ランチ
言葉足らずな部分があるので、あらすじから読んでいただけると幸いです(あらすじは随時更新していきます)。
山上大聖:ヤマガミ タイセイ
鈴木海心:スズキ ウミ
伊藤萌七:イトウ モナ
※あらすじから読んでください※
9月のある日、山上大聖は自棄になり、賭けをすることにした。
彼の職場に勤めるパート、鈴木海心は退勤時、誰かとすれ違ったり目が合ったりすると必ず「お先に失礼します」と挨拶をしている。社員である大聖に対しても、それは例外ではない。
今日ももし彼女が挨拶をしてくれたなら、これを渡す。しかし挨拶をしてくれなかったなら、これは渡さないし、彼女への想いは忘れる。彼女を、諦める。
夕方になり、海心の退勤時間を迎えた。
外で出荷物の数量を確認しながら、大聖は今か今かと彼女を待ち構える。
そうしてついに海心が現れた。
二人の目が合う。
「お先に失礼し―――」
「―――あ、これ、落としましたよ。」
海心が言い終わる前に、大聖は彼女を引き留めた。
「えっ、あっ、ありがとうございます………、………?」
振り返り、大聖から落とし物として差し出された“それ”は海心にとって身に覚えのない物だった。
「落としましたよ。」
有無を言わせない彼の声音に圧された海心は「ありがとうございます………?」と訝しみながらも“それ”を受け取った。
「お疲れ様でした。」
大聖は何事もなかったように出荷物へと向き直る。
「お先に………失礼します………?」
海心は大聖から渡されたそれ―――四つ折りにされた紙片を不思議そうに見つめながら、その場を後にした。
彼女の後ろ姿を横目で見届けた大聖は大きく息を一つ吐いた。
あの紙には、大聖の個人的な連絡先である、メッセージアプリのIDが書かれている。しかしIDだけでは“軽い”と思われそうで、携帯電話の番号も付け足してある。
それを、ついに、渡してしまった。
大聖はその後、仕事に集中できなかった。帰宅してからも、自身の携帯電話を何度も確認しては何の通知もないことにため息を吐く、ということを21時まで繰り返した。
23時に差し掛かった頃には、大聖は泣きそうになっていた。
勝つ見込みがあるから賭けをするのだ。
しかしそれは思い違いだったのか。
上司として見られているだけなのに恋愛感情を持たれていると思って猥褻行為に走る中年男性の、まさにそれ。
大聖は誕生日を迎えたばかりの23歳であり、新卒入社でまだ4ヶ月程度しか経っていない新人社員だ。自分の立場を弁えてた“つもり”でしかなかったというのか。
明日からどの面下げて仕事すればいいんだと枕に顔を突っ伏していた、そのときだった。
携帯電話から通知音が短く鳴った。
嘘だと思った。逸る気持ちに、そんなわけないという保険を掛けて、携帯電話を見る。
メッセージアプリの通知が表示されていた。それをゆっくりとタップする。
《 鈴木です。
お疲れ様です。夜分遅くにすみません。
登録して大丈夫でしたか。 》
メッセージは待ちに待っていた『鈴木海心』からのものだった。
興奮状態のまま、大聖はすぐに返事をする。
《 お疲れ様です。
登録ありがとうございます。僕のほうも登録させていただきました。 》
《 先程は突然連絡先を渡してしまいすみませんでした。
人の目がどうしても気になってしまい、あのような形を取りました。 》
《 なぜこんな遠回しなことをしているかというと、鈴木さんを食事にお誘いしたかったからです。 》
《 もしよろしければ都合の合う日、どうでしょうか。 》
大聖は震える指でなんとか誤字脱字なく文字を打つことができた。
既読はすぐに付いた。しかし返事は10分以上経っても届かなかった。
連投しすぎたからか。急な誘いに戸惑っているからか。
ベッドの上でぐるぐる考えていると、大聖がメッセージを送ってから30分後、再び通知音が鳴った。
《 平日でよろしければ、ぜひ。 》
大聖は彼女の返事を何度も読み返した。
『平日でよろしければ、ぜひ。』とはつまりOKと受け取って良いのだろうか。
不安を拭いきれないまま、大聖は急いで携帯電話をタップする。
《 ありがとうございます。
早速で申し訳ありませんが、来週の水曜日は空いていますか。 》
職場にはパート全員の、その月のシフト表がホワイトボードに貼り出されている。ホワイトボードはその日行う作業の割り振りが書かれていて、シフト表は当日の出勤名簿代わりにもなっている。
