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ドンカンなカノジョはオモいにキズかない  作者: 草村ちょこ
BAD END
5/5

想いの重さ

途中までは『傷付かない』とほぼ同じです。

!バッドエンド!ですので、ご注意ください。


 昼休憩が終わり、再び作業が開始される。


 大聖が1階の作業場へ行くと、パートリーダーである女性―――田口(タグチ)と、5人のパートが彼を待っていた。


 大聖は緩む顔を抑えるため眉間に力を入れた。5人の中に、自分のあげた服を着ている海心がいるからだ。


 田口から午前までの進捗状況の報告を受ける。そして続きの作業について、大聖と田口が段取りを行おうとしたそのときだった。


「たいせー………じゃなかった、えーっと、ヤマガミくん? ちょっといい?」


 萌七が白々しく大聖を呼び付けてきた。いくら暗黙に周知されていたとしても、萌七は職場では大聖を名前で呼んだことなど今までなかった。


 わざとだ。瞬時に理解した大聖は咄嗟に海心を見てしまった。


 二人の目が、ばちっと合った。


 大聖はこの場で即座に弁明したかった。しかしそんなことができる由もなく。


「………すみません、先に作業しててください。」


 大聖は萌七の後を付いていくしか選択肢はなかった。




 喫煙所で二人きりになる。


 今ならこいつを殺せる。しかし凶器になりそうな物を持っていない。


 大聖は殺意を一旦仕舞い込むため、息をひとつ吐いた。


「何の用ですか。」


 萌七に名前呼びされたことを海心にどう説明しようか頭をフル回転させつつ、さっさと話を終わらせようとする。


「用がなきゃ呼んじゃダメなの?」


 上目遣いで身体を揺らす萌七。


 やっぱり殺そう。


 ダンボールカッターを持っていることを思い出した大聖は、萌七の死体を海心に見せれば許してくれるかもしれないという希望を見出す。


「………大聖さぁ、私に隠してること、あるでしょ。」


 カッターへ伸ばしていた手が止まる。


「鈴木さん―――って、どんな人?」


 萌七のそれは試すような言い方で、大聖の肩の力は一気に抜けた。


「あー………、………鈴木さんって、さっきいたパートの人ですか。」


「………はあ?」


 萌七は意味がわからなかった。


 萌七が名前を呼んだ直後、大聖が鈴木を見たのを、萌七は見逃さなかった。そして大聖の眉間の皺が更に深くなったことも視認している。


 喫煙所に来てからもそこに変化はなかった。


 しかし今まさに質問をしたその瞬間、それがすっとなくなった。まるで力が抜けたかのように思えた。


 それが演技だとは、萌七は感じなかった。


 まるで本当に誰のことかすぐに思い当たらず力が抜けたような………。


 目の前にいる恋人の真意はどこにあるのか萌七が逡巡していると、大聖は首を傾げながら言った。


「どんな人かなんて聞かれても、俺にはわからない。」


「………なにそれ。」


「そんなことより、」


 大聖は少し苛立ったように再び眉間に皺を作った。


「何の用かって聞いてるんです。」


「………………え?」


「『え?』じゃなくて。だから、作業を抜け出してまで俺を呼びつけた用件です。」


 彼女の焦れったい反応が更に大聖を苛つかせるようだった。


「私はただ、鈴木さんがどんな人か、大聖に聞きたくて………。」


「はあ? なんでそんなことをわざわざ俺に聞く? パートさんのことはパートさんに聞いてください。」


「だって、大聖、鈴木さんと作業してるとき、すごい楽しそうなんだもん!」


 直後、萌七はすぐに自分の発した言葉の重大さに気付き、ハッと手で口を押さえた。が、無意味な行為だった。


「―――楽しいわけないだろ。」


 大聖から何の感情も感じ取れなくなった。


「作業に戻ります。あなたも早く持ち場に戻ってください。」


 萌七の返事を聞くこともなく、大聖は喫煙所から去って行った。


 彼へ仕事に対して何か言うことは地雷を踏むことと同義だ。いや、正確に云えば、萌七だけは絶対に言ってはならないことだった。彼女の母親こそが大聖にとっての諸悪の権化なのだから。


