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第三十六話 全ての人に朝が来る

 暗い部屋の片隅。アンナはベッドの上に膝を抱えるように座り、茫然と何もない中空を眺めていた。

 脳裏に浮かぶのは男の嗤い声。アンナとは違う女の名前を叫び、自分の身体を蹂躙した。感じたくもない快感に身体が悦び、心の中は恐怖と嫌悪感で満たす。その相反する感覚に心は摩耗していた。

 すでにその男がいない今になっても、何度も頭の中で繰り返す昏い体験はアンナを苦しめ続けていた。


「ごめんな……、俺のせいで……」


 悲し気な青年の声が耳に届いた。が、反応できない。心の中に薄い靄がかかり、顔を向ける気力すら沸かない。

 アンナの頭に青年の手が触れた。アンナにとって嫌悪する男の手であるはずが、その優しい温もりのある手は、自然と不快にならなかった。


「今から君の記憶と身体を元に戻す。この方法が君にとって良いのかはわからない。だからこの行いは俺の自己満足だ」


 記憶と身体を元に戻す?


 何を言っているのだろうと思うも、心が死にかけているアンナには聞き返すことすらできなかった。


「この会話も記憶からなくなる。じゃあ、おやすみ。次に君が目覚めた時、君にとって幸せであることを心から祈っているよ——『初期化リセット』」


 その言葉を最後に、アンナの意識は遠のく。意識がなくなるその感覚は、とても心地の良いものだった。




 ——チュンチュン。


 鳥の囁きが耳に入り、アンナは目を覚ました。窓からは気持ちの良い朝日が部屋を明るくする。

 アンナは上体を起こし、両手を天井に向け、背伸びする。


「う~ん……、良く寝たなあ」


 大きな欠伸をして、ベッドを降りる。部屋を出て、両親のいる食卓へ向かった。


「お母さん、お父さん。おはよー」


 アンナが両親に挨拶をすると、二人は目を丸くし固まっていた。まるで氷漬けになったかのようである。


「朝からどうしたの?」


 おかしな両親を見て、アンナは首をかしげる。


「アンナっ!」


 母が瞳に涙を浮かべてアンナに駆け寄り、アンナを強く抱きしめた。


「お、お母さんっ!? どうしたのっ!?」


「良かった……、本当に良かった……」


 アンナの母はただ泣き続けた。

 アンナはどうして母が泣いているかわからず、狼狽する。父に助けを求める。


「お父さんどういうこと? お母さんは何で泣いてるの……って、お父さんっ!?」


「アンナ……、元気になって良かったな」


 父も泣いていたのだ。アンナは父が泣いているなど今まで見たこともなく、衝撃を受けた。


「いったい何なのよ……」


 アンナは嘆息する。

 母親はアンナに涙で濡れる顔を向け、


「アンナ……、貴女は昨日までずっと部屋に閉じこもったままだったのよ?」


 アンナは小首を傾げ、


「何を言ってるの? 昨日も、お母さんと買い物に行ったじゃないの?」


「えっ……?」


 アンナの言葉に母は驚愕していた。アンナと同様に状況がのみ込めていな様子である。アンナの頭の中は疑問でいっぱいだった。

 その時、父がアンナの額に視線を向けた。


「アンナ、その額の怪我……、どうしたんだ?」


「えっ、お父さんも知ってるよね? 昨日、棚に頭をぶつけた時にできた怪我だよ」


 アンナの話を聞いた父は、母と視線を交わす。


「お前……」


「あなた……」


 二人して喜びだした。


「奇跡だ! 本当に奇跡が起きたぞ! あの手紙は嘘ではなかったんだ!」


「ええ、そうね! ああ……、神様……」


「な、何を言ってるの……?」


 アンナは両親を怪訝そうに眺め、ただ戸惑うばかりだった。




 ◇




 リラクは大きな欠伸をした。昨晩は夜通しでカロウセの街を飛び回り、徹夜である。一昨日のリスティとの夜とで二日続けての完徹。身体が異常に重い。頭も少しクラクラした。

 リラクは小鳩亭の玄関から入り、食堂へ向かう。そこにはすでにテーブル席に座るリスティとミーニアの姿。


「あ、おはよう」


「おはようございます」


「おはよう」


 リラクが挨拶すると、二人も挨拶を返した。リスティは一昨日の事件があったことが嘘であるかのように、優しげな笑顔を浮かべていた。

 リラクは内心で喜ぶ。


「ん? どうしたミーニア?」


 ミーニアがじっとリラクを見つめていた。


「リラクさんに訊きたいことがあります」


「何?」


「昨晩はどこへ行っていましたか?」


「部屋で寝てたけど?」


 リラクは嘘をつく。昨夜の行いは、あまり人に言いたくないことであった。まさか『自分の罪を自己満足のために帳消しに行った』とは、さすがに言えない。

 小鳩亭の玄関口から入ってきたところは見られてはいない。まず大丈夫だろう。


「へぇ~……」


 ミーニアの目つきが鋭くなった。声には怒気がこもる。


「嘘ですね。昨日はずっと部屋にいませんでしたよ」


「えっ!?」


 なぜバレたっ!?


