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一章 初陣で手に余る敵に立ち向かってはならぬ

 そうして余は精神を専門とする医師にかかりつつ、話の通じないワイルドなひげのマイスターから解雇通知を受け取った。

 マイスターは新たな事業へ船出できるように餞別を贈ってくれたのである。

 決してテイのいい厄介払いではない。


 ないはずだ。


 あの熊野郎、次に会ったら殺す。


 ・ー・ー・ー・


 そうして新たな勤めを探すかたわらに通院していると、カウンセラーが耳寄りな情報を届けてくれた。

 商人たるもの、ありがたいのは常にお得意様の紹介である。


「そういえばうちにも幽霊出るのよー」


 舌が曲がるほど甘いコーヒーをいただきつつ話を聞くと、この病院にもそれなりの怪談があるらしい。


 たしかに外壁から内装までいささか瀟洒で時代を経ているが、ソフトは他と比べても見劣りしない。

 働くAIの数より生身の方が多く、症状の説明をしてくれる医師も使う言葉に意識を向けて患者にわかりやすく術語を砕く。


 そのような中に怪談がある。

 余はうれしくなる心もちをぐっとおさえて、話の先をうながした。


 診察棟の奥の、入院患者の西棟にそれは出る。

 決して害を加えたり独特たる面貌で患者をさいなんだりすることなく、ただ現れては消えていくという。


 古株患者は気にしないが、短期入院には必要以上におびえてしまう。

 退院後に実態以上にネットで酷評されて、病院側としてもぼんやり困っている現状とのこと。


「でも、忙しくないからスタッフは余裕あるし、お医者さんもひとりひとりに時間かけられるし。

 飛び込みで騒ぐバカを防ぐためのフィルターとしてはちょうどいいわねー」


 カウンセラーは歯に衣を着せる感覚にとぼしい。


 ともあれ、余にとっては棚から幽霊。

 早速、夜の調査について許可を得るための手続きについて話を進めんとした矢先。

 カウンセラーはただちに内線を二つ、三つととりつけて、ものの五分足らず、


「許可でたわよー」


 ちまたの敏腕の仕事人とは、このように隠れているものかもしれない。


「いいのよー。若い人がやりたいってことをサポートするくらいしか、先輩大人に役目はないのよー。

 それが人類が苦い失敗から得た数少ない正解のひとつなのー」


 そういって、砂糖液のコーヒー割りをおいしそうに飲み干していく。


 余はいまだ若輩、将来にかような大人になれるだろうか。

 いや、今は与えられたチャンスを十全に生かすためになにが必要かを講じるときである。


 ・ー・ー・ー・ー・ー・ー・


 日がとっぷり暮れ、空に月なく、窓の外は必要以上に暗い。


 町の中心からすこし外れたせいで、当初の緑豊かな敷地は自然が回復しだし、棟の間を小動物が地に空に行き交う。

 自然の回復力はものすごい。

 人が通わなくなった山道が消失する勢いが、こんな場所でも起きている。


 約束の時間まで手持ち無沙汰にロビーを歩く。

 コーヒーはすでに飲み尽くし、トイレも二度行った。

 参考すべき書籍に目を通そうにも暗くてまとも読めまい。

 畢竟(ひっきょう)、できることはミニ散歩が関の山である。


 足下の非常灯が薄緑色に床を照らす。

 遠くに明るいのは寝ずの番をする看護師たちの詰め所で、ロビーまで人気を伝えている。

 けれども昼間の雑踏を消し去った待ち合いは、寂しさの度合いを強めて余に心細さを覚えさせた。


 日頃、となり近所にもしない挨拶を交わしたのも、そんな心境のなせるまちがいかもしれない。


 女である。

 太陽の照り返しを思わせる白い生地をたっぷり使ったワンピースは袖や裾にこまかい襞を刻みつけ、胸から下腹部にかけての意匠も幾何学模様でおもしろい。

