クズ
活動報告を一読してくださると幸いです。
大聖と海心が付き合うことになってから一週間後のクリスマスイヴ、大聖の隣にいるのは萌七だった。
「クリスマスは家族と過ごすの。」
あの日、大聖が海心に告白したその帰り、駅のホームで、申し訳なさそうに海心は言った。
「………あっ、そうなんだ。………あっ、いや、俺も、24日も25日も仕事だから、気にしないでいい。」
「………ごめんね、ありがとう。」
海心はほっとしたように、しかしまだ少し申し訳なさを残したまま、優しく微笑んだ。
そしてそれが今になって、大聖に絶望と後悔を突きつける。
自分を気遣ってくれた彼女の、あの柔らかな表情を、どうして今このタイミングで思い出してしまうのだろう。
「ね、もういっかい、シよ?」
萌七の甘ったるい声が更に彼を追い詰める。
「―――ムリ。ネムイ。」
これ以上考えていたらこの場で手首を切りたくなってしまう。
大聖は萌七に背中を向ける。現実から目を瞑り、純白の掛け布団に包まった。
「え~っ、つまんない~!」
肩越しに萌七が顔を覗き込んでくる気配がしたが、彼は一切の無視を決め込んだ。
そんな恋人の態度に、萌七はムッとしたが、すぐに機嫌が直る。いくら誘っても嫌がられていたお泊まりが、今まさに実現しているからだった。
一つの広いベッドの上、萌七は大聖に寄り添うように、同じ純白の掛け布団に包まった。
******
ハッ、と大聖は目を覚ました。
馴染みのない寝具の感触。知らない壁紙の部屋。少し痛む頭。
身体を起こせば、上半身は何も着ていないことに気付く。置かれている現実に混乱したのは一瞬だけだった。
視界の左端に、微かに動く何か。
それが何なのか、誰なのかわかっているのに、確認せずにはいられない。
一瞬の間で思い出したことが夢であれという絶望的にあり得ない希望を右手に込めて、掛け布団を捲った。
髪の毛しか見えなかったそれの全貌。
起きているときとは考えられないほど静かに眠る伊藤萌七がそこにいた。彼女もまた上半身裸だった。
大聖は自分の犯したとんでもない罪を目の当たりにし、頭が真っ白になった。すぐさまベッドから下り、床に転がっている自分のジーンズのポケットに手を突っ込んだ。そこから取り出した携帯電話の画面を点ければ、『5:43』という時刻と、その下にはメッセージ受信の通知が表示されている。
まさかそれはないと否定していても、携帯電話を操作する指は震える。
メッセージの送り主は、大聖が否定した人物、鈴木海心だった。『メリークリスマス』という言葉とともに可愛らしいうさぎが描かれたスタンプを0時きっかりに送ってくれていたのだ。
すぐに返信しなければ。
そう思うのに、しかし何と送れば正解なのか頭が回らない。
寝ていて気付かなかったと言い訳をするべきか。『メリークリスマス』と返すだけにしておくべきか。
逆に返信しないという手もある。いや既読を付けてしまっている以上、海心をスルーするという選択肢は、大聖には無い。
《 疲れすぎて寝落ちしてた(笑) 》
《 二度寝する 》
結局、海心に倣ってクリスマス仕様のスタンプを送り、メッセージも送ることにした。
当然二度寝などできるはずもなく、大聖は散らばった服たちを拾い集めた。
「モナ。モナ、起きて。」
大聖は赤子を起こす心持ちで、今まで一度も彼女に対して使ったことのない声音で、萌七を慎重に優しく揺り起こす。
「もう朝だから、早く帰らないと。」
しかし萌七は身動ぐばかりで一向に起きようとしない。
文字通り叩き起こしてやりたい。が、スムーズに帰路へつくためだ。
そう自分に言い聞かせ、大聖は根気強く萌七を優しく揺り動かす。
すると徐に、萌七の腕が大聖の首元へと伸びてきた。
やばい、と思ったときにはもう手遅れだった。
大聖はそれを反射的に振り払ってしまった。
案の定、目を開けた萌七は、不服そうに彼を睨んだ。
「ありえない。」
しかし大聖は怯むことなく淡々と萌七に服を着させていくことにした。