社員はその日の作業終わりにシフト表と照らし合わせながら翌日の作業分担を決めているのだが、シフト表から翌日出勤するパートを抽出しているのが新入社員の役目だ。大聖はそれを利用して、海心のシフトを頭に入れていた。
《 来週の水曜日は、仕事は休みですが午後から用事がありますので、ランチということになってしまいますがよろしいでしょうか。 》
さすがに休日のスケジュールまでは知ることができないが、その日は偶然休みが被っていたのだ。
《 ランチで構いません。
それでは、来週の水曜日にランチということで。 》
《 アレルギーや嫌いな食べ物はありますか。
何か食べたいものもあれば教えてください。 》
《 承知致しました。
アレルギーなどはありません。
山上さんの食べたいものに合わせます。 》
《 了解しました。
念のため。かしこまったところにはしませんので、ご安心ください。 》
《 場所を決めましたら、再度ご連絡致します。
よろしくお願い致します。 》
《 承知致しました。
よろしくお願い致します。 》
大聖はふうっと一気に息を吐く。無意識のうちに呼吸が疎かになっていた。それだけ緊張していたのだと彼は再び枕に顔を突っ伏す。そしてじわじわと現実味を帯びてきて、大聖は文字通り身悶えた。
海心とのやり取りを何度も読み返しては、うわぁうわぁと震える。
今日は素晴らしい日だ。職場である倉庫の支店長、伊藤恵子から意味不明な理由で怒鳴られ何もかもが嫌になり自棄になって、その勢いに任せて賭けに出た。本当によかった。
大聖は賭けに勝ったのだ。
翌朝、大聖は出勤してきた海心と階段ですれ違う。
「おはようございます。」
先に挨拶したのは海心だった。昨日と何も変わらない様子でそのまま通り過ぎていく。
「―――いやあの!」
大聖は咄嗟に引き留めてしまった。
「あっ………いや、なんでもないです………。」
不思議そうに首を少し傾げた海心は曖昧に会釈をし、階段を上っていった。
何かおかしいないか。
大聖は階下へ歩みを進めながら、海心の様子を反芻する。
昨夜彼女とメッセージのやり取りをした。多少なりとも大聖に親しみを覚えたはずだ。職場だからそういうことを持ち込まないようにしている可能性は大いにあるが、それにしても………。
大聖と海心の関係が少し進んだことを、喜んでいるのは大聖だけで、海心は何とも思っていないのかもしれない。そう考えたら大聖は哀しみの余り死にたくなった。
絶望的な感情を抱えたまま、大聖は午前の業務をこなす。
昼休憩。
大聖はいつものように、休憩室に入ってすぐの、窓と対面になっている一人席に腰を下ろす。パートも同時に休憩に入るため休憩室は騒々しくなるが、大聖は自分だけ別世界にいるような静けさを感じていた。
大聖の席から一番離れた、通路側の4人掛けテーブルには海心が弁当を広げて座っていた。彼女は仲の良いパートの女性と会話を楽しんでいる。時折くすくすと笑っている海心の様子を、誰にも気付かれないように大聖は覗う。
自分も彼女と他愛ない会話をしたい。しかしこの職場にいる限り、その望みは絶対に叶わない。
今朝の哀しさは、昼になった今も、大聖の身体の奥に重く居座っている。
こんなことをするべきではないとわかっていた。わかってはいたが、今すぐにそうしないと目の前の窓から飛び降りてしまいそうだった。
だから大聖は海心にメッセージを送った。
《 パスタは好きですか。 》
ぼーっと携帯電話の画面を眺めていると、何の前触れもなく既読が付いた。思わず海心へ顔を向けてしまった。
二人の視線がぶつかる。
慌てた様子ですぐに顔を下に向けた海心とは対照的に、大聖は何事もなかったよう徐に顔を携帯電話に戻した。その内心は何度も飛び跳ねて歓喜している。
メッセージの相手は本当に海心だった。実は海心ではなかったのではという不安も、彼にはあったのだ。
《 好きです。 》
告白されたかのような文字にドキッとしてしまう。
《 了解しました。
ではランチの件ですが、パスタ屋さんにしようと思うのですが構いませんか。 》
《 承知致しました。
よろしくお願い致します。 》
とりあえず窓から飛び降りるのはやめよう。
大聖は緩む口元を手で隠しながら、休憩時間が終わるまで、海心とのメッセージを眺めていた。
その後は数回メッセージのやり取りをした。
《 お疲れ様です。
来週水曜日のランチについて、午後から用事があるとのことでしたが、具体的に何時頃までなら空いてますか。
(パスタ屋さんの予約を何時にしたほうがいいのか参考にしたいので…) 》
