傷付かない
昼休憩が終わり、再び作業が開始される。
大聖が1階の作業場へ行くと、パートリーダーである女性―――田口と、5人のパートが彼を待っていた。
大聖は緩む顔を抑えるため眉間に力を入れた。5人の中に、自分のあげた服を着ている海心がいるからだ。
田口から午前までの進捗状況の報告を受ける。そして続きの作業について、大聖と田口が段取りを行おうとしたそのときだった。
「たいせー………じゃなかった、えーっと、ヤマガミくん? ちょっといい?」
萌七が白々しく大聖を呼び付けてきた。いくら暗黙に周知されていたとしても、萌七は職場では大聖を名前で呼んだことなど今までなかった。
わざとだ。瞬時に理解した大聖は咄嗟に海心を見てしまった。
二人の目が、ばちっと合った。
大聖はこの場で即座に弁明したかった。しかしそんなことができる由もなく。
「………すみません、先に作業しててください。」
大聖は萌七の後を付いていくしか選択肢はなかった。
喫煙所で二人きりになる。
今ならこいつを殺せる。しかし凶器になりそうな物を持っていない。
大聖は殺意を一旦仕舞い込むため、息をひとつ吐いた。
「何の用ですか。」
萌七に名前呼びされたことを海心にどう説明しようか頭をフル回転させつつ、さっさと話を終わらせようとする。
「用がなきゃ呼んじゃダメなの?」
上目遣いで身体を揺らす萌七。
やっぱり殺そう。
ダンボールカッターを持っていることを思い出した大聖は、萌七の死体を海心に見せれば許してくれるかもしれないという希望を見出す。
「………大聖さぁ、私に隠してること、あるでしょ。」
カッターへ伸ばしていた手が止まる。
「鈴木さん―――って、どんな人?」
萌七のそれは試すような言い方で、大聖の肩の力は一気に抜けた。
「あー………、………鈴木さんって、さっきいたパートの人ですか。」
「………はあ?」
萌七は意味がわからなかった。
萌七が名前を呼んだ直後、大聖が鈴木を見たのを、萌七は見逃さなかった。そして大聖の眉間の皺が更に深くなったことも視認している。
喫煙所に来てからもそこに変化はなかった。
しかし今まさに質問をしたその瞬間、それがすっとなくなった。まるで力が抜けたかのように思えた。
それが演技だとは、萌七は感じなかった。
まるで本当に誰のことかすぐに思い当たらず力が抜けたような………。
目の前にいる恋人の真意はどこにあるのか萌七が逡巡していると、大聖は首を傾げながら言った。
「どんな人かなんて聞かれても、俺にはわからない。」
「………なにそれ。」
「そんなことより、」
大聖は少し苛立ったように再び眉間に皺を作った。
「何の用かって聞いてるんです。」
「………………え?」
「『え?』じゃなくて。だから、作業を抜け出してまで俺を呼びつけた用件です。」
彼女の焦れったい反応が更に大聖を苛つかせるようだった。
「私はただ、鈴木さんがどんな人か、大聖に聞きたくて………。」
「はあ? なんでそんなことをわざわざ俺に聞く? パートさんのことはパートさんに聞いてください。」
「だって、大聖、鈴木さんと作業してるとき、すごい楽しそうなんだもん!」
直後、萌七はすぐに自分の発した言葉の重大さに気付き、ハッと手で口を押さえた。が、無意味な行為だった。
「―――楽しいわけないだろ。」
大聖から何の感情も感じ取れなくなった。
「作業に戻ります。あなたも早く持ち場に戻ってください。」
萌七の返事を聞くこともなく、大聖は喫煙所から去って行った。
彼へ仕事に対して何か言うことは地雷を踏むことと同義だ。いや、正確に云えば、萌七だけは絶対に言ってはならないことだった。彼女の母親こそが大聖にとっての諸悪の権化なのだから。
ゲリラ的に問い質せば大聖の気持ちが露呈すると思っていた。萌七は肩透かしを食らった気分だった。
喫煙所を出た萌七は、階段を上りながら、しかしほくそ笑んでいた。
やはり思い過ごしだったのかもしれない。
もし大聖に鈴木に対して疚しいことがあれば、何の用かと聞き返してくるはずがない。
Tシャツのこともだ。
鈴木は『彼氏』から貰ったと言っていた。
大聖はその色違いを着てお気に入りだと言っていた。
色違いのデザインでサイズは同じものをそれぞれ購入して片方だけ誰かにあげるなどと回りくどいことをするだろうか。
また、萌七が大聖の恋人だということは彼の不本意でしかないだろうが、萌七は今の関係で満足していた。なぜなら大聖は萌七を突き放さないでいてくれるからだ。
