第四話 ヴェレーノ
ヴェレーノにはモデルがいます。
中年の女はリラク達のテーブルの前に立った。女の氷のように冷たい眼差しは、明るい店内を暗くなったと錯覚させるものだった。
「ヴェレーノさん……」
息を飲むようにリスティは氷のような女の名を呼ぶ。
ヴェレーノは、リスティを蔑むような眼で見て、
「いい御身分ね、男とデートとは。下っ端の癖して生意気よ」
「そ、そんなつもりは——」
「——黙りなさい! ホワイトファングの一員で、その行いは恥ずかしいわ。貴女、ノルマは終わったのかしら?」
「…………いえ……まだです……」
リスティは弱々しく答える。
その様子を見たヴェレーノは呆れたように、
「はぁ? まだノルマも終わっていないのに遊んでいるの? よっぽど余裕があるのかしらね」
そして何かを思いついたのかニヤリと笑う。
「そうだ……。でしたら、ノルマを増やしてもいいわよね? なんてったって余裕があるのだから。——ちょうど良かったわ。一人欠員が出てしまって困っていたところだったのよ」
「そ、そんな…………」
リスティは絶望するような表情で凍りついていた。
「ふんっ、いい気味だわ」
ヴェレーノは、優越感に浸るような眼でリスティの表情を眺めた。
「おい、あんた?」
「何かしら?」
リラクは立ち上がり、ヴェレーノを睨みつける。
ヴェレーノも涼しげな顔でリラクに応じた。
「ヴェレーノって言ったか? 何様か知らないが、言いすぎじゃないのか? ノルマがあっても、何をしようとも達成できるならリスティの自由だろうに。——しかもノルマをいきなり増やすって……いくら何でも横暴だろうが」
「何も知らない人間が何を言ってるのかしら。わたしはホワイトファングの副リーダーですよ。わたしが部下に命令するのは当然のことです」
「部下だあ? あんたは何か勘違いしてないか? ユニオンというのは軍隊じゃないんだぞ? あんた——ユニオンの意味わかってるのか?
「え……?」
リラクの言葉に反応したのは、リスティだった。彼女はどういうことだと言わんばかりの驚きを、顔に出した。
ヴェレーノはリスティの反応を見て一瞬表情を崩し、舌打ちをした。が、すぐに余裕のある表情に変えて、矛先をリラクではなくリスティに変えた。
「良かったわねリスティ、良い騎士様を連れて。その身体で誑し込んだのかしら? いいわよね、若い女って。それだけで特になるのだから」
「そ、そんなわけじゃ……」
リスティの顔は動揺して、明らかに混乱しているように見えた。
リラクは自分を無視して、リスティを追いつめたことに腹を立たせ、
「おい、俺の質問に答え——」
「——黙りなさいっ! 部外者は黙っていればいいのよっ!」
ヴェレーノはヒステリックを起こしたように耳を劈く声を発した。
周囲に座っていた客は、何が起こったのかと訝しげにリラクのいる席を見る。が、ヴェレーノの人睨みで、慌てて首を元の向きに戻した。
ヴェレーノはリラクを睨む。その目は充血し、酷く血走っていた。
「ヴェレーノさん、どうかしましたかな?」
殺伐とした空気の中、場違いな軽い口調の声がした。声の主は、禿げ頭でお腹の出た中年男だった。顔を赤らめ、酔っぱらっているようだ。
「あ、はい……ちょっとうちの人間がいたので、軽く指導をしただけです」
ヴェレーノは怒りを霧散させ、中年男に穏やかに返事する。荒潮と凪ほどの違いだった。
中年男は感心した様子で、
「おぉ、さすがは一流のユニオンは違いますなぁ……。いやはや意識が高い」
素晴らしいと高らかに大笑いする。
「恐れ入ります。——では次のお店にご案内しますね。きっと、ご期待に添えると思いますよ。支払いは済ませてありますので参りましょう」
「おほっ、それは楽しみですな」
中年男は腹を揺らし、嫌らしく口端を歪ませて、店の出口へ向かった。
ヴェレーノも一緒に歩き出す。が、一度立ち止まり、振り向いた。
「リスティ、ノルマのことはあとで言うわ。覚悟しておくように」
そう捨て台詞を残し、扉から夜の暗闇に消えていった。
ヴェレーノが過ぎ去ったリラク達のテーブルは、ヴェレーノが来る前の温かい空気は消え去り、重苦しい葬式のような冷めた空気が漂っていた。
リラクは再び椅子に座ると、息の詰まるような空気を打開しようと思った。胸の奥にあるヴェレーノへの怒りを抑えて、話を切り出す。
「なあ、リスティ。蟷螂みたいな顔の婆さんもいなくなったことだし、明日のことは明日考えて今は楽しもうよ? なあに、明日は俺も手伝う約束しているんだ。大船に乗ったつもりで——」
「——ごめん、今日はもう帰るね」
「あ、おい」
リスティはリラクの話など耳に入っていないようで、急に立ち上がると、駆けるように外へ飛び出していった。彼女の目元から光るものを空気に散らせながら。
リラクは止める間もなく出て行ってしまったリスティの後姿を、彼女が消えたあとも呆然と見ていた。
ホワイトファングには明らかに問題がある。そのことにはヴェレーノが強く関係していると感じた。思い浮かべるのは帰り際のリスティの姿。何とかしてやりたいという気持ちが強くなる。
——ふと考え事をしていると、不意に肩を叩かれた。
「ん?」
振り返ると、従業員の姿があった。彼女は笑顔を振りまき、リラクに用紙を手渡した。その用紙にはメニューの名前と数字が書いてあった。
「…………これは?」
リラクは口端を引きつらせる。想定される返答がわかっているにも関わらず、訊き返せずにはいられなかった。
「お代です。つけはできませんので、しっかり払ってくださいね」
従業員の少女はニッコリと笑った。
「あっ、はい」
その日、リラクは無一文になった。
◇
宵の闇。雲が空を覆い、月の輝きは大地に届くことはない。虫の鳴き声も聞こず、ただ静寂だけが支配する中、カロウセの町の路地裏に、二人の男の影があった。
若い風貌の男は、重そうな小袋をフードを被る、もう一人の男に手渡した。
「確かめてみろ」
フードの男は小袋の中身を開ける。大量の金が詰まっていた。数か月は贅沢ができる金額だ。
「ふむ……、確かに」
と、口端をニヤリと歪ませる。
「約束の物は持ってきただろうな?」
「もちろんでございます」
若い男の問いに、フードの男は勿体ぶった様な口調で、懐から小さな小瓶を取り出した。
若い男はその小瓶を受け取ると、空に掲げる。小瓶には赤い粉末状のものが入っていた。
「おお……、やっと手に入れた……。やっとだ……。これで彼女を俺の物に……」
「くれぐれも扱い方にはお気をつけください」
「わかっているさ。——じゃあな」
「毎度ありがとうございます」
若い男はフードの男の助言を鬱陶しく感じながら頷くと、フードの男に背を向けて、去っていく。
フードの男も若い男を見送ったあと、怪しげに笑った。馬鹿な奴が一人増えたと笑うように。 その声が消える頃、フードの男も暗闇の中に消えていった。
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