 腰には結びを模した留め具が子供っぽいだが、目の前で自販機からジュースのパックを取る彼女は成人である。

 頭二つ分は余よりあろうか。

 大柄といってよい。

 しかし威圧感はない。

 使わない時は壁の杭にかけておきたい気持ちにさせる、線の細い女は銀色に近いブロンドだった。


「あなたも幽霊を見にいらしたの」


 退屈な病院内では、怪談は格好の話題だろう。

 かような野次馬が現れることを、事前に予想し得なかった余の怠慢こそ責められてしかるべき。


「幽霊大好きなの、私」


 心からうれしそうに相好を崩す様に、余の警戒心がゆるまないでもない。


 えてして人に話して嘲笑され、あるいは怒鳴られ、(しこう)して無視される傾向の強い研究分野であるから、かように迎合してくれる人はまれといえる。


 とはいえ同志でも過剰に食いつくヤカラはたいてい親しい付き合いを忌避させる性格の一形態を有している場合が多分にあり、その見極めには細心の注意を要する。


「私の見立てでは古い屋敷に出るタイプね。ハンプトンコートのキャサー・リン・ハワードとかウィルトンシャーのロングリート家の幽霊……」


 サー・ジョン・シン。エリザベス朝の長き黒衣をまとった老紳士。


「そう! レッド・ライブラリーの!」


 早口でまくしたて続ける彼女を伴い、くだんの幽霊の観察への出立を余は決意した。

 深夜の病棟を歩くのに詳しい連れ合いは心強い。


 ・ー・ー・ー・

 

「おもしろいこと考えるのね」


 余の幽霊眼鏡論は彼女、スクライン氏にはおおむね好評だった。


「幽霊と眼鏡の関係について興味深いけれど、もっと仮説が立てられないかな」


 余らは入院棟への渡り廊下を歩いていく。

 リノリウムの床は壁までその色を伸ばし、窓サッシの向こうに小禽獣の目が光っている。

 風にそよぐ木々の葉音は雰囲気を高めてくれる。

 余計なサービスである。


「仮説、その一」


 スクライン氏は指を立てる。


「写真を作る側の人間が裸眼の人ばかり使ってた」


 眼鏡の有無が写真の恐怖度に影響を与えるとは思えない。

 その仮説は不自然だ。


「眼鏡をつけると写真自体より『変な眼鏡つけてんなー』ってほうに見る人の意識が向いちゃって写真自体の恐怖度というか、完成度が下がっちゃうんじゃないの。

 アロハシャツ着てたりアフロヘアの幽霊だっていないでしょ。

 あっ、これ仮説その二ね」


 電車に乗ったとき、中の客が二人以上アフロだったことがまずない。

 アフロもアロハもベースとなる普通の格好をした社会があってこそ、目立つという存在理由が存分に発揮される。

 よほど奇抜な伊達眼鏡でないかぎり、写真捏造者はもっと別の心配をするだろう。


「じゃあ仮説その三。

 単純に眼鏡かっこわるいからでは。

 ゲームやマンガでもヒロインのメガネ属性は負けフラグだし」


 いや……まあ、それは……そうかな。そうかも。


 廊下のつきあたり、約束の病棟にたどりついた。


 よくよく考えれば、かような部外者をここまで立ち入らせる許可を電話一本でひったくってくるあのカウンセラーは常識で考えてありえない。


 だが、ありえない存在が余のテーマである。

 幽霊が一区切りついたら、ぜひカウンセリングの魔術的現実も追究してみたい。


 扉に鍵はかかっていなかった。

 軽い音をたてて戸がスライドしていく。


 中の空気はやや淀み、重たい感じがする。

 これが入院棟の静けさか、あるいは霊感のしわざかはわからない。

 歩を進めていくと、スリッパの音がやけに響く。

 非常灯の緑の明かりが足下を照らす。

 他に光源はない。

 遠くで咳き込む音が続いている。

 