わざと萌七を傷付けるようなこともしないし、拒絶することもしない。だからといって受け入れてくれているわけではないが、そもそも大聖は優しいのだ。だから伊藤親子に付け込まれる。
それに萌七と大聖は肉体関係を持った。優しい大聖のことだから、多少なりとも責任感はあるはずだ。
自分の思い違いだったと結論付けた萌七は大聖の本心に気付かないまま作業場へと戻っていった。
「あら、早かったわね。」
田口は大聖を意外そうな目で見た。
「もう帰ってこないかと思ったわ。」
大聖にはそれが皮肉なのか何なのか判断できず、曖昧に愛想笑いをするしかなかった。
作業はすでに始まっていて、田口から現在の状況報告を受ける。
「俺も手伝います。」
大聖は田口に断りを入れてから、2人一組で作業するところを一人で黙々と作業している海心に付いた。
「あっ………、ありがとうございます。」
一瞬戸惑った海心はしかしすぐに普段通りの笑顔を見せた。
萌七から呼び捨てにされ連れて行かれた大聖を、海心はどう思っただろう。
今まで彼女から執着心を感じることはなかったが、少しでも嫉妬してくれただろうか。それはそれで嬉しいが、海心には少しの不安も抱いてほしくない。
「………大丈夫ですか?」
不意に海心の声が聞こえ、大聖は我に返った。
「大丈夫です、すみません。」
「いえ………。」
いつの間にか止まっていた手を再び動かしながら、大聖は海心を盗み見る。
彼女をぎゅうぎゅうに抱き締めて、この場から逃げ出したい。
大聖の脳内が現実逃避し始めたときだった。
『館内の方にご連絡いたします。パートの鈴木さん、パートの鈴木さん。外線一番にお電話です。』
海心を事務所へ呼び出す館内アナウンスが流れた。
「すみません、行ってきます!」
海心は大聖と田口に頭を下げてから足早に事務所へ向かって行った。
海心の代わりに田口が作業に入る。
「お子さんかしらねぇ………。」
田口の何の気なしの呟き。しかし大聖にとっては聞き捨てならない言葉だった。
「―――お子さん!?」
「やっ、なぁに、どうしたの。」
「あっ、いやっ………………、鈴木さんにお子さんがいるんだと思って………。」
「そうみたいよ。直接聞いたことはないけど。」
田口は訝しげに答えた。
こどもとは一体どういうことだ。
大聖は仕事どころではなくなってしまう。
海心にこどもがいるのか。そんなはずはない。だがしかし、思い当たる節が大聖にはあった。
海心の言った『仕事のない日の午後は家にいなければならない』ということはつまり、いつもは誰かに頼んでいるこどもの迎えを自分がするから、ということではないだろうか。
結婚指輪はしていないし、その跡もない。シフトは程々に入っている。
彼女は『誰にも話したことがないから、もう少し待ってほしい』と言った。海心にこどもがいることは田口の耳に入るくらいなのだから、それは誰かに話しているのだろう。それなら『誰にも話したことがない』こととは一体何なのか。
海心はシングルマザーだということを誰にも話していないのか。こどものことは話しておいてそれは話さないとは一体どういうことか。
そもそも『誰にも話したことがない』ことが嘘だったとしたら―――
その日海心は作業場に戻ることなく早退した。
夕方の休憩時間、大聖はすぐさま海心にメッセージを送った。
《 今夜、電話してもいい? 》
1、2分待ったが、海心の既読は付かない。
《 話したいことがある 》
10分以上が経って、ようやく既読が付いた。
《 わかった 》
それは絵文字のない、たった4文字だけの素っ気ない返事だった。
大聖は胸の奥で何かがざわついた。
残業を終え、大聖は寄り道せず真っ直ぐ家に帰った。時刻は23時を回っていた。
《 今から電話しても大丈夫? 》
既読がすぐに付かないことから、海心はもう寝てしまったのかもしれないと大聖は思った。
今電話をしなかったら大聖はきっとこれから先、海心に何も聞けないまま何も言わないままになるだろう。大聖には、それが二人の幸せに繋がるとは、到底思えなかった。
しかし電話をしたくない自分もいる。二人の関係が壊れてしまうかもしれないのだ。始めから歪な形ではあったが、海心がそれを知らないから壊れないでいられた。
大聖は自分がどうしたいのかわからなかった。落ち着くため、一旦携帯電話を置こうとしたとき、メッセージの通知音が鳴った。
《 私からかけるね 》