《 お疲れ様です。
時間を知らせず申し訳ありませんでした。
ちなみに、そのパスタ屋さんはどこにありますでしょうか。
場所によって、どこの駅に何時に着けばいいのか変わるので、具体的な場所を教えていただければ幸いです。 》
《 こちらのほうこそ気が付かずすみません。
K駅の近くにある店を予約しようと思っています。 》
《 ありがとうございます。
K駅でしたら、T駅に14時に着けば大丈夫です。
よろしくお願い致します。 》
《 了解しました。
少し早めですが、11時半で予約したいと思います。
よろしくお願い致します。 》
《 承知致しました。 》
大聖は砕けた言葉を使いたかったが、しかしタイミングを掴めないまま、ランチ当日を迎えた。
大聖は待ち合わせの駅に、集合時間より10分以上早く着いた。しかし既にそこには海心が携帯電話を眺めながら待っていた。
「おはようございますっ。すみません、お待たせしました。」
慌てて彼女に駆け寄り、大聖は申し訳なさそうに目を伏せた。
「おはようございます。いえ、私が早く着きすぎてしまっただけなので。」
海心は否定するように手を振って大聖に笑いかける。
「本当にすみません。これからはもっと早く来ますね。」
「………これから………?」
ぽつんと呟いた彼女の言葉に、大聖は顔を真っ赤にする。
「いや! ホントに! すみません! それじゃあ行きましょうか!!」
全てなかったことにするように、大聖は改札口へ歩き出す。その後ろを海心はついていく。
「こんなこと聞くのはどうかと思いますが、あの、駅には、何時に着いたんですか?」
「………10時半くらいです。」
「なんでそんなに早く?」
もしかして自分とのランチが待ち遠しくて早く家を出てしまったとか………と間の抜けた期待をしてしまう大聖。
「バスの時間が、ちょうど良いのがなくて、1,2分遅刻してしまうよりは、30分早く着くほうがいいと思いまして………。」
「あっ………そうだったんですね………。」
物理的な理由だった。
二人はホームへ下るエスカレーターに乗る。
「………あれ? バスに乗ってきたんですか? M駅から?」
「? M駅じゃないですよ。」
「えっ、Mに住んでるんじゃないんですか?」
「違いますけど………?」
大聖は仕事終わりの海心を見掛ける度いつも見送っている。見送るといっても、ただ横目で見ているだけなのだが。
大半の従業員は車か自転車で通勤しているが、海心は歩きだった。だからてっきり、彼女は徒歩通勤で、職場かその最寄りであるM駅の周辺に住んでいるのだと思っていた。
「じゃあどこに住んでるんですか?」
「Fです。」
エスカレーターを降りながら大聖は驚いた声を上げる。
「えっ、俺もFに住んでます。あ、でもF駅じゃなくて、バスで来たんですよね。お家はF駅の近くではないんですか?」
「はい、F駅から車で10分くらいのところです。」
「そうなんですね。だったら俺、車で来たから、迎えに行ったのに。」
ホームの乗車口に辿り着いたとき、大聖は海心の表情が俄に険しくなっていることにようやく気付いた。
「あっ、すみません、出過ぎたこと言いました………。」
しまったと口元を押さえる大聖に、彼女は慌てて首を振る。
「そんなことないです! 山上さんもFに住んでるなんてびっくりしてしまって………すみません………。」
大聖を傷付けてしまったかもしれないと沈む海心とは反対に、大聖の心は弾んでいた。
海心の表情は、職場では、笑ってるかぼーっとしているかのどちらかでほぼ成り立っている。だから彼女が顔を顰めるなど、大聖は今まで一度も見たことがなかった。
もっと困らせてみたい、と思ってしまった。
「いつも仕事に行くときはどうやって来てるんですか?」
「Y駅というところまで送り迎えしてもらってて、電車に乗ってM駅まで行って、そこから歩いて行ってます。」
気まずそうに話す海心が、大聖の加虐心を煽った。もう少し突っ込んだ質問をしたいと思ったが、しかしそれで嫌われては元も子もない。大聖は「そうなんですね。」と言って会話を打ち切った。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
目の前で停まった電車に、二人は何も言わず乗り込んだ。席は空いていたが、隣同士で座るにはお互いまだ気が引けるため、なんとなくドア側に立った。
「K駅にはよく行きますか。」
沈黙を破ったのは大聖だった。
