渚にて、サステイン
ハイハットシンバルの心地よいチック音が、鼓動より遙かに早いテンポで鼓膜を揺らす。二小節遅れて、ギターが徐にその弦を振るわせ、キーボード、ベースがゆっくりとその音色を重ねていく。夏の夕景を思わせるような、ハイテンポながらにどこか寥々とした響き。僕の胸は期待に踊る。張り詰めた緊張の糸がきりきりと音を立て、今にも千切れんばかりになったその瞬間、涼やかな風のような歌声が、全ての音を飲み込んでしんと響く。ふぅ、と深く息を吐いて、握りしめていたポータブルプレイヤーの停止ボタンを押した。
耳を覆っていたヘッドホンをそっと外し、ゆっくりと目を開けると、熱を帯びた夏の日暮れは彼方へ霧散し、雨が戻ってきた。屋根を叩く雨音はどこか物憂げで、夢のような夏空から現実に急に叩き落とされたような、沈鬱な雰囲気が部屋に漂い始める。僕はベッドから飛び起き、部屋の隅に置かれたままのギターを手に取った。ハイハットの拍動を想起する。一小節、ピックを持つ指に力が入る。二小節、左手の形をそっと整えて、息を呑む。今だ、ここだ。これ以上ないタイミングで掻き鳴らされるはずの音は、縺れ、ひしゃげ、湿っぽい部屋の空気に吸い込まれて消えていった。舌打ちを一つして、まだ人の形に凹みが残ったベッドに、無造作にギターを放り投げる。胸ポケットから煙草の箱を取り出して、最後の一本に火をつけた。煙は音とは違って、湿った空気にゆらゆらと立ち迷い、じんわりと消えていく。
ギターが弾けなくなって半年が経った。きっかけはよくある手の怪我。それが原因でなんとなくバンドのメンバーと疎遠になり、連絡も取れずにいた。一ヶ月が経って怪我が治ったころには、代理で入ったギターの演奏が好評で、大学でも人気のバンドになっていた。それが三月の頭の話。そのまま春休みの間に、僕は退部届を出した。戻る理由もなかったからだ。ギターを弾くことくらい、独りでだってできることだ。そう思っていたのだが、あれ以来僕は、ギターを弾こうとすると手が強張り、上手く演奏できなくなってしまったのだ。怪我の後遺症かとも思ったが、医者からは手には何も問題ない、心因性のものだろうと言われた。そのまま一度もギターが弾けず、大学の上半期が終わり、夏。まだ諦めきれない僕は、片っ端から持っているCDを聴いてはギターを持ち、引き攣った雑音を鳴らす行為を繰り返している。高校生の頃からこれくらいしか趣味がなかった僕には、他にすることもないからだ。
煙草の火を消し、二本目を吸おうと箱に手を伸ばしたところで、今吸っていたものが最後の一本だったことを思い出した。誰にでもなく悪態を吐いて箱を握り潰す。雨の音は未だに弱まる気配はなく、買いに出ようとする足取りを重くさせるには十分すぎる激しさで屋根を叩いていた。携帯電話で天気予報を確認すると、雨は明日の夜まで降り続くようだ。それならば早いうちに買いに行く方が良いかもしれない。そう決断するや否や、僕は薄手のパーカーを羽織って、ほとんど部屋着のまま雨の中へふらりと出た。
雨が降る夜の街は、まるで死んでいるかのように静まりかえっていた。傘を打つ雨音は不規則に響く。その斑な水音とは対照的に、歩幅は等間隔に、足は決まった拍子で歩みを進める。雨は嫌いではなかった。水溜まりに反射した街灯を、雨粒が作る波紋が小刻みに揺らす。靴が濡れないように右に左に水溜まりを躱して歩くせいで、同じ道のりでもいつもよりずいぶん遠く感じた。家の前を通る小さな路地を抜け、四車線の国道へ。僕が住む町は、山と海に閉じ込められるように四方を囲まれていて、この国道は山をトンネルで貫いて、海沿いを通っている。いつも使うコンビニはこの大通りに面していて、海を一望できる立地の良さから、散歩がてら頻繁に訪れていた。雨に煙る車道の側で怪しく光るその建物で、いつも吸っている銘柄の煙草を一箱と、缶コーヒーを買う。店を出た途端、欲望に耐えきれずに新品の煙草の封を切り、火をつけた。煙はまっすぐ立ち上り、雨に解けて消える。ぼう、と煙と雨の壁越しに少し離れた海を眺める。天気のせいだろうか、いつもより心なしか波が高く思えた。鉛のような海が激しく揺れていた。いつもは白々と広がる砂浜も、雨に濡れ波に濡れ、夜の闇に包まれて銀灰色に沈んでいる。そこに、一つの人影を見咎めた。こんな夜更けに、傘も差さずに、海岸に人がいるだろうか。しかし、煙草の火を消し、よくよく目を凝らそうとも、それは確かに小柄な人のように見えた。思わずコンビニの軒先から飛び出し、車の通りもない国道を渡って、海岸へ繋がるコンクリートの階段を駆け下りた。