焦りは決して顔に出さない。彼女の機嫌を損ねないよう努力した今の時間を無駄にはさせてはならない。
「ちょっと! 聞いてる!?」
「聞いてるよ。だけどもう朝だから、一旦家に戻らないと。」
萌七を立たせ、彼女の腰に自分の左手を回した。顔を洗うよう洗面台へ誘導する。
その後、ホテルを出る途中もホテルを出てからも何かにつけて不満を吐く萌七を適度に宥めて、大聖は彼女の家まで送り届けた。「ちゅーしてくれなきゃ降りない。」と駄々を捏ね助手席から降りようとしない萌七を蹴飛ばさなかった自分を褒めた。
起きたときにはまだ薄暗かった空は、大聖が家に着く頃には完全に明るくなっていた。
何の連絡も無しに朝帰りした息子を大丈夫かと心配する親を余所に、大聖は熱いシャワーを浴びることにした。一応身体の隅々まで確認したが、キスマークはなかった。
食欲も湧かず、大聖は濡れ髪のまま自室のベッドに倒れ込んだ。
今日も昼から仕事だ。
休みたい。海心に会いたい。
相反する気持ちを抱えたまま、大聖は携帯電話を点けてみた。海心から返信が届いていた。
それは『おやすみ』と描かれた可愛らしいスタンプだった。
海心らしいと感じた瞬間、莫大な罪悪感が一気に襲ってくる。
大聖は最初から海心を裏切っていた。
萌七に対して何かをしたこともないししようとも思わない。それが大聖にとって唯一の、海心への誠意のつもりだった。しかしそんなちっぽけな言い訳すらできなくなった。
酔った勢いとはいえ、一線を越えてしまったのだ。
「最低だ。」
大聖は自分の布団に包まった。
結局大聖は無理矢理身体を動かし、出勤することにした。
職場の駐車場に入ったとき、倉庫の出入り口辺りに海心の姿を見つけた。どうやら電話をしているらしい。
大聖と海心の視線がぶつかった。
海心の表情がぱぁと明るくなり、彼女は電話をすぐに切った。車で休憩している職場の人の目があるため、海心は携帯電話を操作する振りをして大聖が来るのを待った。
「お疲れ様です。」
先に声を掛けたのは大聖だった。海心に、先に中へ入るよう促す。
「あっ、えっと………、おはようございます。」
海心は戸惑いながらも大聖に従い、彼の前を歩いた。
ロッカールームは2階にある。
階段を上り、海心が踊り場に差し掛かったとき、大聖は我慢できずに声を掛けてしまった。
「髪に、埃が付いてます。」
「えっ?」
海心は踊り場で立ち止まり、大聖へ振り返る。
「どこかなっ………?」
慌ててポニーテールの部分を触ってみるが、ゴミらしきものがどこに付いているのかわからない。
「ここ―――」
不意に伸ばされた大聖の指が海心の前髪に触れ、横へさらっと流れた。
「―――取れた。」
その瞬間海心の顔が真っ赤になった。
彼女のその様子がなんともいじらしく、大聖はこの場で海心を抱き潰してしまいたい衝動に駆られる。
しかしここは職場だ。
大聖はこの場にそぐわない言葉が出ないよう口元を押さえ、黙ったまま海心を追い越し階段を上っていった。
******
クリスマスが過ぎればあっという間に年末を迎える。その間大聖はずっと仕事だった。
海心とは毎日のようにメッセージのやり取りをしていた。しかし直接会話をしたのは数える程度。しかもそれは仕事上での会話だった。
目の前にいるのに触れられない。
海心と付き合うようになってから、大聖は萌七の気持ちを理解できるようになった。
相手が本当に自分を好きなのか確信がなく、それを本人に尋ねることもできない。
不安なのだ。
だから少しでも安心できる何かがほしくて、周囲が相手に手を出しづらい状況を作りたくて。
それが匂わせ行為に繋がるのかもしれない。
しかし大聖にはそれができない。
萌七のことがある。そして何より海心がそれを望んでいないだろう。
海心はといえば、彼女はどうやら今の状態で満足しているようだった。
それは友人同士の関係と何が違うのだろうか、と大聖は思う。
二人きりになりたい。誰にも邪魔をされず、二人だけの時間を過ごしたい。そんな願いが大聖の中で段々と膨らんでいく。
