ある勝ち星の一つ
ボクシングっていたそう(コナミ)
控え室で、トレーナーがなれた手つきで、くるくるとバンテージを巻いてくれる。
六回戦なんて前座も前座、出番はすぐだ。
「キツかったりするか?」
軽く拳を閉じて開き、強く握る。
「大丈夫です」
調子も良い。少なくとも自分にそう言い聞かせなきゃいけない。
ここまでの戦績は五戦して三勝。
二敗している。どちらもKO負け。
ここらが限界だろう、これで負けたら引退するつもりだ。
できれば続けたい。でも引き際がある。
好きなだけで続けられることもあるだうが、俺には無理そうだ。
それに、負けたらの話だ。勝てば良い、勝てば。
第二の人生なんてくそくらえ。
チェックを終えてミットをうつ。最終確認でありアップでもある。
トレーナーがミットを持つ。息の合ういい人だ。
吸い込まれるようにミットに俺のパンチが飛び込む。
「はいジャブくる!」
トレーナーがジャブを返す。
手のひらで払い、ジャブを打ち返してすぐに動く。
ガードを意識しステップを踏む。
「よーし、良いぞ、実に良い。現役続行だな!」
笑顔でハイと答える。
相手はアマチュアで三十戦近い選手だ。
トレーナーと俺の二人で対策を練った。
長いリーチに正確なジャブ。かと思えば踏み込んでボディも打ってくる。
今回の試合は、相手にとってはデビュー戦。だが、念のための六回戦であり、八回戦デビューでもおかしくなかったはずだ。
俺は噛ませという奴だ。
順当に勝つためのエサ。勝ち星を増やすための安全策。プロへの慣らし運転。
腹は立ったがそれでも受けた。
噛みついてやる、ダメなら引退、そう決めた。
周りの他の選手たちも試合に備え、アップをしたり、フォームや作戦の確認をしている。
控え室で自分の出番待っているのだ、俺のように。
(そろそろか)
そう思った頃、係りの人に呼ばれた。
返事をして向かう。
この時間の居心地の悪さはどうにも慣れない。
体を冷やさないようシャドーをする。
待つのはリングよりも練習よりも辛い、耐えられない。
「行こう」
トレーナーがそう言い、全員でリングへ歩き出す。
客席が目に入った。意外なほど人が入っている。
いつもはメインがどんなに人気でも、最初はガラガラだ。
すぐに気づいた。相手の応援だ。
もちろん俺の応援だとは思わなかったが、随分入ってるもんだ。
「やったな」
驚いた。嬉しいことあるか?
「お前の試合をこんだけの人が見るんだ」
笑みがこぼれる。
「ポジティブっすね」
軽口で誤魔化した。仕事先の同僚と、最後かもだからと俺の両親が見に来てた。
俺も応援されてる。それで良いじゃないか。
紹介を受け、腕を上げて応じる。
軽くリングを回り、相手の登場まで忙しなく待つ。
待つ身は辛い。
会場が揺れた。やつが来たのだ。
ゆっくり来てるのか、そう感じるだけか。
ともかく長く感じた。
怖い、まだか、早くしてくれ。
リングに入った。奴もリングの中を回る。
邪魔にならんよう隅に寄ったら、口を歪めてグローブを叩いてきた。
計量のときも思ったが、こいつも緊張している。そしてそれを隠そうとしている。
リング中央でレフェリーのチェックがある。いよいよだ。
頭突きに気をつけろ、ベルトラインより下は殴るな、クリーンファイトを心がけろ。当たり前の話をするので聞き流す。
相手は俺よりもいくらか身長が高い。
俺は168センチだが、こいつは公称174。だがリーチはもっとありそうだ。
実寸はもう少し大きく見える。
コーナーに戻る。
深呼吸する、待つのがようやく終わる。
「行けるぞ」
セコンドからトレーナーが言った。
どうあれ行くしかない。
「いきます!」
マウスピースを噛み締めて、ゴングが鳴った。
中央に歩む相手に違和感を覚える。
ベタ足で、アマチュアの時とスタイルが違うのだ。
中央で、俺はグローブを合わせる挨拶を要求する。