「時々行くくらいです。山上さんはよく行くんですか?」
「学生のときはよく行ってました。でも就職してからは全然行かなくなりました。」
「あー………、色々、忙しいですもんね。」
含みのある言い方だったが、そこに皮肉はなく、労るような声色だった。心配するような様子も海心から覗えて、大聖の胸は温もりで満たされていった。
海心は大聖の立場を知らないはずがなかった。端から見れば大聖は伊藤支店長に媚びへつらってゴマをすってご機嫌を取っている。
実際その通りだし、彼自身にもその自覚はある。しかしそれは好き好んでしていることでは決してない。そうしなければ、今よりもっと罵倒され、詰られるからだ。自分の身を守るためにはそうするしかなかった。
気に入られてよかったねと、同僚に卑しむ眼差しで言われたこともある。
しかし海心は違う。見下すような態度では絶対ない。だからといって憐れむわけでもない。
まるで励ますような、気遣いを感じる。
彼女を抱き締めたら、確実にもっと癒やされるだろう。しかし今いる場所は電車内だ。大聖はなんとか踏み留まった。
「今日も、」
それなのに海心は上目遣いで言う。
「貴重な休みですよね。それを私となんて………。」
そして目を伏せた。大聖に対し申し訳なさが滲むその仕草から、海心は大聖の気持ちに気付いていないようだとわかる。
やはり今ここで抱き締めるべきか。
真剣にそんなことを考えながら、しかしそれを気取られないようにして、だからといってはぐらかすようなことは言いたくないと、大聖は俯く海心を真っ直ぐに見て答えた。
「僕から鈴木さんを誘ったんですよ。」
海心の肩がビクッと跳ねたかと思ったら、ハーフアップにした髪から少し覗く項がみるみるうちに赤くなった。
そこに唇を落としたら、彼女は一体どうなってしまうだろう。そしてそれを知ってしまったら、自分は理性を抑えることができるだろうか。
まもなくK駅に着くという車内アナウンスにより、大聖は我に返る。
電車のドアが開き、乗ったときと同じように何も言わず降りる。
「こっちです。」
改札口を出て右に曲がり、外に出る。それから歩いて2分ほどで目的地に到着した。
建物は古い洋館といった雰囲気で、黒を基調としているからか、ここだけ別の空気が漂っているようだった。中に入ってもその印象は変わらなかったが、店内をほんのり照らす間接照明が温かみを感じさせる。
大聖が店員に予約の旨を伝えると、席に案内された。
二人掛けのテーブルに、向かい合わせで座る。
「お飲み物をお伺い致します。」
お冷やとともに差し出されたメニューに目を通す。
「ウーロン茶でお願いします。」
「リンゴジュースを………。」
「かしこまりました。」
店員は二人からメニューをそれぞれ受け取り去って行った。
「素敵なところですね。ここにもよく来るんですか?」
そう言って海心は辺りを小さく見回す。
「たまに、ですね。」
大聖は少し気恥ずかしそうに水を一口飲んだ。
彼にとってこの店は今まで何人かの女性と来たことがあり、一度も外したことのないレストランだった。海心との初めての食事なら尚のこと、絶対外すわけにはいかない。
しかし、だ。
店の雰囲気からしてこれまで作った複数の恋人を連れて来た場所だというのは明らかで、そんな店に海心を誘うことは、彼女にとって良い気分にはならないだろう。
やはりやめておくべきだったか。
チラッと海心を覗うと、彼女はそんなことより店内のインテリアに興味を示しているようだった。
彼女は人に対してネガティブな感情を持ったことがないのか。大聖は逆に心配になってしまった。
「お待たせ致しました。リンゴジュースでございます。」
海心の目の前にジュース、
「ウーロン茶でございます。」
大聖の目の前にウーロン茶が置かれる。
「お食事の準備ができ次第、お持ちしてもよろしいでしょうか。」
「お願いします。」
大聖の返事を聞き入れた店員は一度頭を下げてから厨房へと姿を消した。
「お食事って………?」
「予約するときにメニューも決めさせてもらいました。すみません、断りもなく………。」
「いえ、そうだったんですね。楽しみです。」
海心は屈託なく笑った。
彼女は不思議な人だと大聖は思った。年齢を聞いたことはないが、世代的には同じくらいで、大聖より少し年上だと思われる。
海心以外の年上のパート達は新入社員でまだわからないことだらけの大聖を君付けして息子のように扱う。歳の近いパートもアルバイトと大差ない接し方をする。しかし海心は年下の大聖を社員として、上司として扱い、目上の人として接してくれる。