電話の着信音が鳴る。画面には海心の名前が表示されている。
「………海心?」
『えっと………、こんばんは。』
「こんばんは。電話、ありがとう。夜遅くに、ごめん………。」
『ううん………。』
「あのさ………、支店長の娘のことで、話したいことがあって―――」
『―――知ってた。』
「………え?」
大聖は海心の言葉が一瞬理解できなかった。
『大聖くんが、萌七さんと付き合ってること、知ってた。』
「はっ? えっ?」
突然すぎて、大聖はまともな言葉が出なかった。
『知ってて、私、大聖くんと付き合うことにしたの。』
ごめんなさいという小さな声が聞こえたのは大聖の気のせいだろうか。
『さすがにわかるというか………。あっでも、萌七さんが支店長のこどもだっていうのは本当に知らなかった。』
大聖は、あははと笑いながら告げる海心の言葉に耳を疑ってしまう。
『萌七さん、大聖くんにすごくべったりで、大聖くんも「萌七ちゃん」って呼んでたでしょう。そうなのかなって思ってたら、ベテランさんが教えてくれたの。』
大聖が海心を意識する前、大聖が萌七と付き合う以前は、確かにそう呼んでいた。初めて会ったとき萌七がちゃん付けで呼んでほしいと言ってきたため、何の考えもなしに『萌七ちゃん』と口にしていた。ただし、他の従業員も同様に彼女をちゃん付けで呼んでいる。
大聖は微かな疑問を覚えたが、海心の次の言葉でそれはどこかに消えてしまう。
『………私もね、大聖くんに言ってないことがあるの。』
田口の呟きが大聖の頭を過った。彼は息を呑む。
『私ね、こどもができないんだ。』
しかし海心の言葉は、彼の予想していた言葉とは全く違っていた。
海心は戸惑う大聖に構わず続ける。
『病院で調べてもらったことがあって、先天的なものみたい。』
「えっ、だって、今日―――………」
『ああ、あれは姪っ子のことだよ。』
本当に少しだけでいいから待ってほしいと大聖は思った。理解が追い付かないのだ。しかし海心は話し続けた。
『色々あって、今、実家で兄のこどもを預かってるの。両親と私の三人でその子の面倒を見てるんだ。仲の良い人には姪だって言ってるけど、それ以外の人は私にこどもがいると思ってるみたい。こんな身体なのにね。』
あははとまた笑い飛ばす海心。
とにかく海心には実子がいないということなのか。
大聖は海心の話を少しずつ噛み砕く。
『だからね、私は誰とも本気で付き合う気はないの。』
海心の話の真意を探ろうとしていた大聖を、彼女は突き放した。
『もちろん、こどもができたからって幸せになれる保証はないし、こどもがいないと幸せになれないとも思わない。だけど、私がよくても相手は? いくら私がその人を幸せにさせる自信があっても、その人は本当に幸せになれるのかな。その人の選択肢を一つ奪っておいて、どうして幸せにできるなんて言えるのかな。』
海心はひとつ息をふうと吐いてから続ける。
『だからね、大聖くんが告白してくれたとき、本当は断ろうと思ってたの。萌七さんと別れてる雰囲気ないし、私の年齢を言えば大丈夫かなって。でも、それでもいいって、あなたは言ってくれて、嬉しくて、ついうっかりOKしちゃった。』
海心は冗談めかして言った。
『だけど、やっぱり駄目だね。萌七さん、私のこと睨んでたから、たぶん気付いてる。これ以上は、私、ちょっともう無理かな………。』
大聖は海心の口から一番聞きたくない言葉を聞かされる。
『今までありがとう。大聖くんに好きって言ってもらえて、すごく幸せだった。………だから、もう、別れたい。』
大聖は目の前が真っ暗になる。
『じゃあね、大聖くん―――』
「―――待って!」
大聖は咄嗟に叫んだ。
「俺は海心といたいんだ! あ、そうだ! 二人でどこか遠いところに行こう! なっ? 何のしがらみもないところで二人で過ごそうっ?」
大聖の意思とは関係なく吐いた言葉に、海心ははっきりと言う。
『あなたは逃げているだけ。私からも、萌七さんからも。私はそんなあなたとは居たくないの。』
無情にも、電話を切られた。大聖はすぐにかけ直したが海心が電話に出ることはなかった。
彼女の言うとおり、大聖は現実から目を背けていた。その報いが訪れたということなのか。
思い返せば、海心はいつも平然としていた。萌七の匂わせ行為を目の当たりにしたときも、彼女は嫉妬心を見せなかった。
今ならわかる。意識的に距離を置いていたからだ。誰とも本気で付き合う気はないから、心が動かない。心が動かないから、誰もそこに踏み入ることができない。傷なんて付かず、純真な心でいられる。