奴は一瞬硬直するが素直に応じる。
いける
グローブタッチをフェイントに、俺は渾身の右ストレートを叩き込んだ。
相手は面食らってまともに食らった。やつはバランスを崩し、尻餅をつく。
「ダウン!」
レフェリーが高らかに宣言した。
悲鳴のような歓声が聞こえてくる。
不意打ちが面白いほど入った。
グローブタッチの振りをして、前の手を抑え、開いた横っ面に放り込む。反則すれすれだ。
だがよほど悪質でなければ、流れが優先されるのがプロのリング。
奴は審判になにかを抗議してるが、ダウンはダウン。無駄だ。
セコンドの声がよく聞こえる。
「ジャブついて慌てさせろ!落ち着かせるな!」
そうだ、落ち着かせちゃいけない。
プロとアマチュアは雰囲気が違う。緊張していたのだろう。
落ち着くのを待ってやる必要はない。
審判がすぐに試合を促す。
すぐに踏み込む。相手も応じる気配を見せた。
相手は左手が前のオーソドックス。左右前後に的確に動いてくる。
それが俺の正面に立っている。
まだこいつらパニックが抜けていない。ムキになってるのだ。
奴は正面から右ストレートから左フックをフルスイングしてきた。
いきなり右では当たるものも当たらない。
俺は余裕をもって右ストレートを外し、やつの返しのフックに、こちらの左フックを合わせる。
俺は綺麗にパンチをよけたが、相手の顔は跳ね上がり、一瞬相手の腰が落ちた。効いてるのだ。
いける。
ジャブでロープに押し込んで勝負をかける。
踏み込んでジャブを連打する。
こっちのジャブがやつにまともに入るが、打たれっぱなしではなく、こちらのジャブに奴は右のクロスを被せにくる。
だが、相手の距離感が合っておらず、俺の鼻先を奴の右が空振りする。まだこいつのパンチは活きている。
効いているのだろう、一瞬やつの両手が下がった。
その隙をついて俺は咄嗟に右ストレートを打つ。
相手は俺のパンチを掻い潜り、だきついてきた。クリンチだ。
こちらのパンチを打たせない為に全力でしがみついてきている。
クリンチのまま立ち位置を入れ替えて、ロープに押し付けるようにしてくる。
相手のコーナー近くだった。
向こうのセコンドの声がよく聞こえる。
「ジャブいけ!ジャブから作り直せ!落ち着け!」
ごもっとも
審判が俺らの肩を叩き、奴も力を抜いた。仕切り直す。
あからさまに距離をとり、離れるというより、逃げようとしてくる。
いける
俺は顔へフェイントを入れ、ボディへ右ストレートを打つ。
またまともに決まった。
鍛えて割れた腹なのに、ブヨリとたわむような衝撃が手に響く。人体は水でできていることがよくわかる。
奴は腹を庇うように一瞬丸まり、すぐステップで持ち直す。
俺は隙を作らないようにジリジリ近づくと、奴はそれに合わせてゆっくり下がっていく。
ロープに奴の背中がつき、動きが固まった。
固まるのは予見できた。ロープに詰まるのに合わせて飛び込み、ジャブから右ストレート、ワンツーを打つ。
ガードされたが、ガードの上からでもこいつは大きく揺れる。
やつは自分の顔をグローブで挟み、腹を肘でかばうように丸まった。
ジャブを何度かガードに押し付ける。その間に右を引き絞り力をためた。
大きく右フックで、ガードごと効かせるよう打った。
奴はダッキングで俺のパンチの下をくぐり、ロープ際から脱出した。
届かないであろう位置から、ジャブを見せてくる。
牽制だ。
踏み込むタイミングを測っていると、ゴングがなり1Rが終わった。
「いいぞ!」
セコンドから言われた。
「だが大きく打つな!確実に小さく当てろ!」
「はい」
「向こうが回復してなきゃいけ!」
「はい」
「声が小さい!」
「はい!!」
2R
奴の足取りは重い。
だが心は落ち着いたようだ。
ジャブの距離を探している。
左手をリラックスさせ、右手をがっちり脇につけてる。
動画でさんざん見た構えだ。