 スクライン氏は余の両肩に手をかけて、後ろに続いている。


「今、おならしたらすごい面白いのが出そう」


 余は気にしないが、貴女はそれでいいのか。

 そもそも音の話であろうな。


 空調のせいか暑さはなかった。

 けれども余は胸につかえる違和感がどうにも消えず、立ち止まって一息をついた。

 入院棟にきて、まだ五分とたっていない。


 明暗も定かならぬ遠くの部屋。

 壁がむくりとふくらんで、じょじょに大きくなってきている。

 

 夜目の利くらしいスクライン氏も気がついた。


「あれ……みえる?」


 みえているが……入院患者だろう。

 無人の幽霊屋敷に調査にきたわけではない。


 仮に幽霊だったとしても深夜の病棟、騒ぎ立てるわけにもいかぬ。

 判断保留のまま進む。


 闇がやや薄らいで、視覚がしかと捉えたところ、患者衣にしては丈が長い。


 相貌はフードに隠れて明瞭でない。

 長い丈はコートのように全身を覆っている。

 前の合わせから一本突き出た腕の先に古びた洋灯を掲げて、中で青い火が揺れている。

 足はある。

 コートの裾からのぞく、とがった靴は黒と白の縞模様。


 あれは……なんであろう。


「ああ……あれはまずい」


 スクライン氏も困惑気味な感想を漏らしていた。


「ちょっと話が通じる相手じゃないかも。

 うん……眼鏡がなくて困ってるって幽霊じゃない。

 どちらかというと害毒のあるタイプだけど、どうする」


 どうするとは。


「やっつける、という手段を用意してきたかなってこと」


 幽霊駆除は余の専門ではない。

 なにせこの話を聞いたのが今日で、今もまだ今日である。

 たしかに幽霊と取引するなら身を守る術は講じた方がよい。

 これはいたらぬ点であったと認めざるをえぬ。


「じゃあ一回下がろうか」


 待ちたまえ、スクライン氏よ。

 害毒とはどのようなものか。


「人死にが出るレベル」


 一刻一秒を争う場合ではないか。

 たとえ苦手であろうと、目の前の丹精する花木についた害虫を見つけたならば、今払わねば被害は大きくなるばかりだ。


「私が少し心得あるから、最低最悪の結果にはならないと思う。

 でも決断はいつも自分でしたいでしょ」


 余の精神は意外と凪いでいた。

 いろいろ驚きすぎて、各種感覚がしびれていたのかもしれない。

 おかげで冷静に事態に対処できそうな気がしていた。

 

 今、くだんの存在は背を向けて離れていかんとしている。

 

 相手が逃げたら、追うべし。


「よし、決まり」


 スクライン氏が余の肩を叩く。


 伸びる廊下をふたつの足音が響く。

 相手はすべるように進んでいく。

 むこうも余の出現に困惑しているのだろうか。

 つきあたりの窓が開いている。

 枠を飛び越えて、洋灯の明かりが揺れる。

 余も後に続かんと、枠に手をかけ勢いよく跳ねたその時。

 

 目の前を青い炎がなぎ払っていった。


 熱さはなかった。

 だが火におびえてしまうのは生き物の性質。

 浮き上がった体の落ち着きどころを失い、余は腰をしたたかに打った。


「大丈夫?」


 保護者然として連れ合いが体を支えて起こしてくれたばかりでなく、今度はスクライン氏が先頭に、ふたりは手をたずさえて追いかける。


 本式の幽霊を目の当たりにしたのははじめてだし、それが悪意ある怪異、悪霊とはおそれいった。


 ・ー・ー・ー・

 

 幽霊とはなんなのだろうか。


 たとえば屋敷の持ち主が「幽霊が出る」とついた嘘に、新聞記者が乗っかり、科学者が興じれば、世間は踊る。

 