 リラクは困惑した。ミーニアは確信を持って言っているように思える。バレる要素は全くないはずである。

 ミーニアが立ち上がり、


「どこに行っていたんですかっ!? まさか、えっちなお店じゃないですよねぇ?」


「んなわけないだろうッ!? 行ったことすらないぞッ!?」


 リラクは声を荒げる。カロウセにも繁華街は存在する。その場所には娼館もあり、相手のいない男のハンターは金を貯めて足げなく通っている。リラクの年齢なら行っていてもおかしくはないが、今まで縁がなく行ったことがない。

 興味がないわけではないが、お金がない。行けるわけがない。


「そもそも金ないし……。俺の稼ぎは知ってるだろ? ……ん?」


 リラクは首を捻った。リスティとパーティーを組み、狩りに行く回数は格段と増えたはずである。だが、報酬がパーティーを組む前より少ししか増えていない。よくよく考えてみたらおかしな話である。リスティのほうが魔獣討伐が多いので、リラクの額が減ったとしても、そこまで少なくなることはない。まして前回は多くの変異種を倒した。以前の倍より少し多い程度の額ではないはずだ。


「ところでミーニア? うちのパーティーの報酬少なくないか? 何か少ないような気がするんだが……」


 リラクの問いにミーニアが胸を張った。


「リラクさんに渡すわけないじゃないですか? 魔石換金の代金の残りは、全額リスティさんにお渡ししています。リラクさんが無駄遣いしないように」


「はぁっ!? 本当かリスティ?」


 その事実にリラクは仰天し、リスティに確認する。

 リスティは遠慮がちに頷いた。


「う、うん。ミーニアがリラクにお金を渡すと、変なものに使うからって言うから。黙っててごめんね」

「何てことだ……」


 と、リラクは天を仰ぎ、ハッと気がつく。


「待てよ……。なら、俺が金がないの知っているよな?」


「はい。でもリラクさんならお金が必要なら何とかするでしょうから、あてにはなりません」


 自信を持って断言するミーニアに、リラクは唖然とする。


「そんな自信……持たないでほしい……」


「ミーニア、そこまでにしておきな」


「マリアナさん……」


 マリアナがキッチンから朝食の皿を持って現れた。咥えたキセルからは煙を吹かせている。

 マリアナは皿をテーブルに置き、


「男なら娼館くらい行くよ。そのくらい認める度量がないと男が逃げちまうぞ? 別に病気を貰って来なかったら別にいいじゃないか?」


「びょ、病気って……」


 マリアナはニヤリと笑い、


「まっ、ミーニアにとってはさ。昨日の夜はずっとリラクの部屋で待っていたのに帰ってこないのだから、そりゃ頭に来るよな?」


「ま、マリアナさんっ!?」


 ミーニアの顔が真っ赤に染まった。

 マリアナはリラクに視線を向け、親指でミーニアを差しながら、


「なあ、リラク。ミーニアな、一昨日リスティがお前と一緒に寝たのが羨ましくなって、昨日はお前の部屋でずっと待ってたんだよ。可愛いだろう?」


「ち、違いますからっ!? 一昨日の夜、リスティさんにおかしなことしてないか問い詰めるつもりだったんですっ!」


 ミーニアが必死になって否定した。


 マリアナはニヤニヤして、


「違うよな? 『そのまま本当に大丈夫かわたしが試してみます』とか言って、そのまま一緒に寝るつもりだったんだろう?」


「ななななな……」


 ミーニアは口をパクパクさせ、顔から湯気がでそうである。


「図星みたいだな」


「マリアナさんやめてくださいっ! もうこの話は終わりです。——さぁ、朝ご飯を食べましょう? リラクさんも、怪しい行動は慎むようにしてくださいね」


「あ、ああ……」


 リラクはミーニアの勢いに思わず頷く。リラクにとっては完全に無実ではあったが、昨夜のことが有耶無耶となったので、良しとした。

 隣で座るリスティは、「どうしてミーニアが羨ましがるのかな?」と、首を捻っている。

 リラクとしても同感ではあったが、藪蛇になる気がしたので止めた。


「あっ、ミーニア?」


 リラクは今思いついたかのように、ミーニアに声をかける。全ての事件が解決し、そろそろ頃合いだろう。


「ど、どうかしのたですか?」


 先程の話が尾を引いているのか、ミーニアの顔がまだ赤い。


「近々俺、この街を出るから」


「えっ……」


 ミーニアの表情が曇った。

お読み頂きありがとうございました。

とうとう終盤が近づいてきました。

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