家に連れ込もうにも大聖は実家暮らしなのだ。海心も同じく実家で暮らしているらしい。
あの日、告白した帰り道、海心はぽつぽつと大聖に話した。
「私も今、実家で暮らしてて。ちょっと、色々あって、仕事じゃない日の午後は、家にいなくちゃいけないの………。用事があるっていうのは、そういうことで………。ごめんね、曖昧なことしか言えないんだけど、誰にも話したことないから、心の準備というか………、もう少しだけ時間がほしいの。」
誰にも話したことがないと話してくれたことが大聖は嬉しかった。海心に関することだと幸福の沸点が低いのだ。
年上だからと変に着飾らずありのままでいてくれる海心と一緒にいられるだけで、大聖は心地良かった。
なのに最近では少しの時間ですら一緒にいられない。
悶々としていたとき、大聖はある打開策を見出した。
大聖と海心の関係に何も進展がないまま年が明けた。
仕事は繁忙期を脱し、少しずつ余裕が生まれてくる。大聖はなんとか休みを作り、海心をデートに誘った。
約一ヶ月ぶりの、二人きりの時間だった。
「どこに行くの?」
「内緒。」
大聖は行き先を海心に告げないまま、9時にY駅で待ち合わせ、彼女を自分の車に乗せた。
2、3分ほどで目的地に到着した。
「ここって………?」
車を降りた海心は目の前に建っている建物を軽く見上げた。どこからどう見ても、それは2階建てのアパートだった。
「実は俺、一人暮らし始めたんだ。」
「えっ!?」
「といってもまだ全然荷解きできてないんだ。だから海心に手伝ってほしくて。」
「それはいいけど………。いつ引っ越したの?」
「昨日。」
「えっ!?」
大聖が「海心を驚かせたくて内緒にしてた。」とこどもっぽく笑えば、海心は「びっくりしたよ~。」と優しく笑った。
アパートは外階段が玄関の中にある造りになっていて、大聖の部屋はまさしくその間取りだった。
階段を上りきると、横へ伸びる廊下に出た。左斜め前にドアがあったが、大聖は廊下を右に曲がった。海心は彼の後ろをついていく。
「実家にあった服を殆ど持ってきたんだけど、まだクローゼットに仕舞いきれてなくて。海心にはそれを手伝ってもらいたい。」
大聖は海心を、廊下の突き当たり、左側の部屋へと招き入れた。
大聖の口振りから海心は、案内される部屋は服が散乱しているのだと想像した。
しかし全く違っていた。
8畳ほどのその部屋は、入って右側の壁に窓が付いていて、既にカーテンが取り付けられている。そしてシングルベッドが置かれていた。
海心はこの部屋は寝室だとすぐに理解できた。
段ボールが3箱、床に置きっぱなしになっていたがそれだけで、何も散らかってなどいない、綺麗な部屋だった。
海心は困惑し、大聖を見上げる。彼の昏い瞳が海心を捕らえていた。
様子のおかしい大聖に身構えたのも束の間、海心はいきなりベッドへ押し倒された。
予想外の展開に目を丸くする海心の頬に、大聖はキスをした。
「ずっとこうしたかった。」
大聖は言葉を紡ごうとする彼女の口唇にキスをする。口唇を軽く舐めると、彼女のそこが薄く開かれた。大聖はその隙間に舌を滑り込ませた。
大聖の舌と海心の舌が絡み合う。どちらのものかわからない唾液を大聖は飲み込みながら、海心の口内を味わった。
彼女の瞳が徐々に蕩けていく。
誰もいない、誰にも見られないこの状況で、大聖の理性は脆く崩れていくのだった。
シャワーを浴びた海心の髪を、大聖がドライヤーで乾かした。
正午を過ぎているが、海心はまだどこかぼんやりとしていた。思わず浴室でもしてしまったのがいけなかったか。と大聖は軽く反省した。
「ありがとう。」
海心は髪を乾かしてくれた大聖に礼を言った。
大聖は彼女の、気の緩みきった笑顔がたまらないということを、今日初めて知った。
このままでは海心を帰せなくなってしまう。
大聖はぐっと堪え、なんとか理性を掴み取る。そして家に恋人を連れ込みたかったもう一つの目的を思い出した。