 ゲリラ的に問い質せば大聖の気持ちが露呈すると思っていた。萌七は肩透かしを食らった気分だった。


 喫煙所を出た萌七は、階段を上りながら、しかしほくそ笑んでいた。


 やはり思い過ごしだったのかもしれない。


 もし大聖に鈴木に対して疚しいことがあれば、何の用かと聞き返してくるはずがない。


 Tシャツのこともだ。


 鈴木は『彼氏』から貰ったと言っていた。


 大聖はその色違いを着てお気に入りだと言っていた。


 色違いのデザインでサイズは同じものをそれぞれ購入して片方だけ誰かにあげるなどと回りくどいことをするだろうか。


 また、萌七が大聖の恋人だということは彼の不本意でしかないだろうが、萌七は今の関係で満足していた。なぜなら大聖は萌七を突き放さないでいてくれるからだ。


 わざと萌七を傷付けるようなこともしないし、拒絶することもしない。だからといって受け入れてくれているわけではないが、そもそも大聖は優しいのだ。だから伊藤親子に付け込まれる。


 それに萌七と大聖は肉体関係を持った。優しい大聖のことだから、多少なりとも責任感はあるはずだ。


 自分の思い違いだったと結論付けた萌七は大聖の本心に気付かないまま作業場へと戻っていった。




「あら、早かったわね。」


 田口は大聖を意外そうな目で見た。


「もう帰ってこないかと思ったわ。」


 大聖にはそれが皮肉なのか何なのか判断できず、曖昧に愛想笑いをするしかなかった。


 作業はすでに始まっていて、田口から現在の状況報告を受ける。


「俺も手伝います。」


 大聖は田口に断りを入れてから、2人一組で作業するところを一人で黙々と作業している海心に付いた。


「あっ………、ありがとうございます。」


 一瞬戸惑った海心はしかしすぐに普段通りの笑顔を見せた。


 萌七から呼び捨てにされ連れて行かれた大聖を、海心はどう思っただろう。


 今まで彼女から執着心を感じることはなかったが、少しでも嫉妬してくれただろうか。それはそれで嬉しいが、海心には少しの不安も抱いてほしくない。


「………大丈夫ですか?」


 不意に海心の声が聞こえ、大聖は我に返った。


「大丈夫です、すみません。」


「いえ………。」


 いつの間にか止まっていた手を再び動かしながら、大聖は海心を盗み見る。


 彼女をぎゅうぎゅうに抱き締めて、この場から逃げ出したい。


 大聖の脳内が現実逃避し始めたときだった。


『館内の方にご連絡いたします。パートの鈴木さん、パートの鈴木さん。外線一番にお電話です。』


 海心を事務所へ呼び出す館内アナウンスが流れた。


「すみません、行ってきます!」


 海心は大聖と田口に頭を下げてから足早に事務所へ向かって行った。


 海心の代わりに田口が作業に入る。


「お子さんかしらねぇ………。」


 田口の何の気なしの呟き。しかし大聖にとっては聞き捨てならない言葉だった。


「―――お子さん!?」


「やっ、なぁに、どうしたの。」


「あっ、いやっ………………、鈴木さんにお子さんがいるんだと思って………。」


「そうみたいよ。直接聞いたことはないけど。」


 田口は訝しげに答えた。


 こどもとは一体どういうことだ。


 大聖は仕事どころではなくなってしまう。


 海心にこどもがいるのか。そんなはずはない。だがしかし、思い当たる節が大聖にはあった。


 海心の言った『仕事のない日の午後は家にいなければならない』ということはつまり、いつもは誰かに頼んでいるこどもの迎えを自分がするから、ということではないだろうか。


 結婚指輪はしていないし、その跡もない。シフトは程々に入っている。


 彼女は『誰にも話したことがないから、もう少し待ってほしい』と言った。海心にこどもがいることは田口の耳に入るくらいなのだから、それは誰かに話しているのだろう。それなら『誰にも話したことがない』こととは一体何なのか。