 屋敷の周りの商店は幽霊屋敷にちなんだ名物料理や土産物を売るだろうし、見物客のために駐車場ができ、道が整備され、宿泊施設もできあがるかもしれない。

 交通の便がよくなれば、さらに客が国の内外からやってきて、地域経済は潤う。

 住居や職場を移す機運も生まれ、地域はさらに広がっていくだろう。


 幽霊がいるかどうかわからないが、幽霊を語って得をする人間はいるのである。


 屋敷の持ち主が年老い、亡くなった後も話が別の個人に引き継がれて、また誰かに物語るだろう。

 話は書籍からテレビラジオの電波に乗り、インターネットにも刻まれれば、もう消えるものではない。

 わずかしか知らない自称事情通が、「たとえばこんな話があってね」と年端もいかない子供に語って聞かせるだろう。


 屋敷とその周辺は幽霊が「あるものだ」という認識の元に扱われ、目撃情報を含めた幽霊譚は時代を経るごとに累積していく。


 その最たる例こそ聖地における神と奇跡の存在なのではなかろうか……。


 いや、今はそんなむずかしいことを考えても答えは出ない。

 悪霊だろうとで、妖精だろうと、妖怪だろうと、いつかは眼鏡店の顧客にして業績を上昇させてみたいものだ。


 ・ー・ー・ー・


 思考が現実逃避に陥ったおかげで、腰の痛みもだいぶごまかされてきた。

 夏の森は草いきれで湿度が高く、緑が強く匂う。

 街灯もとどかぬ樹冠の狭間に星々のきらめき。

 その中で余らは、光源もなしに幽霊を追いかけている。

 現役の子供でさえ二の足を踏む暴挙だが、なんとも心が晴れ晴れとしていい気持ちだ。


「ねえ」


 スクライン氏は尋ねた。


「今でも幽霊に眼鏡かけさせたいって思ってる?」


 余は間髪入れずに応じた。

 そのために今、走っているのだ。

 幽霊の意味は棚上げにしても、その根本目的が揺らぐものではない。

 

 矛盾しているだろうか。余は矛盾していない。


 するとスクライン氏は、ちらりと肩越しに振り返ると、


「君は本当に若いなあ」


 といった。


「いいなあ」


 唇からこぼれた吐息に、青白い光点がよぎっていった。

 

 その実体は腹部の先端を発光させる小昆虫。


「あっ、ホタル」


 スクライン氏も気がついた。

 余も初めて目にした。

 詳しくはないが自然と清流があれば、蛍も存在するであろう。

 病院の先のバス停が橋の名を冠しているのは、川にかかる橋に由来したか。


 いや、蛍どころではない。

 追いかけていた幽霊は……そう目線を戻した間近。


 ローブの縫い目が数えられるほどの距離にいた。


 掲げた青い炎は生き物のように身をよじり、余と幽霊の顔を不気味な色に照らしだす。

 フードを目深にかぶり、その正体はいまだつかめぬ。


 思わず飛び退き、悲鳴に似たものをあげた自覚はある。

 だが、その後の洪水に飲まれた余はそれどころではなかった。


 あたりを埋め尽くす蛍火、蛍火、蛍火。


 夜は一瞬で昼へと返った。

 天井に逆巻く光の塔の中、黄色い光は全身が包み込む。

 これが小昆虫の、夏の風物はかなき光と例えられる生態だろうか。

 

 イナゴやカゲロウなど、特定の一種が大発生することはある。

 アリは次世代をつなぐため、毎年決まった時期に大量に宙を舞う。

 ホタルもそんなことが起こりうるのだろうか。

 あるいは、これは幽霊と同じくらい目撃される火の玉の出現だろうか。

 

 異常現象にはちがいない。

 

 見よ。

 足首まで渚のように波打ち、もはや華麗だなどと言ってられる状況ではない。

 

 白から黄色、たまに緑がにじむカーテンに、方向感覚が狂わされる。


 けれども余は精神の凪を頼みの綱に、踊る唯一の青をとらえていた。

 

 そして、それは余だけではなかった。


 スクライン氏も影法師となって、幽霊を捕まえんと飛びかかる。


 相手は洋灯を振って待ち構えたもう。


 ホタルの光の点を、余の脳髄は認識している。

 だが、あまりに数が多い。

 すると余の動き、またスクライン氏と幽霊の動きも含めて、ゆっくりとなった。

 交通事故に遭遇した被害者が語るスローモーション現象が、余の視力を犯していた。

 