「よく見ずに服持ってきたから、いらないのが出てきてさ。」と、大聖は海心に白いTシャツを見せた。
「これ、海心の好きなやつだろ。」
それは確かに海心の好きなブランド、しかもそのデザインの中で最も気に入ってるキャラクターが描かれたものだった。
「あげるよ。」
Tシャツを受け取った海心の目はこれでもかというほど輝きに満ちた。
「ほんとにいいの?」
「ああ。俺のお下がりで悪いけどさ。」
「ううん、うれしい。でもなんで私がこのコを好きなの、知ってるの?」
「この前着てるの見たから。」
職場では、パートはエプロンの着用が義務付けられている。服装についてはそれだけしか決められていないため、エプロンの下は各々自由に動きやすい服を着ている。
夏場、海心は少し変わったイラストの描かれたTシャツを時々着ていた。影のような真っ黒いキャラクターがアリの巣で暮らしているというものだ。
「面白い服だね。」と海心が何人かのパートに声を掛けられているところを、大聖は見たことがある。その内の一人に寺崎がいたため、大聖はすぐにブランドを特定し即購入した。
「ほんとにうれしい。ありがとう。」
大聖は、例のキャラクターが無数でパレードを行っているイラストをじっくり観察する海心の横顔に、一言添えた。
「仕事場に着てきてくれたら嬉しいな。」
「え~? じゃあ今度着ちゃお~。」
恋人の独占欲に気付かず無邪気に喜ぶ海心。
大聖は堪らず彼女にキスをした。しかしそれはちゅっと触れる程度の軽いもので、彼はセーブできた自分を褒めた。
海心を家まで送り届けたかったが、それは叶わなかった。
「家の近くにコンビニがあるから、そこまでで………。」
まだ少し気怠げな海心を一人で帰したくなかった大聖は、彼女の要望を尊重する形で妥協した。
大聖の借りたアパートからそのコンビニエンスストアまで車で10分ほどだった。
礼を言って降りようとする海心を、大聖は引き留める。
「これ、あげる。」
ズボンのポケットからある物を取り出した。
「いつでも遊びに来ていいから。」
そう言って大聖が海心に渡した物はアパートの合鍵だった。
戸惑う海心に、彼は安心させるように微笑んだ。
「俺があげたいだけだから気にしなくていい。まぁ、本当に来てくれていいけど。」
「………わかった。大事にするね。」
ぎょっとした表情を見せたものの、大聖の言葉に頷いた海心は照れるような笑顔になった。
車を降りた彼女は「ばいばい。」と手を振り、大聖の車を見送った。
******
職場のロッカールームと休憩室は隣接している。遅番として大聖が出勤するとき、パートの昼休憩とちょうど被る。海心に合鍵を渡した日から数日後のそのときも休憩室は賑わっていた。
ロッカーに一旦荷物を置いた大聖は、海心を一目見るため、休憩室の自動販売機に立ち寄った。海心はその近くに座っていたため、後ろ姿ではあったものの、すぐに見つけることができた。
咄嗟に大聖は口元を隠した。
後ろ姿でもわかった。海心は大聖から譲られたTシャツを着ていたのだ。
本当に着てきてくれるとは思っていなかった大聖は顔が緩んでしまうのを抑えられなかった。
足早にロッカーへ戻り、携帯電話から海心へメッセージを送った。
《 服、似合ってる 》
すると秒でスタンプが送られてきた。それは海心の着ているTシャツと同じキャラクターがハートの形になったものだった。
大聖は海心の心遣いを噛み締め、今日も仕事を乗り切ってやる、とロッカーを閉めた。
その日、その瞬間まで、萌七の機嫌はとても良かった。
母親から大聖が一人暮らしを始めたことを聞き、昨日大聖の住むアパートに押しかけた。
どうして一人暮らしを始めたことを教えてくれなかったのかと問い詰めれば、家具などがまだ揃っていなく、人を呼べる状態ではないからだと返された。
確かに、例え一晩でも、萌七が泊まるにはまだまだ不便な様子ではあった。
渋々納得した萌七は、この日彼に会ってからなんとなく気になっていたことを訊いた。
「その服、なに?」