 海心はシングルマザーだということを誰にも話していないのか。こどものことは話しておいてそれは話さないとは一体どういうことか。


 そもそも『誰にも話したことがない』ことが嘘だったとしたら―――


 その日海心は作業場に戻ることなく早退した。




 夕方の休憩時間、大聖はすぐさま海心にメッセージを送った。



《 今夜、電話してもいい? 》



 1、2分待ったが、海心の既読は付かない。



《 話したいことがある 》



 10分以上が経って、ようやく既読が付いた。



《 わかった 》



 それは絵文字のない、たった4文字だけの素っ気ない返事だった。


 大聖は胸の奥で何かがざわついた。




 残業を終え、大聖は寄り道せず真っ直ぐ家に帰った。時刻は23時を回っていた。



《 今から電話しても大丈夫? 》



 既読がすぐに付かないことから、海心はもう寝てしまったのかもしれないと大聖は思った。


 今電話をしなかったら大聖はきっとこれから先、海心に何も聞けないまま何も言わないままになるだろう。大聖には、それが二人の幸せに繋がるとは、到底思えなかった。


 しかし電話をしたくない自分もいる。二人の関係が壊れてしまうかもしれないのだ。始めから歪な形ではあったが、海心がそれを知らないから壊れないでいられた。


 大聖は自分がどうしたいのかわからなかった。落ち着くため、一旦携帯電話を置こうとしたとき、メッセージの通知音が鳴った。



《 私からかけるね 》



 電話の着信音が鳴る。画面には海心の名前が表示されている。


「………海心?」


『えっと………、こんばんは。』


「こんばんは。電話、ありがとう。夜遅くに、ごめん………。」


『ううん………。』


「あのさ………、支店長の娘のことで、話したいことがあって―――」


『―――知ってた。』


「………え?」


 大聖は海心の言葉が一瞬理解できなかった。


『大聖くんが、萌七さんと付き合ってること、知ってた。』


「はっ? えっ?」


 突然すぎて、大聖はまともな言葉が出なかった。


『知ってて、私、大聖くんと付き合うことにしたの。』


 ごめんなさいという小さな声が聞こえたのは大聖の気のせいだろうか。


『さすがにわかるというか………。あっでも、萌七さんが支店長のこどもだっていうのは本当に知らなかった。』


 大聖は、あははと笑いながら告げる海心の言葉に耳を疑ってしまう。


『萌七さん、大聖くんにすごくべったりで、大聖くんも「萌七ちゃん」って呼んでたでしょう。そうなのかなって思ってたら、ベテランさんが教えてくれたの。』


 大聖が海心を意識する前、大聖が萌七と付き合う以前は、確かにそう呼んでいた。初めて会ったとき萌七がちゃん付けで呼んでほしいと言ってきたため、何の考えもなしに『萌七ちゃん』と口にしていた。ただし、他の従業員も同様に彼女をちゃん付けで呼んでいる。


 大聖は微かな疑問を覚えたが、海心の次の言葉でそれはどこかに消えてしまう。


『………私もね、大聖くんに話さなきゃいけないことがあるの。』


 田口の呟きが大聖の頭を過った。彼は息を呑む。


『私ね、こどもができないんだ。』


 しかし海心の言葉は、彼の予想していた言葉とは全く違っていた。


 海心は戸惑う大聖に構わず続ける。


『病院で調べてもらったことがあって、先天的なものみたい。』


「えっ、だって、今日―――………?」


『ああ、あれは姪っ子の学校からだった。』


 本当に少しだけでいいから待ってほしいと大聖は思った。理解が追い付かないのだ。しかし海心は話し続けた。


『色々あって、今、実家で兄のこどもを預かってるの。両親と私の三人でその子の面倒を見てるんだ。仲の良い人には姪だって言ってるけど、それ以外の人は私にこどもがいると思ってるみたい。こんな身体なのにね。』


 あははとまた笑い飛ばす海心。


 とにかく海心には実子がいないということなのか。


 大聖は海心の話を少しずつ噛み砕く。


『だからね、私は誰とも本気で付き合う気はないの。』


 海心の話の真意を探ろうとしていた大聖を、彼女は突き放した。


『もちろん、こどもができたからって幸せになれる保証はないし、こどもがいないと幸せになれないとも思わない。だけど、私がよくても相手は? いくら私がその人を幸せにさせる自信があっても、その人は本当に幸せになれるのかな。その人の選択肢を一つ奪っておいて、どうして幸せにできるなんて言えるのかな。』