だからというべきか、なかなか二人の距離が詰まらない。今こうして目の前にいるのに、大聖にはどこか一線を引かれている気がしてならない。
「休みの日は何をしてますか。」
少しでも彼女を知りたくて、しかし深いことはまだ聞くことができず、当たり障りのない質問をした。
「録画した番組を観たり、ゲームをしたりしてます。あとは、時々映画を観に行きます。」
「観に行くって、映画館に行くってことですか?」
「そうです。山上さんは映画館に行きますか?」
「いや、あまり行かないです。」
「そうなんですね………。」
明らかに海心の肩が落ちた。
そのタイミングでサラダが配られる。レタスとミニトマト、クルトンに玉葱のドレッシングがかけられたシンプルなサラダだ。
大聖は海心にフォークを差し出した。
「どんな映画を観るんですか。」
フォークを受け取った海心は小さくお礼を言った。
「映画全般好きですが、ホラーとかB級とかが特に好きです。この間観たのはドラマが映画化したもので、でもこの辺じゃあやってなくて、東京まで行きました。」
楽しそうに海心が語るので、大聖はもっと質問してみた。
「その映画ってどんな話だったんですか?」
「なんというか………、ドラマは、スランプに陥った小説家がある日大学生と出会って、その人と心を通わせていく中でまた小説を書き始める、………みたいな? 映画はその後の話でした。」
ホラーでもB級でもなさそうな内容だった。
「ドラマをやっての映画化ならある程度人気ありそうなのに、この辺じゃやってないって、よくあるんですか。」
「そんなことはないんですが、今回のはあまり万人受けするような内容ではなかったので………。」
なぜか気まずそうにしてサラダを頬張る海心。あらすじを聞く限り大人のラブストーリーといった感じにしか思えず、大聖はあとで調べてみようと心に留めた。
「映画自体観ませんか?」
今度は海心が大聖に質問をする。
「あまり観ないですね………。あ、今やってる、オススメの映画はありますか。」
「オススメって、うーん、なかなか難しいですね………。今というか、今週の土曜日から始まる映画は観ようと思ってます。」
それは老若男女誰もが知っている巨大怪獣のアメリカ版だった。
店員が空になったサラダの皿を片付けていった。
「俺も映画館行ってみようかな。」
「ぜひぜひ。スクリーンの迫力は本当にすごいですから。」
少ししてメインディッシュが運ばれる。ボロネーゼとクワトロフォルマッジがそれぞれ大皿にのっていて、取り分け用の皿とトングとともに、テーブルに置かれる。
「取りますね。」
そう言ってトングを手にしたのは大聖だった。
「ありがとうございます………。」
海心は恐縮しながらパスタが盛り付けられた小皿を大聖から受け取った。
「山上さんは、お休みの日は何されてるんですか?」
「寝てます。」
直後、大聖はしまったと思った。彼が精神的にきつい状況に置かれていることを知っている海心からしたら、『寝てる』なんて一番反応に困る答えだろう。
正直に答えなくてもよかったのだ。
しかし海心が自分の好きなことを楽しそうに話すから、可愛い彼女を見ていて気が緩んでしまっていた。
どう言い直そうか大聖が逡巡する刹那、海心は冗談っぽく笑って言った。
「じゃあ休みの日に映画観に行ったら、映画館暗いから、寝ちゃうかもしれないですね。」
大聖は一瞬呆気にとられる。そして海心の言葉を理解すると、思わず吹き出してしまった。
「確かに! 暗いしじっとしてるし、寝ちゃうかも!」
鼾をかいたら最悪ですよと付け足しながら、海心も一緒に笑う。
何でもないことを何でもないことと笑い飛ばしてくれる彼女が大聖には救いだった。
「じゃああまり出掛けないんですね。」
大聖が泣きそうになっていることにも気付かない海心は会話を続けた。大聖はパスタと涙を飲み込んで応えた。
「最近はなんの予定もなく、休日を過ごしてます。もうすぐ誕生日なんですけど、その日ですらなんにもやることないです。」
「誕生日はいつなんですか?」
「今月の26日です。」
「来週じゃないですか! おめでとうございます!」
「ありがとうございます。鈴木さんは? 誕生日いつですか。」
大聖は好機を逃すまいと間髪入れず聞き返した。
彼女の守備範囲がわからないまま、自分の年齢を告げるのはかなりリスキーだ。大聖は海心が何歳でもどうだっていいが、海心はそうではないかもしれない。