到底大聖の好みだとは思えない、ファンシーなイラストが描かれた黒い服を、彼は着ていたのだ。二の腕から先の部分は白の無地だが、それが重ね着に見せた服なのか、重ね着をしているのかはよくわからない。
「そんなの初めて見た。」
「………ずっと前から持ってるやつだけど。」
引っ越しをする際に出てきたのだと云う。
「大聖には可愛すぎ。私のほうが似合うんじゃない?」
「え、なに。あげないよ。」
大聖は身体を捻って、手を出してきた萌七から自分の着ている服を守るように腕を組んだ。
「そんなに気に入ってるの?」
「そうだよ。」
彼の様子はまるでこどもがお気に入りの玩具を独り占めするそれだった。恋人の新たな一面を見た気がして、萌七は大聖をより一層好きになった。
だから翌日になっても萌七は幸せな気分でいられたし、なんなら今晩は大聖を待ち伏せしてお泊まりしてしまおうかと考えていた。
それが一瞬でぶち壊された。
あるパートが萌七の前を通り過ぎた瞬間、萌七は思いっきり後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
正しく昨日彼氏が着ていた服の色違いを、そのパートの女が着ていたのだ。唯一彼氏と違うのは袖の部分だけだ。
パート同士、似たデザインの服を着ていることはままある。しかしそれは同性だからだし、あくまで似たデザインだ。異性で、ましてや背格好がまるで違うのに、デザインが同じ、サイズも同じTシャツなんて有り得るだろうか。
いやしかし、エプロンで前が隠れていて、全てを把握することはできない。袖や後ろのデザインが同じに見えるだけで、前面を見たら違うものなのかもしれない。
「その服、可愛いね。」
寺崎というアルバイトの男がその女に声を掛けた。
「ありがとうございます。」
女は嬉しそうに返事をした。
「前の部分はどうなってんの? 後ろとおんなじ感じなの?」
寺崎は胸元を覗き込むように顔を動かす。
萌七はその動作に気持ち悪さを感じたが、女は気にする様子もなく半袖のほうを見せるように引っ張って答えた。
「全部この柄ですよ~。………実は、好きな人から貰ったんです!」
「えっ!?」
萌七も寺崎と同様に思わず声を上げそうになったが、なんとか手で抑えることができた。
「好きな人ってまさかカレシ?」
「一応? 付き合ってます。」
「一応ってなに!」
「あははっ、いろいろあるんです。………あ、朝礼始まるみたい。」
そうして二人は朝礼時の各々の定位置へ散った。
萌七の頭は混乱を窮めた。
意味がわからない。状況が全く理解できない。“なぜ”と思うのに、その続きが出てこない。
思考を整理できないまま、あっという間に昼休憩になった。
少しして、萌七の彼氏である大聖が出勤してきた。大聖はロッカールームへ入っていったが、僅か数秒で休憩室へとやってきた。
そして、一瞬ではあったものの確実に、大聖はあのパートの女を視認した。直後、彼は自販機に身体を向けたため、萌七からその顔が見えない。
商品を選ぶ大聖。
ガコンッという音ともに彼は前屈みになった。
ペットボトルを取り出し、踵を返す。そうしてやっと萌七は大聖の横顔を見ることができた。
彼は口元を隠していた。だがしかし、萌七には彼が今どのような表情をしているのか即座にわかった。萌七でなくとも、隠していない目元を見れば、一目瞭然だ。
大聖は明らかににやついていた。
萌七は、今すぐに大声で彼氏を呼び止め、公衆の面前で問い質してやろうと思った。
しかし万が一勘違いだったとしたら、という一縷の望みが頭を過る。
笑ったのは何かが大聖の琴線に触れたからだけなのかもしれない。
女が大聖と同じ服を着ているのは本当に偶々、偶然なだけかもしれない。
そう思った。
だがしかし、萌七は気付いてしまった。
―――女の名札
以前、大聖が楽しそうに仕事をしていたときの、あのパートと同じ名前だった。
―――鈴木海心
初めて覚える感情を、昼食のサラダとともに、萌七は何度も噛み千切った。