった。本当に、“若い”って……いや、“なんにも知らない”ってすごい。


 上京すると突然言い出したあたしに、両親はもちろん、お兄ちゃん達からも猛反対された。だけど、そんなものは関係なかった。というか、聞こえてすらいなかった。

 そして、全てを捨てて(実家住まいだったので、貯金はまぁまぁあったのだけど、上京することによってほぼ〇になった)周囲の反対を押し切り……やってきた東京は、素晴らしかった!


 何もかもが素敵に見えて、毎日がパラダイス。


 そんなんだから、スタイリッシュで都会的! 素敵!」なんてバカまる出しの考えで、こんなにも使い勝手の悪い“エンピツタワー”に住むことにしちゃって……契約の時のことは、思い出すだけで恥ずかしい。何度も言うようだけど、“なんにも知らない”って本当に恥ずかしいことだ。


 それから、なんとか仕事先を見つけて、今もそこで働いている。もちろん美容室――いや、“サロン”って呼び方のほうがいいのかも。とにかく、今も“美容師”をしてる。


 長々とあたしのことを紹介してきたけど、とにかく言いたいことは一つだけ。

 結論!


『刺激があるのは、なんでも最初だけ』


 夢見た都会での生活も、慣れてしまえば長崎と変わらなかった。


 話を戻しがてら、直己は実際、金曜の夜にうちへやってきて、月曜の朝にはうちから出社するという生活パターンが染みついている。もう、この“エンピツタワー”に泊まることは“当たり前”で“普通”だと思ってるのだ。


「チャコちゃん、聞いてる?」


 はっとすると、直己があたしの顔を覗き込んでいた。あんまり間近のドアップだから、直己の切れ長の奥二重が、ぱちぱち、まばたきする音が聞こえるようだった。


 ちょっとばかし、回想が長くなっちゃったみたいだ。


 ぱっと作業台に視線を落とすと、ネズミーマウスとハニーのお揃いのマグカップからは、ふんわり湯気が漂っている。直己のネズミーマウスにはブラック、あたしのハニーにはキャメル色。


 直己は、コーヒーはいつもブラックしか飲まない。直己曰く、「コーヒーにミルクや砂糖を入れたら、カフェインの効果が薄くなるような気がする」んだそうだ。

 直己がコーヒーを飲むのは、眠りたくない時だ。なので、カフェインうんちゃらは実際のところどうだか知らないけど、理屈は分かる。


 昨日の夜は残業だったらしく、終電ギリギリでうちに帰ってきたのに。


 まぁ、理由は予想がつく。

「録っておいたテレビ、観ちゃいたいから。あと、観たのはさっさと消さないと、容量が足りなくなって予約しとけなくなるだろ」だ。


 あたしが録画するだけして観ない、観ても消さないから、直己が毎週予約にしてたドラマが途中で切れちゃったことが、前にあった。それをまだ根にもってるのか、直己は観たら消す、とっておきたいものは自分のハードディスクに移すってことを徹底している。たぶん、さっきゲーム機をいじってる時に、未視聴のあたしの録画に気づいて、ハードの容量が気になってしょうがないのだ。


 うちでのテレビ録画は、ゲーム機を使っている。テレビにゲーム機を繋いで、テレビを観れるようにする機械をくっつけると、番組表を出したりとか、録画とかができるようになるのだ。録画したものは、内蔵のハードディスクに記録されるようになっているので、ディスク管理の面倒や、その置き場に困ることがないのがいいところ。


 だけど、ハードの容量をオーバーすると、“ドラマの盛り上がってるところで強制終了”ってことが起きてしまう。


 直己は、早々に自分用の外付けハードディスクを買ってきて、せっせと残しておきたいもののコピーをしていたけれど、あたしのズボラがそういう事故を引き起こしてしまった。

 そういうわけで、その後、あたしもおんなじのを買ってきて、直己がしているようにすると約束した。せっつかれないと、なかなかやらないけど。


 だって、めんどくさい。


 そもそも、直己は自分の部屋にだっておんなじゲーム機あるし、テレビの機能も付けてるのだ。そっちで全部録画しとけばよかやん?