 しかし、今は好都合である。

 

 余の腕が伸び、洋灯の蓋を弾き飛ばす。

 指先がフードの縁にかかる。

 否、これでは足りぬ。

 さらに手首をねじ込み、フードの内側から布地をつかむ。


 いざ、問わん。

 その素顔を。


 御簾の向こうにあったのは、あろうことか余の顔であった。


 だが今の余ではない。

 その顔はずっと老化していた。


 猿のようにしわが刻まれ、歯牙をなくした唇は内側に巻いて、目やにで塞がれた目元は見えているのかさえ怪しい。

 なのにどうして余とわかるのか。

 わかる余にもわからない。

 夏の森で無数の蛍火の中、老いた自分の素顔を目の当たりにして狂気に至らぬ者があれば、超人である。

 余の手に落ちた狂気への切符には、すでに鋏が入っていた。


 それを叩き落としたのは、黄金の海の中でも一際輝く髪をふり、余の顔から人生をともに歩んできた戦友、家族より身近な連れ合い、親の顔より見たレンズを奪い、それを己の鼻先にのせた一個の美人であった。


「捕まえたわ」


 眼鏡姿のスクライン氏は、反対につかんだフード下へ下へと押し下げた。

 なんという腕力であろうか。

 ついに相手を地に伏せさせしめた。


「捕まえることは、見えること以上にわかることよ。あなたの名前は、『明日』ね」


 声音は穏やかである。

 しかし、その姿は小鬼を踏みつける神仏の像、猛虎を押さえつける怪力の豪傑、ドラゴンを封じる聖人にも例えようか。


「死に瀕した人を効率的にのぞきこむのに、病院ほど適した場所はない。

 普段は気づかない明日の不安をあおり、オーラやオルゴン・エネルギーに類するものを吸い上げる。

 たとえ相手が死んでも、ここならそれほど不思議じゃない。

 そういった生態を持つものがひそむには絶好の環境ね。


 たしかに明日は不安だわ。状況が悪化して最悪、死ぬ? それはありえるでしょう。しかし、それは今ではない」


 ヒトには本来明日もなければ、実は昨日もない。

 霊長は錯覚。

 叡智は見せかけ。

 今この瞬間を生きる点において、一木一草、鳥獣となんら変わりはしない。

 その驕慢を付け狙う、どこにでもいるが恐ろしい化け物。


「その日暮らしがいいわけでもないけど、杞憂もすぎれば毒だわ。

 それがぬぐえないなら誰かがぬぐわないといけない。

 そのためになにが必要か」


 スクライン氏の目線が余を貫く。

 髪越しに微笑する顔に、余は氷の手で背骨を握られた気がした。


「明日の不安は、今日を生きる意思で轢いてしまいなさい」


 そういってスクライン氏は眼鏡を外し、余に差し出した。


 受け取った余はそれを、自身の明日にそっとかけさせてやる。


 これが余の、今日を生きる意思である。



 君、眼鏡が入り用ではないかね。



 眼鏡のブリッジが、埋もれた鼻柱を挟む。

 すると「明日」は満足したように顔をゆがませて、ずぶずぶと光の海にその姿を消していった。

 最後にみせたのは笑顔か苦悩か。


 だが、それを知るのは今ではない。


 ・ー・ー・ー・


 あたりに暁闇が戻っていった。

 しだいに蛍も群れが散りゆき、その明るさを滅していく中、余は地面に落ちていた眼鏡を拾ってかけた。


 するとそこに薄い輝きをまとう女性が、好男子さながらの微笑で腰に手を当てていた。


「青いフードをかぶって病院をめぐる個体がいるって報告は聞いたことがあったわ。

 でも、怪異を記録した最初の人が亡くなってしまったの。

 それ以来、目撃例も絶えてしまって、消滅寸前だった。

 でも今回の件で、より詳しい外見と生態が手に入ったわ。

 ああ、報告書は私が作っておくわね」


 その前に言っておきたいことがある、スクライン氏よ。


 病院に出る幽霊とは、あなたのことではないのか。


「いやー、やっぱり昔から怪異を初めに見いだすのは年端もいかないかわいい子供ね。