相手を思い遣っているのではない。自分のことを『考えていない』から、相手を『受け入れている』だけに過ぎない。
そんな海心が、もう無理だと、大聖を『拒絶』した。
―――すごく幸せだった。
海心は確かにそう言った。それは大聖に対する罪悪感から出た言葉であり、言葉そのものの意味とは違うかもしれない。しかし大聖には、少なくとも今の電話においては、海心が嘘を吐いていたとは思えなかった。
本当のことを話してくれて、別れたいと本当に言った。
海心の本当の想いが何なのか、大聖は考えるしかなかった。
次の日の職場で、海心は大聖を一切見なかった。わざと大聖が近くを通っても何の反応も示さなかった。大聖は覚悟をしていたが、やはりつらいものがあった。
メッセージを送っても、電話をしても、海心からの返事は何もない。
これで海心との関係が終わってしまうのかと思うと、大聖は泣きそうになった。
海心のいない生活など、大聖にはもう考えられないことだった。
海心の笑った顔が好き。海心ののんびりとした話し方が好き。少し抜けたところが好き。誰にでも分け隔てなく接するところが好き。
大聖は言い尽くせないほど海心を好きになっていた。
大聖はメッセージを送った。
《 あなたとは別れます 》
すぐに既読が付き、すぐに電話がかかってきた。
大聖はその電話を無視して、メッセージのスクリーンショット画像を別のメッセージとして送る。
《 伊藤萌七と別れた。 》
《 俺には海心が必要なんだ。 》
既読は付くが返事はない。
なぜこんな簡単なことができなかったのか、大聖は後悔するばかりだった。始めからこうしておけば、海心に拒絶されることもなかった。
海心に拒絶されるくらいなら、大聖は何だってできる気がした。
大聖はもう一度メッセージを送る。
《 おやすみ 》
海心を理解したい気持ちと、海心を取り戻したい気持ちが、ぐちゃぐちゃと混ざり合うのを感じながら、大聖は布団に潜った。
翌日、大聖の予想通り、萌七が詰め寄ってきた。しかしそれ以外はいつもと何も変わらなかった。
伊藤恵子から「うちの娘が悪かったわね。」と謝罪されたことは意外だった。良くも悪くも仕事第一の人間なのだろう。
また、大聖が吹っ切れたように作業していたため、萌七が母親やパートに大聖の悪口を吹き込んでも、それを鵜呑みにする人はいなかった。
「別れたのね、よかったわね!」と田口から冷やかされたときは一瞬殺意が芽生えた程度で、大聖は穏やかに過ごすことができた。
海心は休みでいなかったため、17時の休憩時間に、大聖は彼女に連絡をした。
《 伊藤萌七がみんなに、俺と別れたことを言いふらしてる。 》
《 今夜また電話する。 》
変わらず、既読は付くが返事はない。
仕事が終わり、大聖は車に乗り込む。携帯電話をチェックしたが、海心からの返事は届いていなかった。
家に着くと22時を回っていたが、大聖は海心に電話をかけた。
出ないかもしれないと保険をかけながらコール音を聴く。
コール音が6回鳴り、今日も出ないかと諦めかけたとき、唐突に音が止んだ。
「………海心?」
恐る恐る大聖が声を掛ければ、『………うん。』と小さく、しかししっかりと、海心の声が聞こえた。久しぶりに聞くような気がして、大聖は泣きそうになる。
「海心っ、よかったっ、もう話せないかと思った………っ!」
『うん………。』
「会って話したい。」
『………』
「今から会いに行く。」
『………えっ、今?』
海心はずっと黙っていたが思わずといったように声を上げた。
「コンビニで待ち合わせしよう。」
『………わかった。』
その声だけでは海心の心情を察することができなかった。それじゃあと言って大聖は仕方なしに電話を切った。
コンビニの前にはラフな格好をした海心が立っていた。大聖はそんな服装も可愛いと思った。
海心の目前で車を停め、車に乗るよう目配せをした。海心は一瞬逡巡する顔したが、助手席に座ることにした。
海心に言いたいことが山ほどあったのに、彼女を目の前にすると、たったひとつの言葉しか出てこなくなる。
先に口を開いたのは海心だった。
「ほんとに、萌七さんと別れちゃったの………?」
おろした髪が海心の横顔を隠しているせいで、大聖には彼女の表情が読み取れない。
「別れたよ。」
大聖は海心の髪を彼女の耳に掛けた。海心は反射的に大聖へ顔を向けてしまう。