大聖が自分より年下であることはわかっているはずで、それでもこうして同じ時間を過ごしてくれるのだから、多少なり脈はあるはずで。
しかしその脈は容易く切れてしまうかもしれない。
だから、年齢なんて関係なく、海心が大聖自身を受け入れてくれるまでは年齢を明かさないと決めていた。
海心は少し恥ずかしそうに答えた。
「2月14日です。」
「えっ、バレンタインなんですか!」
「そうなんです。だから私にとってバレンタインは、チョコを渡す日じゃなくて、貰う日なんです。」
えへへっと自慢気に笑う海心。年上の女性を可愛いと感じる日が来るとは思わなかった。
メインディッシュを食べ終わると、デザートが運ばれた。ショコラテリーヌに、苺のソースがかけられたバニラアイスが添えられている。
大聖はケーキに目を輝かせている海心を見て、自分が予め頼んでいた料理たちはとりあえず彼女の御眼鏡に適ったと胸を撫で下ろした。
「ケーキ、お好きなんですね。」
「はい、甘い物が好きなんです。山上さんは?」
表情を綻ばせながらデザートを食べる海心に、大聖も頬が緩む。
「俺も好きです。」
「一緒ですね!」
大聖が目を見て言った言葉は海心に届かなかった。
一通り食べ終わると、海心は「お手洗いに行ってきます。」と席を立った。その隙に大聖は伝票を財布に入れる。
海心が戻ってきて、「俺も行ってきます。」と今度は大聖が席を立つ。
トイレはレジを通り過ぎたところにある。なぜこの位置にあるのか、大聖は疑問に思ったことなど今までなかったが、“この為”かと初めて気が付いた。
「お待たせしました。」
トイレから戻ってきた大聖は海心が手荷物を纏めていることを確認してから「じゃあ行きますか。」と促した。
レジをスルーして外に出ようとする大聖に戸惑う海心。
「え、お会計は………?」
海心はレジを気にしながらも大聖の後をついていく。
「もうしました。」
「えっ、いつ!? いくらですか!? 私も払います!」
すぐさま鞄に手を突っ込んで漁る海心が可笑しくて、笑いをこらえながら大聖は彼女を制止した。
「いや大丈夫だから。俺が誘ったので、ほんと、気にしないで。というか奢らせてください。」
ね?と笑いかければ、海心は渋々といった様子で鞄から手を抜いた。
大聖は腕時計を見る。針は13時を示していた。
「まだ時間あるし、どこか行きたいところありますか?」
一瞬の間を置いたあと、海心は何かを思い出したのかハッと顔を上げた。二人の目線がかち合う。
「行きたいところ、あります。」
力強く答えた海心が向かったのは駅前にある百貨店だった。
ガラス張りの扉を潜ってすぐ、大聖の目に飛び込んできたのは、カラフルなショートケーキだった。他にも洋菓子や和菓子など、様々なスイーツの入ったショーケースが所狭しと並んでいる。『デパ地下』とはまさにこのことといったフロアだった。
平日ということもあり混んではいなかったため、海心はスイスイと進んでいく。しかしこのような場所にあまり来たことのない大聖にとっては人にぶつからないように歩くだけで精一杯だった。
海心を見失いこそしないが距離が開いてしまいそうで、しかしふと、これは手を繋ぐ好機ではないかと、天命のようなものを感じた。
大聖が海心へ手を伸ばしかけたとき、彼女はふと立ち止まり振り返った。
「ここ―――、なんですけど………、どうかしました………?」
不自然に斜め上を見る大聖に、海心は首を傾げる。
「えっ、あっ、えっと、あっ、ここ、チョコで有名な店ですよね!」
大聖は話を逸らせるためショーケースを指差した。
「そう、です。私、甘い物が好きで、ここのチョコレートはどれも美味しくて好きなんです。」
海心は少し挙動のおかしい大聖に疑問を抱きつつもショーケースに向き直り、商品を吟味し始めた。
「これとこれと、これください。こっちはプレゼント用でお願いします。」
彼女は店員に6個入りのものを二種類、8個入りのものを一種類指して、後者を包装するようお願いした。
その様子を後ろで見ていた大聖は商品の値段から、チョコ一粒の値段を瞬時に逆算した。プレゼント用にと指名したものはそれが8個も入っている。
決して安くはないものを、一体誰にあげるというのか。嫉妬なのか怒りなのかよくわからないものがふつふつと沸き上がる。
「ありがとうございます。」
海心は店員にお礼を言って紙袋を受け取った。