 半月前から目を付けておいた甲斐があったわ」


 今、明かされる衝撃の真実。


「そして現実と怪異の区別がつかない幼心は、怪異さえ成長の糧にしてしまう。

 たとえ相手が新種だったとしても。ねっ、少年」


 さっきからかわいいだの、少年だのと。

 いったい余がいくつに見えるというのだ。


「うーん……七歳!」


 余はすでに十歳である。


 そういうとスクライン氏は、まるで人間のように呵々大笑した。


 失礼な態度と言わざるをえない。


 ・ー・ー・ー・


 東の空の闇が削り取られていく時刻、余とスクライン氏は病院を辞した。

 

 公共交通機関が目覚めるまで、余は顧客の忌憚なき意見を耳にすることができた。


「幽霊専用の眼鏡ねえ……需要はあると思う」


 幽霊に太鼓判を押されると悪い気はしない。


「その前に、あなたはもっと幽霊を知らないといけないわ」


 なるほど、道理である。

 ではいったいどこで学べばいいものか。


「私の弟子になりなさい。私、幽霊マイスターだし」


 そうして余はスクライン氏の弟子に転職し、いよいよ幽霊専門の眼鏡店へと新たな航路を進み出すのであった……。



 ・ー・ー・ー・ー・ー・ー・


 最後の行まで読んだ私――作中でいうところの「余」――は、紙の束をテーブルに置く。

 

 師匠が弟子と出会ったころを小説に仕立てた文章を読んでしまった弟子は、いったいどんな顔をすればいいのか。


 その師は、次の仕事先が温泉地であると聞きつけると、


「下見してくるし」


 と先乗りしてしまって、すでに店にはいない。


 今こうして裏通りに店を構えられ、日々の仕事に従事していられるのは、師の腕前のおかげといえなくもない。

 実際に店を始める前の書類を役所に提出に、昼間に堂々といってきたのだから従来の幽霊に対する印象さえゆらいだ。


 幽霊が眼鏡をかけない理由は、まだはっきりとはわからない。

 生前の品が身につかないなら、ビデオに出てくる霊はすべからく全裸でなければならない。

 でも実際は眼鏡だけが失われているのだ。

 あるいは腕時計や補聴器や心臓のペースメーカーもなくなっているのだろうか。

 その方面の専門店の意見が待たれるところだ。


 ・ー・ー・ー・


 さて、作中の怪異は、後に新種と認められ、マクラガエシ科のアオアンドン属セイヨウアオアンドン(Caeruleum deferreigni)との名前がついた。

 

 当時の私は夢中だったので、はたして作中のような展開だったのかよく覚えていない。

 鮮やかなる初陣の勝利は、師の脳筋のおかげでややこしい事態に発展する前に片がついたのが実際といえる。


 今ならもっと準備と事前調査に時間を費やすだろう。


 小説自体は早く物語を展開しようと、やや急ぎすぎな面もいなめない。

 話は一本道で、主人公たちにピンチらしいピンチがなく、クライマックスの抽象概念下の決着も読者に不完全燃焼を感じさせるのではないか。


 おおむね「味のないガム」程度の評だが、続く第二章以降に弟子として形ばかりの期待はよせておく。

 

 ・ー・ー・ー・


 原稿はわざと置いていったのか。

 それとも忘れていったのか。


 私は見なかったことにし、明日に備えて自室に下がった。


 はじめての出張である。


 温泉地の旅館に暮らす霊の調査に同行し、その霊から話が聞き、あわよくば顧客になってもらってお得様を紹介してもらえれば大満足である。

 

 そううまくはいかないだろうが、最高の理想は目指しておいて損はない。


「おやすみなさい、師匠」


 いったあとで、幽霊は死んでいるから睡眠は必要ないことを思い出した。


 店を構えてもう一年、まだ一年である。



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