ゆっくりとしたジャブを見せてくる。
また牽制か。
そう思った途端、自分の額を打たれた。
ジャブだ。
全く見えなかった。
ジャブ一つ取っても、緩急をつけられると全く見えない。
また見えないジャブ、今度は鼻を打たれた。
相手の右手側へ回り、左ジャブから逃げる。
俺は軽く体を揺すり、狙いを定めさせないよう、頭を動かす。
奴の左肩が跳ねる。ジャブだと思い、俺は頭をふる。
しかしそこに右ストレートが打ち込まれた。
こちらの頭の振りの位置を把握し、フェイントで動かして右ストレートを打ち込んできたのだ。
こちらは左ガードが間に合ったが、ガードの上からでも目に火花が散る。
なるほどね
ガードをあげ、俺は飛び込んだ。
奴は来てほしくないし追撃を出せない。
まだダメージが抜けてないのだ。
相手はそのまま受け止める気でいる。
逃げられないのだ。
こちらの前進を阻もうと、強い右ストレートを振ってきた。俺は右を掻い潜り、ともかくボディを打つ。くっついてボディへフックを叩き込む。
こいつは打たれても小さく打ち返してきた。
左右のフックを、肘で器用に受けられる。だが当たってるものもある。
ともかくしつこく打つ。
腹を打とうと俺のガードが下がり、顔をコツコツ打たれる。ガードした手でそのまま俺の顔へパンチを返してくる。
アマ出身らしく、強打ではなくこいつはヒット数を優先させている。
腹へのフェイントから、顔に左フックを放り込んだ。
奴の首は横へねじれ、顔が横へ向き、膝がかくんと落ちた。
覆いかぶさるように抱きついてくる、またクリンチだ。誤魔化してるが、効いてるのだ。
審判が割って入る。
離れた途端、奴は逆に飛び込んでくる。ワンツーをうってきた。ペースを取り戻す為に前に出てきたのだ。
俺はジャブを払い落とし、ツーに合わせて右を打ち返す。ツーを避けきれず相打ちになったが、向こうはまた腰が落ちた。
打ち勝った。下がったのはやつだった。
また窮地を逃れるためにクリンチを狙ってる。
させまいと俺はジャブを腹へ打ち込む、誤魔化させない。
抱きつこうとしたやつの腹に、つっかえ棒のように俺のジャブが突き刺さる。
すぐに応じてくる。ジャブに被せるように右を振ってくる。威嚇の為で、当てる気はほとんどないのだろう。
しかし踏み込むが危険なのは間違いない。
こっちの攻撃があたる距離までにじりよろうとすると、相手はこっちの前進に合わせてスルスルと下がっていく。
リングを回るように下がる、ロープに詰まらない。
攻めあぐねてると、2Rが終わった。
「よくやった!押してる!」
頷いて水をもらう。
「このままいければいける!」
水で口をすすぎつつ聞く。
「丁寧にいけ!」
頷いてマウスピースをくわえた。
引退しないで済むかもしれない。
ゴングと同時に、奴はリング中央に先回りしていた。
直感する。
勝負に出たのだ。
踏み込もうとすると、鋭いジャブで打たれる。
全く見えない
すぐに理解した、ジャブの距離では勝てない。
ガードを上げて飛び込み、殴り合う距離へ踏み込む。
相手は、左フックをひっかけて俺の横に回り込み、横っ面に右を放り込んだ。
一瞬視界から消え、右頬を殴り付けられて初めて回り込まれたことを理解した。
体が痺れるような強打だ。
突っ込むには強引過ぎた。
完全に待ちの姿勢でプレッシャーをかけてくる。それに乗る形で俺はワンツーを打つ。
左はスウェーで外され、右には右をカウンターで合わされた。
俺は右を食らいながら、すぐ左フックを返した。
しかし奴の右手でガードされ、そのまま右ストレートを返される。
俺の耳を擦られたが、どうにか避けて仕切り直す。
前に出させてはいけない。ジャブを打たせず、こっちに応じさせる必要がある。
顔へのジャブから、ボディジャブを放つ。
手で払われる。
手を使うと言うことはガードがあく。
ボディジャブのフェイントから左フックを狙った。