「少し、見て回ってもいいですか?」
大聖に振り向いた海心は満足げに笑っていた。
「いいですよ。」
ただならない想いを悟られないように、大聖は海心に微笑んだ。
待ち合わせをした駅に戻ってきた。
「今日はご馳走様でした。久々に家族以外の人と出かけて、楽しかったです。」
「俺も楽しかったです。また行きましょうね。」
少し頬を赤らめて、海心は曖昧に頷いた。
名残惜しく「それじゃあ」と大聖は踵を返したときだった。
「あのっ、これ!」
そう言って海心が差し出したのは、ランチ後に立ち寄ったチョコレート店の紙袋だった。
「ちょっと早いですけど、お誕生日おめでとうございます。」
「………………あっ………、ありがとうございます………。」
大聖は海心の言葉を理解するのに手間取った。
紙袋を受け取り、中を覗く。当然そこには、綺麗に包装された、小さい長方形の箱があった。
帰りの電車内において海心の手に提げられた紙袋をどうやって投げ捨てようか熟考していた大聖にとっては青天の霹靂で、気の利いたリアクションを取ることができなかった。
「ランチをご馳走になったお礼も兼ねてるので、気楽に受け取ってください。」
大聖の眉間に皺が寄っていたからだろう。海心は深い意味はないと笑いかける。
「それじゃあ、失礼します。」
そう言って、今度は海心が踵を返し去っていった。
後に残された大聖もその場から離れ、駅ビルの駐車場に向かう。彼は一歩一歩足を進めるごとに自分の顔が緩んでいくのがわかった。
最初からこれをプレゼントしようと思っていなかったはずだ。大聖がどこか行きたいところはあるか聞いたとき、彼女は何かを思い出したのでなく、思い付いたのだろう。
チョコレートのケーキを食べて甘い物は好きだと答えたからか。その海心の行動全てが大聖に繋がっているように思えた。
自分の車に乗り込みドアを閉めた瞬間、大聖の力が一気に抜けた。
海心を好きだ。
彼はもうそれしか考えられなかった。
とりあえず帰ろう。いや、帰る前にメッセージを送ろう。
大聖は携帯電話をパンツのポケットから取り出す。電話の着信通知を無視して、海心のアカウントをタップしチャット画面を開いた。
《 先程はチョコをプレゼントしてくださり、ありがとうございました。
今日はとても楽しかったです。
今度、一緒に映画を見ませんか。 》
あとは送信するのみというタイミングで、電話の着信が入った。
“伊藤萌七”という文字列に、大聖は殴られたような気分を味わう。
昼前からずっと電話の着信があり、ずっと無視していた。また無視してもよかったが、後々のことを懸念した大聖は仕方なしに電話に出た。
「………もしもし………。」
『やっと出た~! もーっ、何回も電話したのにぃ! なんで出ないの!?』
「寝てた………。」
『えぇ!? もう2時過ぎてるよ!』
言われなくても知っている、という台詞は飲み込んで、「ほんとだ。」と返した。
今さっきまでゆったりと話す海心といたため、萌七の捲し立てるような自信に満ち溢れた話し方に落差を感じる。
『じゃあお腹空いてるでしょ。ご飯食べに行こ。ウチまで迎えに来てね!』
相手の返事を待つことなく萌七は電話を切った。
大聖は重いため息を吐いた。
行きたくない。二度寝したということにして、自宅に帰りたい。
しかしそんなことをした日には萌七からなんと言われるか。
再びため息を吐いた大聖は携帯電話を助手席に放り投げた。硬い紙にぶつかる音がした。
弾かれたように視線を向ければ、そこには海心からプレゼントされた紙袋があった。
これを萌七に見られたら取り返しのつかないことになる。
大聖は、萌七に見つからないところに隠さなければと、真っ先にグローブボックスを開けた。押し込めばなんとかなると思ったが、助手席に萌七が座るのは必然で、万が一にもここを開けられるか何かの拍子で開いてしまったらと最悪の状況が頭を過る。
紙袋を掴んで車を降りた。急いで荷室を開け、ラゲッジボードを持ち上げた。
ここなら例え見られてもボードで隠せる。わざわざ床下を覗くことはないだろう。
かなり心苦しかったが、紙袋を折り込んで体積をなるべく小さくし、まだ使っていない雑巾で包んで隅に置いた。ラゲッジボードを綺麗に戻し、荷室を閉める。
運転席に戻った大聖は車のエンジンをかけ、駐車場を出た。
恋人という存在を、今日ほど煩わしく思ったことがなかった。
萌七は大学3年生であり、伊藤恵子の娘でもあり、大聖の恋人でもあった。