砂浜の人影は、どうやら少女のようだった。緩くうねった黒の長髪をひどく濡らして、蹲るようにしてその少女は砂浜に座り込んでいた。歳は高校生、いや、下手したら中学生だろうか。こんな時間に一人でいるということは、家出かも知れない。厄介事はできれば避けたいが、放っておくわけにもいかなかった。
「……あの、大丈夫、ですか?」
返事はなかった。依然として、少女は蹲ったままだ。見たところ鞄も持っていないようなので、もしかしたら親と喧嘩してそのまま家を飛び出してきてしまったのかもしれない。とにかく、このまま雨晒しにしておけないだろう。ちょっと待ってて、と声を掛け、慌ててコンビニでビニール傘とタオルを買う。千円近い出費が手痛い。再び階段を駆け下り、海岸へ。
「これ、よかったら」
開いた傘をそっと、少女を覆うように置くと、ようやく彼女は顔を上げた。責めるような視線に、思わずたじろぐ。
「ありがとうございます。でも、気にしないでください。私、好きでこうしてるので」
ついと視線を海に向け、突っぱねるように少女は言う。
「そう言われても、放っておける感じじゃないし……。家出、とか?」
雨に濡れる年下の――最も、見た目の印象だけだが――少女を放って家に帰り、惰眠を貪ることができるような心臓は持ち合わせていない。なんとか事情を聞いて家に帰らせてあげなければ、眠れぬ夜を過ごす羽目になりそうだった。
「家出、ですか。まあ、そんなところですかね。ほとんど散歩みたいなものですよ。お兄さんと同じ」
表情も変えずに嘯く少女。濡れた前髪から雫がぽたりと滴り、スカートに滲んでいく。
「そう。散歩みたいなものと言っても、親御さんとか心配するんじゃないの。こんな雨だし、濡れると風邪引くよ」
そう言って、買ったばかりのタオルを手渡すと、少女は少し驚いたような顔をして、おずおずとそれを受け取った。
「親は心配なんてしませんよ。全部私が好きだからやってるんです。だから放っておいてください」
またそっぽを向く少女。傘やタオルまで持ってきたのにそんな言い方をされると、見返りやらを求めてやったことではないにしても、少し面白くなかった。むっとした僕は、濡れた砂浜にそのままどさりと腰を下ろした。数瞬、沈黙が続く。
「……あの。なにしてるんですか?」
「僕が好きでやってるんだから、放っておいてくれよ」
痺れを切らして話しかけてきた少女に、したり顔で答えた。夜闇の中でも彼女がむくれているのがわかる。
「そうですか、じゃあ勝手にしてください。私も勝手にします」
そういってそっぽを向く様子は、最初より大分幼い印象を与えた。もしかすると本当に中学生かもしれない。尻の辺りがじっとりと湿っていく。僕は一体、何をしているのだろうか。雨の中、素性の知れない少女と二人、砂浜に肩を並べて座っている。あまりに奇妙な状況だが、自分から始めた手前ここで引くこともできない。こうなったら少女がおとなしく家に帰るまでここに座り込んでやろうか。そう思いちらりと彼女を見やると、彼女もこちらに顔を向けていた。
「あの、タオル、ありがとうございます。傘も。これ、買ってきてくれたんですよね。それなのに、放っておいてくれなんて言っちゃってすみませんでした……。お金払います」
ごそごそと懐を弄りながら、ばつが悪そうに言う彼女。悪い子ではないようだから、きっと何か嫌なことがあって苛立っていたのだろう。親は心配なんてしない、と言っていたし、家族仲が悪いのだろうか。僕も昔はよく母と喧嘩して家を飛び出したものだ。