 海心はひとつ息をふうと吐いてから続ける。


『だからね、大聖くんが告白してくれたとき、本当は断ろうと思ってたの。萌七さんと別れてる雰囲気ないし、私の年齢を言えば大丈夫かなって。でも、それでもいいって、あなたは言ってくれて、嬉しくて、ついうっかりOKしちゃった。』


 海心は冗談めかして言った。


『だけど、やっぱり駄目だね。萌七さん、私のこと睨んでたから、たぶん気付いてる。これ以上は、私、ちょっともう無理かな………。』


 海心の口から一番聞きたくない言葉を、大聖は聞かされる。


『今までありがとう。大聖くんに好きって言ってもらえて、すごく幸せだった。………だから、もう、別れたい。』


 大聖は目の前が真っ暗になった。


『じゃあね、大聖くん―――』


「―――待って!」


 大聖は咄嗟に叫んだ。


「俺は海心といたいんだ! あ、そうだ! 二人でどこか遠いところに行こう! なっ? 何のしがらみもないところで二人で過ごそうっ?」


 大聖の意思とは関係なく()いた言葉に、海心ははっきりと告げる。


『あなたは逃げているだけ。私からも、萌七さんからも。私はそんなあなたとは居たくないの。』


 無情にも、電話を切られた。大聖はすぐにかけ直したが海心が電話に出ることはなかった。


 彼女の言う通り、大聖は現実から目を背けていた。その報いが訪れたということなのか。


 思い返せば、海心はいつも平然としていた。萌七の匂わせ行為を目の当たりにしたときも、彼女は嫉妬心を見せなかった。


 今ならわかる。意識的に距離を置いていたからだ。誰とも本気で付き合う気はないから、心が動かない。心が動かないから、誰もそこに踏み入ることができない。傷なんて付かず、純真な心でいられる。


 相手を思い遣っているのではない。自分のことを『考えていない』から、相手を『受け入れている』だけに過ぎない。


 そんな海心が、もう無理だと、大聖を『拒絶』した。


 ―――すごく幸せだった。


 海心は確かにそう言った。それは大聖に対する罪悪感から出た言葉であり、言葉そのものの意味とは違うかもしれない。しかし大聖には、少なくとも今の電話においては、海心が嘘を吐いていたとは思えなかった。