恋人といっても、大聖は萌七を好きでも嫌いでもなく、どうでもいい存在にしか思っていなかった。ただただ自分の立場上、断るのが面倒なだけだった。そして今日で嫌悪の対象に変わったし、今すぐにでも別れたくなった。
萌七は大聖が自分を好いていないことは承知している。しかしそんなことは彼女にとって些末なことだった。自分が気に入ったものなら相手がどう思おうが関係ない。だから親の地位を利用して大聖に近づいたのだ。
海心が伊藤の娘ならよかったのに、と大聖は車を走らせながら思う。
もし本当に実際そうだったとして、海心から清廉さは失われ、萌七のような傲慢な女性になってしまうのだろうか。
いや、多少の差異はあるかもしれないが、人の本質は変わらないはずだ。
海心は海心で、萌七は萌七だ。
だからきっと、伊藤の娘であっても、大聖は海心を好きになるだろう。そうしたら今頃助手席には海心がいて、二人きりでドライブに出かけているかもしれない。
妄想を繰り広げている内に萌七の家に着いてしまった。萌七は実家暮らしなので、伊藤恵子もこの家で暮らしている。
大聖は嫌だ嫌だと思いながらも萌七へ電話を掛けた。
『―――遅い!』
呼び出しのコールが鳴る前に萌七の声が大聖の耳を貫いた。
ブチッと切られた直後玄関ドアが開かれ、萌七が現れる。玄関を施錠した彼女は我が物顔で助手席に乗り込んできた。
「あそこ行こっ。」
職場近くの喫茶店の名前を告げた萌七に従い、大聖は車を発進させた。
このまま山奥まで行って萌七を遺棄させてしまいたいという衝動をどうにか抑え込み、目的地に到着することができた。
職場と距離が近い分、職場の同僚と遭遇する確率も上がる。匂わせたい萌七にとってこの店は好都合な場所だった。大聖はというと、海心にさえ知られなければ何でもいいと諦めている。
席に案内された二人はメニューを広げた。当然空腹など感じていない大聖は、しかし萌七に不審がられては困るので、仕方なしに玉子トーストとコーヒーを選ぶ。萌七はストロベリーシェイクを選んだ。
「いつになったら一人暮らしするの。」
萌七はシェイクにストローを突き刺しながら大聖を睨んだ。
「物件探す時間がない。」
大聖は玉子トーストを囓ってはコーヒーで流し込む。
「私達付き合ってるのにまだ何もしてないんだよ! おかしくない!?」
そういうことをこんなところで話す萌七がおかしい。とは言わず「そうだな。」と返した。
「そうだ! 今度温泉に行かない?」
「はあぁ?」
萌七の突拍子もない提案に、大聖は思わず変な声を出してしまった。
「何よ、嫌なの?」
「………温泉ってどこ。日帰りで行けるようなところ、この辺にあったか?」
「日帰りじゃなくて、泊まりね、一泊2日。二泊3日でもいいけど!」
今この瞬間ほど、萌七を殴りたいと思ったことはなかった。
「物件探す時間もないのに、泊まりになんて行けるわけねぇだろ。」
「大丈夫だよ、私からママに言っておくから。」
嫌すぎて泣きそうになる。
「どこがいいかな!」
萌七は携帯電話で温泉地を検索している間、大聖は残りの玉子トーストを口の中に押し込んだ。そして自分も携帯電話を取り出す。
検索するのは温泉地ではなく、誘いの断り方だ。
画面を点けて、しかし大聖の指が止まる。
海心からのメッセージの通知が表示されていた。吸い寄せられるようにそれをタップし、メッセージを開いた。
《 今日はご馳走様でした。とても楽しかったです。
また誘ってください。 》
「―――温泉は行かない。」
大聖ははっきりと萌七に告げた。
「え? じゃあ違うところにするー?」
「旅行自体しない。」
「はっ? なんで?」
明らかに萌七の機嫌を損ねた。しかし大聖は彼女を見据えて淡々と続けた。
「萌七が支店長に言えば、本当に休ませてくれるかもしれない。それに俺一人いなくても仕事は回ると思う。だけどそれは誰かが俺の分まで仕事をしているからだ。決められた休みでもないのに、誰かを犠牲にしてまで、私情の休みなんて欲しくない。これでも責任を持って仕事をしてるんだ。だから、俺のプライドが許さない。」
萌七は気圧されたように視線をずらす。
「え、ちょっと………、あれは冗談だよ………。そんな、マジに受け取らないでよ………。」
学生と社会人の違いを見せつけられたように感じた彼女は気まずさからストロベリーシェイクを一気に飲み干した。
「今日はもう帰る。」
伝票を大聖に押し付けてさっさと退店する。
大聖は今日何度目かのため息を吐きながら会計をしたのだった。