「いいよ、お金なんて。こっちが勝手にしただけだから。それより、早く帰った方がいいんじゃないかな。親が心配しなくても、この辺、夜は人通りも少なくて危ないから、僕が心配になる」
「見ず知らずの女の子の心配してくれるなんて、お人好しなんですね、お兄さん。……すみません、財布、持ってきてないんでした。お兄さんはこの近くに住んでいるんですか?」
「え、まぁ、すぐ近くだけど……」
「それじゃあ、明日お金返します。明日の夜七時にまたここに来てくれませんか」
「いや、いいってば、気にしなくて」
「それじゃ私の気が済まないですよ。とにかく、もう今日は帰りますから。気分じゃなくなっちゃったし。じゃあまた明日、お兄さん。傘、もらっていきますね」
少女は半ば押し切るようにそう言うと、ぺこり、と頭を下げ、まっすぐ階段を上っていった。僕が来たのとは反対の方向に国道を歩いて行く少女の後ろ姿を、砂浜から呆気にとられたまま見つめる。彼女の輪郭が雨の中へ柔らかく煙り消えていくまで、僕はそのまま動けなかった。
まるで夢でも見ていたようだ、と思う頭に、雨で冷えた体が、これが現実であることを静かに告げていた。雨の夜に、海岸で少女に傘をあげたら、次の日もまた会う羽目になったなんて、友達に話したらどんな顔をされるだろうか。部屋に帰ると、ベッドの上で仰向けに寝転んだギターが侘しげに僕を待っていた。そっと抱え上げ構える。音は、今日も響かない。
天気予報の通り、翌日も雨だった。あの子は天気予報を見なかったのだろうか。わざわざ雨の日に外に出るのは億劫だな、と散弾のように窓を打つ雨粒を眺め思った。けれどもし本当に彼女が来るならば、この雨の中待たせるわけにもいかないだろう。約束の七時には未だ少し早かったが、僕は海岸へと足を進めた。日暮れの町をしとしとと濡らす雨。昨日と違い日没からさほど時間が経っていないので、じっとりとした蒸し暑さが残っていた。少し歩くだけでも肌は不愉快なほど汗ばむ。いっそ傘を捨てて、このまま雨で体を洗い流したい衝動に駆られるほどだった。こう暑くては、傘を鳴らす雨音も、どこか重たく感じられた。そのときだった。ぼたぼたとだらしなく響く雨音の間を縫うように、涼風のような音色が駆け抜けた。足下の水溜まりを躱すのに夢中になっていた僕は、思わず顔を上げた。目の前にはいつの間にか国道が広がっている。その声は国道の向こう側、海岸から聞こえていた。
海岸へ続く階段を、足を滑らせないように注意しながら、ぎりぎりの速さで駆け下りた。暗く沈む砂浜の中央に、昨日僕が渡したのと同じビニール傘が、開かれたまま転がっている。そのすぐ隣で、雨に濡れることも厭わずに、少女は一人歌っていた。誰に歌うでもないその声は、波紋のように静かに広がり、雨をも呑み込んで、海辺に広がっていく。美しい歌声だった。水飴のように甘く、玲瓏で、明瞭ながらも、どこか揺らいだ、そんな。
僕に気づいたのだろう、少女は歌うことをやめ、微笑んでこちらを見た。途端に雨音が、波の囁きが、呑み込まれていた全ての音が戻ってくる。
「ごめんなさい、気づかなくて。来てくれてありがとうございます」
少女は傘を拾い上げ、こちらに歩み寄る。彼女の歌声に目を丸くしていた僕は、上手く声を出すこともできずにいた。
「あ……。聞かれちゃいましたよね。すみません、ちゃちなもの聞かせて。こんな早く来ると思ってなくて……」
そういってはにかむ少女。ずいぶん長く歌っていたのだろうか、頭からつま先まで雨に濡れていた。
「いや、歌、上手いんだね。驚いた。さっきの曲、僕もCD持ってるよ。好きなんだ」
彼女が歌っていたのは僕もよく聴くロックバンドの人気曲だった。幅広い世代に人気のバンドなので、彼女くらいの歳の子でも良く聴いているのだろう。
「お兄さんも好きなんですか? 良いですよね、この歌。お世辞でも褒めてもらえて嬉しいです。あ、そうだ、これ。ありがとうございました」