フェイントから左フックまでの僅かな時間に、奴は右をねじこんできた。地面が揺れるような衝撃を受けた。
俺のフェイントを読んでたのだ。
平衡感覚を失い、今度は俺がクリンチで追撃を拒否する。
そのまま足がもつれ、転倒した。
審判から立つよう促される。
やばい
持ち直されると何もできない。
いや落ち着け、自分に説いた。
効いてないハズがない。向こうも必死なんだ。
審判に続行の意思を確認される。やるに決まってる。現役続行だ。
再開とともにすぐにくる。
いきなり右ストレートで来た。予備動作を完全に隠した真っ直ぐなストレート。
ガードの上から叩きつけられた。
何とか防いだが、体を起こされるような強打だ。
俺は前進を阻むべく左ジャブを返した。
相手は踏み込んで俺のジャブを避け、俺にボディアッパーを突き刺した。
柔らかいグローブからは信じられないほど、やつの拳が硬い。足がひきつる、また俺がクリンチで追撃を断つ。
振りほどこうと向こうに揺さぶられる。だが離す訳にいかない。
ゴングがなった。
自陣のコーナーに戻るのも辛い。
「深呼吸しろ」
言われた通り深く吸い、また吐く。
「深呼吸しながら聞け」
「奴も限界だ」
頷くのも億劫で聞く。
「奴の得意なパンチに気づいたか」
首を横にふる
「奴は右の真っ直ぐしか中間距離では打てない」
そういえば最後以外のダメージは右だった。
「そこに合わせて右を被せろ!」
頷く
「勝負どころだ!勝ってこい!」
コーナーを出た。
ふわふわと踏ん張りが効かない、さっきのボディがまだ体に残っている。
奴もすぐ来ない。口を開けて息をしている。
当然だ。疲れもする。
さっきのRの攻勢も、決して楽ではなかったのだ。
このR取れば、六つのうち三つのRをとることになるハズだ。
一つはダウンを奪ってるから、非常に有利になる。
ここが勝負だ。
ゆるいジャブを見せてくる。
これがこいつのジャブの肝だ。
左フックを強引に合わせにいく。
奴は後ろに下がり、距離を取ってくる。
緩急つけられると、早いのに対応できない。
緩いのこそ防ぐべきだ。
早いジャブを二つ三つと打ってきた。
左手を弾き、顔に二つ、額と鼻だ。
俺が左ジャブを返すも、サイドステップで逃げられる。
逃がせない。ワンツーで飛び込んだ。
奴はスウェーをして、バックステップで距離を外した。
向こうからワンツーを振ってきた。
俺はワンを払い落とし、ツーに合わせる。
ツーの際に、左下を向くようにして右を避け、こちらの右をフルスイングした。
拳にしっかりとした顔の感触が伝わってくる。
当たった。効いた。
賭けに勝ったのだ。こいつは打たれ強くない、これで現役続行だ。
倒せずとも、ペースを握れば勝てる。
その瞬間、右目が相手の左のグローブで覆われ、奴が目の前から消えた。
いない?
コツン
左で額を打たれ、顎をやつへ無防備に晒してしまった。額を打たれると、首を支点にして顎が浮いてしまう。
俺からは決して見えない位置を奴はサイドステップで陣取っていた。そしてすぐ俺の視界は真っ暗になる。
俺の無防備になった顎に右が叩き込まれて、俺は意識を失ったのだ。
口の中からマウスピースを取り出されるとき、意識が戻った。
眩しい。
仰向けに寝かされていた。
奴も会長やトレーナーに混じり、心配そうに顔を覗き込んでる。
寝るよう言われるが、構わず上体を起こす。
「またやりましょう!」
スポットライトみたいな笑顔だ。俺にまたはない。
「いや、もう終わりです。最後が君で良かった」
少し驚いた顔をしていた。
「第二の人生応援してます!」
手を握られ、応じたところで担架がきた。
客にご機嫌で挨拶するのを見ながら、リングを担架で降りる。
第二の人生ね。
第一の人生を殺したのはお前だよ。
言ってやりたかったが無駄と気づいた。
勿論わたしにボクシング経験はござんせん。