 本当のことを話してくれて、別れたいと本当に言った。


 海心の本当の想いが何なのか、大聖は考えることしかできなかった。




 次の日の職場、海心は大聖を一切見なかった。わざと大聖が近くを通っても何の反応も示さなかった。大聖は覚悟をしていたが、やはりつらいものがあった。


 メッセージを送っても、電話をしても、海心からの返事は何もない。


 これで海心との関係が終わってしまうのかと思うと、大聖は泣きそうになった。


 海心のいない生活など、大聖にはもう考えられないことだった。


 海心の笑った顔が好き。海心ののんびりとした話し方が好き。少し抜けたところが好き。誰にでも分け隔てなく接するところが好き。


 大聖は言い尽くせないほど海心を好きになっていた。


 大聖はその日の夜、メッセージを送った。



《 あなたとは別れます 》



 すぐに既読が付き、すぐに電話がかかってきた。


 大聖はその電話を無視して、メッセージのスクリーンショット画像を別のメッセージとして送る。



《 伊藤萌七と別れた。 》


《 俺には海心が必要なんだ。 》



 既読は付くが返事はない。


 なぜこんな簡単なことができなかったのか、大聖は後悔するばかりだった。始めからこうしておけば、海心に拒絶されることもなかった。


 海心に拒絶されるくらいなら、大聖は何だってできる気がした。


 大聖はもう一度メッセージを送る。



《 おやすみ 》



 海心を理解したい気持ちと、海心を取り戻したい気持ちが、ぐちゃぐちゃと混ざり合うのを感じながら、大聖は布団に潜った。




 翌日、大聖の予想通り、萌七が詰め寄ってきた。そしてあろうことか萌七は伊藤恵子やパートたちに吹聴し出す。


 ―――山上大聖は鈴木海心と浮気をしている。


 しかし日頃の行いのおかげか、一人を除いて、それを真に受ける者はいなかった。


 海心は休みでいなかったため、17時の休憩時間、大聖は彼女に連絡をした。



《 萌七がみんなに、俺と別れたこと、言いふらしてる。 》

《 今夜また電話する。 》



 既読は付くが、返事はない。


 仕事が終わり、車に乗り込む。携帯電話をチェックしたが、海心からの返事は届いていなかった。


 家に着いたときには22時を回っていたが、大聖は海心に電話をかけた。




******




 海心は俺の電話に出なかった。


 次の日も、その次の日も、メッセージを送ったり電話をかけたりしたが、その一切を無視される。


 職場に行けば海心がいるのに、彼女は俺を見てくれない。


 なんで、という言葉が俺の頭を支配する。


 海心のために萌七と別れた。海心のために一人暮らしを始めた。海心のために告白した。海心のためにデートに誘った。海心のために連絡先を渡した。


 海心のために生きてきた。


 いつの間にか、俺の全ては海心のためにあった。それなのに、海心は俺のためにその身を捧げようとしない。


 海心が俺のものにならないなら、俺のものにしてしまえばいい。


 俺は“その日”の朝、用事を済ませてから、職場に体調不良で休むと電話をした。


 夕方になり、海心が倉庫から出てきた。俺はその様子を、外に停めた車から眺める。


 海心が外に出たところで、俺は彼女を捕まえた。


「待ってたよ、海心。」


 俺の姿を見るなり、海心は驚いたように目を見開き、顔を歪ませた。


「嬉しくないの? 全然電話とか出てくれないから、直接会いに来たんだよ?」


「なにを………、だってそれ―――っ!?」


 俺は放してと抵抗する海心を後部座席に押し込め、車のドアを閉めた。


 ドアは内側から開けられないようにロックを掛けている。そんなことにも気付かず、海心は必死に開けようとした。


 俺は運転席へと戻り、シートベルトを装着する。


「海心が悪いんだよ。」


 そして車を発進させた。


「海心が俺を無視するから。俺は別れたくないって言ってるのに、海心が別れようとするから。」


 しばらく車を走らせて、ラブホテルに到着する。


 俺は海心の腰に腕を回し、逃げられないようにした。海心だって俺が好きなのだ。腕に力を込めれば、彼女は片方の顔を赤くした。


「パート、辞めるって聞いたよ。」


 部屋に入るなり、俺は海心をベッドに押し倒した。


「辞めることなんてないのに。」


 しかし俺は知っている。


 伊藤恵子が海心を、俺を誑かしたと、罵るようになった。優しい海心は言い返すこともできず仕事に支障をきたしていたのだ。


 海心を傷付けるなんて許されないことだ。


「俺達を邪魔するあの親子はもういないよ。」


 海心を苦しめるもの全てをなくす。そうすればまた海心は俺を好きになってくれる。


「だからどこにも行かないで。ずっと一緒にいて。」


 なのに海心は泣くばかりで俺の話を聞いてくれなかった。


 俺にとって海心の存在が救いであるように、海心にとって俺の存在が救いになってほしかった。


 だけど海心は独りで苦しんで独りで全てを終わらせようとしていた。


「海心にとって、俺はなんなの?」


 気付くと海心は泣くのを止めていた。


 好きだと何度も言ったから、やっと俺の気持ちが伝わったのかもしれない。


 俺は徐々に冷たくなる彼女を抱き締めた。




******




「それで、鈴木海心はキミのものになったのかい?」


 8畳ほどの部屋、大聖とテーブルを挟んで向かい合わせで座る男は大聖に尋ねた。


「………どうでしょうか。………よく憶えていません。」


「何も憶えていない?」


「………はい。」


 男は嘘だと思った。


 大聖は伊藤恵子とその娘、伊藤萌七を刺殺、同日、鈴木海心を強姦し絞殺したという容疑が掛けられている。


 伊藤宅の前で車が停められていたことや、海心を無理矢理車に乗せるところを目撃した者がいること、指紋や大聖の着衣に付いている返り血などの物的証拠も揃っている。


 それは否定しようのない事実だった。


 しかし大聖は何も話そうとしない。


「………俺と海心の、二人だけの秘密だから。」


 彼は誤った選択をした。そしてそのことに気付いていなかった。


 絶えず、大聖は幸せを噛み締めるように笑っていた。



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