少女はそう言って懐から茶封筒の入ったポリ袋を取り出した。恐らく中身は傘とタオルのお金だろう。今更無下にする理由もないのでそのまま受け取った。
「どうも。じゃあ、これで。もう家出なんかしちゃだめだよ」
「あの、待ってください」
用も済んだしさっさと帰ろうとしたところを、不意に呼び止められた。少女の頬を雨粒が伝う。
「さっきのバンド、好きって言ってましたよね。CDも持ってるって。私も好きなんですけど、その、CDとかなかなか買えなくて……。お兄さんがもし良ければ、貸してもらえませんか。もちろんタダでとは言わないので」
なるほど、たしかにこの町はCDショップもレンタル店もなく、店で買おうと思ったら少々遠出をしなければならない。少女の歳では通販も難しいのだろう。
「貸すのは構わないけど、学校の友達とかじゃなくていいの? こんな見ず知らずの男からで」
「学校は、友達とか全然いないんで。それに、見ず知らずの子にわざわざ傘をくれる人が、悪い人なわけないですから」
そう言って少女はへへ、と笑った。つられて僕も少し笑う。
「じゃあ、すぐ持ってくるから、ちょっと待ってて。濡れてるしタオルも持ってくるよ。えっと……」
そういえば名前も知らない関係であることを思い出した。すぐに察したのか、少女は慌てて言う。
「あ、渚です。私の名前。呼び捨てでいいですよ」
「ありがとう。僕は喜多川。じゃあ、待ってて。家、すぐそこだから」
さすがに未成年を家に連れて行く訳にもいかないので、さっとCDを家から持ってくる。まだアルバムが三枚とシングルが何枚かしか出ていないので、とりあえずその中から僕が気に入っているものを渡すと、渚は嬉しそうに笑って言った。
「ありがとうございます、喜多川さん。また返せるときに連絡したいんですけど……」
こうして僕は年の離れた少女とメールアドレスを交換し、CDを貸す奇妙な関係と相成った。
渚にCDを貸してから一週間が経ったある日。相も変わらず弾けないギターをいじり回して溜息を吐いていると、携帯電話が短く二度振動した。メールの受信を知らせるバイブレーションだ。開いてみると、それは渚からだった。借りたCDを返したいから今日の夜七時に海岸に来て欲しいという旨と、そのときに別なアルバムも借りたいという追伸が短く記されていた。僕も短く了解とだけ返信する。七時まではまだ大分時間があったが、せっかくの良い天気だったので、ギターを持って海岸へ行くことにした。もっとも、ただ間抜けな音を鳴らすだけの玩具にしかならないのだが、これが心因性のものだと言うのなら気分転換も大事だろう。数ヶ月ぶりに僕はギターケースを背負って外に出た。
日が西に沈むにつれ、海は朱を流したように赤く染まる。それも通り過ぎ、少しずつ夜の準備を始める海岸を僕はただぼうっと眺めていた。ギターをぼろん、ぼろんと鳴らす。腰掛けた砂浜の砂はまだ熱を含んでいて、しかしながらそれも徐々に失われていく。わかってはいたことだが、当然外に出たくらいで症状が治ることはなかった。少しは期待していたのもあって肩を落とす。約束の時間まではまだ早いが、先週のことを考えるともうじき渚も来るかも知れない。ギターをケースにしまいながらそんなことを考えていると、ちょうど階段を下りてくる人影が見えた。渚は何故か今日もビニール傘を持っていた。
「喜多川さん、お久しぶりです。これありがとうございました。私は三曲目が好みだったんですけど、喜多川さんはどの曲が……、それ、もしかしてギターですか?」
CDを渡すや否や、ギターケースに目をつけた渚は、ぱっちりとした瞳を爛々と輝かせ聞いてきた。
「そうなんだけど、ちょっと今、弾けないんだ……。ごめんね」
「そうなんですか……。どうしてなのかって、聞いても大丈夫ですか?」
僕はギターを弾けなくなった事の顛末を彼女に話した。渚は出会って間もない僕の身の上話を真剣に聞いてくれるだけでなく、本気で悩んでくれているようだった。