 あたしがそう思うのって、ちがうんだろうか。


「えーっと、アレやろ? 記念日! また遊園地……いや、温泉とかは?」

「え、遊園地じゃなくていいの? チャコちゃん、何かと遊園地に行きたがるだろ」

「あたしが子どもっぽいって言いたいん?」

「そうじゃないよ。今まで『温泉に行きたい』なんて、言ったことないから」

「……もう若くないし、楽しさより、癒しがほしいんよ」

「ふぅん」


 そんな会話をしながら、あたし達は何歩かだけ歩いて、部屋に……いや、“居住スペース”に戻った。


 小さなガラス製の丸テーブルにハニーちゃんを置くと、がちゃんと音がした。ああ、またキズ増えちゃうかな。

 お気に入りの赤いソファに座って、ちらっと直己を見る。右手にネズミーマウス、左手にコースターが二枚あった。

 ぴくっと、直己の眉根が動く。


「チャコちゃん、『テーブルにキズつけたくない』ってコースター買ったんだから、ちゃんと使いなよ」


 そう言って、まずコースターをテーブルにのっけて、その上にネズミーマウスを置いた。

 次に、あたしのハニーちゃんを持ち上げると、下にコースターを敷いて元に戻す。


 本当に、この人ってマメな男だなぁ。いや、あたしがズボラなだけ?

 でも直己って、基本的にはマイペースっていうか、のんびり屋でしんどい。……あー、ちがう。コレもあたしがせっかちなだけかもしれない。


 正反対ってさんざん人に言われてきてるけど、直己って本当にすごいんだよ。なんていうか、偉大なんだよ。

 ココは直したら? って思うとこもあるし、嫌いだと思うところもあるけど、でも大好き。嫌いなところも、大好きの一部だ。


 なんだろう……直己って……。


「……なんか、直己って“お母さん”みたいやねぇ」


 あたし的には、「コレだ!」ってナイスな例えだったんだけど、直己にはそうは思えないらしい。返事の速さが、その証拠だ。


「口うるさいから?」

「ちがうよ! う~ん……マメっていうか……神経質っていうか……細かいやん?」


 コレも、あたし的には「コレならいいやろ! ふふん!」って感じだったんだけど……直己の表情からして、今のは全部アウトのようだ。


 直己はものすごーく真面目な顔で、わざわざちょっと声を小さくしてまで、あたしの注意を誘った。


「チャコちゃん、たぶんチャコちゃんは、俺のこと褒めようとしてるんだと思うけど、一応聞くね。……褒めてる?」


「え? なんで? 褒めてるじゃん」


「……じゃあ、そういう時には『よく気が付く人だよね』とか、『気が回るよね』とかって言えばいいんだよ。チャコちゃんの言い方じゃ、悪い方にしか受け取れないよ」


「そうなん? ふーん。『よく気がつくよね』と『気が回るよね』……覚えた! 直己、物知りやね! コレは? 当たってる?」


「“当たって”はないけど、“合ってる”ね。あはは、ありがとう」


 あたしは、間取りが三角形の“エンピツタワー”をスタイリッシュ! とか言っちゃうし、理系がぜんぜんダメでも文系ならできる! ってわけでもなく、地頭がいいほうだとは決して言えないタイプだ。直己も「理系はぜんぜんダメだ」と言うけど、でも、文系はものすごく得意だ。読書が好きで、言葉をたくさん知ってる。映画や写真を一緒に見ても、出てくる感想が本当、ちゃんとしてて……話がかみ合わない時も、なくはない。


 でも、直己はそんなあたしを笑わない。あたしの知らないことをたくさん教えてくれて、その代わりに、あたしが知ってることを教えてくれと言ってくれる。


 あたし達、ピッタリとハマってると思う。


「……直己」


「ん?」


「……温泉、泊まりで行けるかな?」


「休みは二日取れたから、一泊二日になっちゃうけど、無理ではないな。仕事が終わってから、夜中に出発してもいいよ。温泉はもちろんだけど、観光だってしたいだろ? あとで本屋さん行って、雑誌でも買って決めよう。それで場所決めたら、ガイドブックとか用意して計画立てようよ」


「うん! 旅行、楽しみ! 直己、大好き!」


「うん、俺も。旅行の日、晴れるといいね」


 なのに、どうして……あたし達、おんなじ“未来”が見えてないんだろう。


 そう思ったら、「そうね。きっと晴れるよ!」なんて言えやしなかった。かわいくない女め!


 自分に悪態つくことで“トゲ”が削れるなら、あたしはきっと、このセリフを言えてたにちがいない。


「そうだ、直己。あたし、明日の夜、ココおらんけど」

「え? 聞いてないけど」

「そうだっけ? こずっちゃん達と飲み行くんよ」


 直己はちょっとイヤな顔をしてみせたけど、「帰り、遅くならないようにね」と言って、どす黒いだけのコーヒーに口をつけた。

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