彼女の瞳は赤く潤んでいた。大聖はそっと彼女の頬に触れる。
「それに今日の様子だと、俺達のことに気付いてないと思う。」
運良く今日海心が休みだったため、萌七の怒りの矛先は大聖にしか向けられなかった。
萌七は今目の前にあるものしか見えていないのだ。立ち止まって考えればなぜ大聖が萌七と別れると言ったのかすぐにわかったはずだ。
『今』が全てで、『今』が良ければ他のことはどうだっていいのだ。以前の大聖がそうだったように。
「………私ね、婚約者がいたの。」
海心はぽつぽつと話し始めた。
「彼の家へ挨拶に行ったとき、彼のお母さんから言われたんだ、結婚したらすぐに孫を産んでくれって。」
海心は目を伏せた。
「彼のお母さんに言われるがまま、私達は病院に行くことにしたの。そしたら私の身体のことがわかって………。彼は気にしないって言ってくれたけど、私が駄目だった。」
笑顔で話す海心が今にも泣き出してしまいそうに思えて、大聖は喉が詰まった。
海心は自分の頬に添えられた大聖の手に触れる。
「全部がどうでもよくなっちゃって逃げ出しちゃった。大聖くんにあんな偉そうなこと言っておいて、私も同じなんだ。」
海心はごめんねと困ったように微笑んだ。
「その頃兄の、海外への転勤が決まって。兄は離婚しててシングルファーザーで、実家で暮らしてたの。転勤先で親子二人暮らすより、こどもは実家に残ってたほうがいいからって兄に言われて。親にも、私が実家に戻ってくれたほうが助かるって言われて………。」
今にして思えば、家族は妹を、娘を気遣ってくれたのかもしれない。
「………兄と入れ替わるように実家に戻って、とりあえず仕事しなくちゃなって思った。パートでもいいやって今の仕事を見つけて………、あなたに出会ってしまった………。」
そして海心は大聖に一目惚れをした。
山上大聖という人物は海心の理想のタイプをそのまま具現化したようだった。背は海心より頭一つ分高く、声は少し低い。格好良いというよりは可愛い部類の顔立ちだが真面目な印象を受ける好青年といった容貌だ。
始めはアイドルを好きになるような感覚で、遠くから見ているだけでよかった。しかし段々と、海心は想いを募らせていった。伊藤萌七はなぜ大聖に馴れ馴れしいのかと気になってしまうほどには、海心は大聖を好きになっていたのだ。
気付くと大聖のことで海心の頭はいっぱいになっていた。だからといってそれを大聖に伝えたいなどとは思わなかった。
彼にとって海心は一パートに過ぎず、名前すら覚えてもらっていない存在だ。万が一認知されていたとしても恋愛対象にはならない。何より海心はまた他人を本気で好きになることが怖かった。
だから大聖が自分を見ているのは気のせいだと、勘違いだと、思い込もうとした。
「なのに大聖くん、どんどん私に近付いてきて………。予防線がほしかった。だから大聖くんには萌七さんがいるって知ったとき、ほっとしたの。本気にならずにいられるって。」
海心は大聖の手を彼の膝の上に置いた。
「だけどだめだった。一昨日のあのとき、大聖くんと萌七さんが二人きりでどこかに行くのを見て、嫉妬した。今もそう。萌七さんと別れたこと、すごく喜んでる私がいるの。………もうどうすればいいのかわからない。」
大聖の手から離れる彼女の手を、彼は掴んだ。
「俺達、別れよう。」
海心の瞳が悲しみに揺れる。大聖は海心の手をぎゅっと握り締めた。
「別れて、また始めからやり直そう。」
「………え?」
「―――好きだ。」
大聖が海心に言いたかった、たったひとつの言葉。
海心の瞳から涙が零れる。
「本気で俺を好きにならなくてもいい。海心が隣にいてくれるだけで、それだけで俺は幸せだから。」
大聖は海心の涙を拭う。
「どこにも行かないで。ずっと一緒にいて。」
大聖はあのとき、今がよければそれでいいと思っていた。しかし今は違う。
今、最良の選択をするから、最良の未来が訪れる。
「私も、大聖くんと居たい。」
これからどんな未来が待っているのかはわからない。しかしこの手を離さなければ、どんな未来も明るいものになると信じられる。
日付は変わり、バレンタインを迎える。
二人は幸せを噛み締めるように笑い合った。
最後までお付き合いくださりありがとうございます!
この話でおしまいですが、バッドエンドもあるので、よろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。