「うーん、そうですね。難しいことはわからないですけれど……。でも、いつかまた弾けるようになるといいですね。私も喜多川さんの演奏聞いてみたいですし」
結局何の解決にもならなかったが、誰かが話を聞いてくれるだけで少し気持ちが軽くなった気がした。
「ねぇ、喜多川さん。そのアルバムの表題曲、歌えるように練習したんです。少し聞いてくれませんか」
日が完全に落ちた鉛色の海を背に、渚は微笑んで言った。そのあまりに晴れ晴れとした笑顔に、僕は思わず無言でうなずく。
「じゃあ、これ、どうぞ」
そう言って渚は僕にビニール傘を手渡した。どういうことかと聞こうとする僕を手で制して、彼女は歌い出した。風鈴を鳴らすような、凛とした歌声が空気を振るわせ、空へと立ち上っていく。夏のまとわりつくような暑さを押し流す、涼やかな歌声。思わず目を閉じて聴き惚れていると、鼻の頭にぽたり、と何かが当たる感触がした。驚いて目を開け、鼻に触れる。水だ。でも、どこから? そう思ったのもつかの間。先ほどまでは雲など無かったはずの空はいつの間にか墨のような黒い雲に覆われ、ぱたぱたと大粒の雨を降らせ始めた。辺りはあっという間に淡い群青に染まる。空を仰ぐようにして歌う渚を、僕はただただ見つめることしかできなかった。
「あーあ。せっかく傘持ってきたのに、ずぶ濡れじゃないですか、喜多川さん」
歌うことをやめた渚は、傘を持ったまま呆然とする僕にいたずらっぽく微笑みかけた。
「驚きましたか? 私、実は人魚なんですよ」
当然のことのように嘯く。鉛色の海はいつの間にか大きくうねり、力強い波が海岸を攫うように寄せては返す。この実景が夢ではないことを、ぐっしょりと濡れた服の重みが告げていた。
渚が言うには、人魚の歌声には、漁師を惑わせるために雨を呼ぶ力があるらしい。そして彼女は、その力を持った人魚、ということだった。眉唾な話だが、その後も日を跨いで二度、同じように彼女が歌うのと同時に雨が降り始める様を見せられてしまったので、彼女の歌に雨を呼ぶ力があることは信じざるを得なくなった。最も、そのことと人魚の話はどう関係があるのかわからないが。
「喜多川さんがCDを貸してくれて、自分の話を聞かせてくれたお礼です。私にはこれくらいしかできることがないから」
彼女はそう言っていた。確かに珍しいものだし、もしこれが全て偶然や彼女の嘘だとしても、CDのお礼としては十分すぎるくらいの興奮を彼女は与えてくれた。
依然としてギターは弾けないままだったが、代わりに僕は彼女と一緒に歌う練習を始めた。雨云々以前に、彼女の歌は非常に魅力的で、そんな彼女と一緒に歌えることが僕は幸せだった。
「喜多川さんの声、私はすごく素敵だと思いますよ。後は歌い方です、こう、喉を絞めすぎないで、肩の力を抜いて……。そうです、さすが喜多川さん。私なんかよりよっぽど才能ありますよ」
今日も渚はそう言って僕の練習に付き合ってくれた。とっくにCDの礼以上に恩を返してもらっているのだけれど、僕と渚はもうそんな関係ではなく、純粋に友人として、この時間を楽しんでいた。彼女と会う回数は次第に増えていき、今では二日に一回ほどのペースで、海岸で二人歌の練習をしている。
「そうだ、これ、ありがとうございました。これで発売されてるぶんが最後だなんて、なんだか寂しくなっちゃいますね」
そう言って彼女は僕が貸した最後のアルバムと、シングル二枚を僕に渡した。CDをきっかけに始まった交流が終わってしまうと思うと確かに少しもの悲しさはあったが、今は他に会う理由もある。僕にはそれでもう十分だった。
渚から返ってきたアルバムを部屋で流しながら、鼻歌を歌う。この曲は、僕が初めて渚の歌声を聴いたときに彼女が歌っていた曲だ。サビのフレーズの、ギターとボーカルのハーモニーが絶妙で、僕も昔は良くここを弾き語っていた。半年ほどしか経っていないのに、サークルでギターを弾いていた日々が遠い昔のことのように思えた。最近はあまり触っていなかったギターを手に取り、昔そうしたようにサビに合わせて構える。今だ、ここだ。ピックをそっとあてがい、弦を掻き鳴らす。一小節、二小節、演奏は止まない。これまでの半年が嘘のようだった。夏の熱気が籠もった部屋に、ギターの音色が、僕の歌が、広がり、弾み、伸びやかに吸い込まれていく。思わず笑みがこぼれる。なんだ、こんな簡単なことだったじゃないか。そのまま立て続けに演奏しようとしたとき、窓を激しい雨の礫が叩いた。さっきまで雲一つ無かったはずなのに、突然の篠突くような雨。いつもと同じだった。
「渚?」
もしかして、海岸に渚がいるのかも知れない。居ても立ってもいられずに、ギターを急いで背負って、海へと駆け出した。
激しい雨に晒されて、町は泣いているようだった。空は墨を蓄えたような曇天。ビニール傘越しに大粒の雨がぶつかっては流れていくのが見える。水溜まりが反射する街灯の光を力強く踏み抜くと、跳ねた泥水が半ズボンの裾まで飛び散って点々と染みを作った。鼓動より早いペースで左右の足を踏み出す。国道を越えて、階段を飛ぶように駆け下り、夜闇に包まれた砂浜へ。初めて彼女の歌を聴いたあの日と同じように、傘も差さずに、渚はそこで歌っていた。
あの日と違っていたのは、僕がギターを背負っていること、彼女は傘を持っていないこと、そして彼女の両足が、青黒く光る鱗のようなもので覆われていたこと。
「渚……?」
「喜多川さん。来てくれたんですね。……実は、お別れを言わなきゃいけないんです」
少し困ったような顔で渚は言った。彼女の頬を雫が伝っていく。
「私、今日で十六歳になったんですよ。……私たち人魚は、十五歳までは人間と同じように二股の足で陸上で過ごすんですけれど、十六歳になると、足がこんな風に鱗に覆われて、魚達と同じように海で暮らすようになるんです。……黙っててごめんなさい。喜多川さんを困らせたくなくて」
渚は、本当に人魚だったのだ。そして彼女はこれから、棲むべき場所へと帰っていく。そうか。不思議と悲しくはなかった。
「そうだったんだ。僕こそごめんな、渚。正直、人魚だって話、半分疑ってた。……なぁ、聞いてくれよ。ギター、また弾けるようになったんだ。だから……。最後に一曲、一緒に歌わないか?」
「ほんとですか!? 私、喜多川さんのギターだけが心残りで……。よかった。もちろん、ぜひ歌わせてください」
返事を聞き終わるより前に、僕は傘を投げ捨て、背負ったケースからギターを取り出した。ハイハットの拍動を思い起こす。渚に向かってうなずき、ギターを掻き鳴らす。青い雨に呑まれる砂浜を切り裂くように、弦の音が響いた。雷鳴のような前奏を一息に弾ききり、渚を見る。小さく息を吸い込み、引く潮のように穏やかに、彼女は歌う。静かに、波紋のように、彼女の歌声が広がった。波の音も、雨音も、呑み込まれていく。そこにあるのは僕らの歌声と、ギターの音と、澄んだ心臓の響きと、それだけだ。いつまでもここにいたい。この空間に、一生に一度きりにも思える音の中で泳いでいたい。そう思った。渚もきっとそうだったろう。目だけを合わせて、二人笑い合う。湿った砂浜に足を取られそうになるのをなんとか堪えて、ゆっくりと渚に歩み寄った。たった一度きりのセッション。雨に濡れることなんて今更気にならなかった。夜の雨の中、確かに今は、世界で二人きりで。
空に歌うように、天を仰いだ彼女が、ゆっくりと海の中へと歩みを進めていく。渚が遠ざかる。少しずつ雨音が帰ってくる。きっと、彼女は振り返らない。夜が彼女を手の届かない場所まで連れて行く。ゆらゆらと広がる黒髪の輪郭も、鉛色の海に溶けぼやけていった。最後の一小節を弾ききり、近く遠い海にそっと手を振った。ギターの音は伸びやかに晩夏に響き渡る。雨は止まない。不確かで曖昧な夏の夜空から、砂浜に跡を残すような激しさで降り続く。ありがとう。ぽつり呟いて、ピックを海に向かって放り投げる。低い軌道で飛んだ赤いそれは、雨に煙る海中へと、吸い込まれるようにして、消えた。