6.壁ドンおじさん
おじさんは壁を叩く音を聞いて目を覚ました。強い風に乗った石かなにかが、彼の家の外壁に当たったのだ。おじさんは大昔の記憶を呼び起こした。
隣家から騒音が届く。どうやらゲームの実況プレイをしているようで、ダメージにおおげさなリアクションを受けたり、必殺技を大声で叫んだりしている。実況プレイを見るのが好きなおじさん(青年)ははじめこそ黙っていたが、徐々に騒音を煩いと思うようになり、少しでも静かにしてくれることを期待して壁を軽く叩いた。すると隣家の住民…実況者はおじさん(青年)を誘い、以後ゲームクリアーまで二人で実況をした。
おじさんがそんなことを思い出しながらテレビ番組を見ていると、『流行りの若者言葉ランキング!』が紹介されていた。第一位に選ばれたのは、おじさんの思い出のワード『壁ドン』である。しかし紹介された『壁ドン』は、おじさんの思い出とは違っていた。以下に、『壁ドン』の意味を記述する。
1)隣人の騒音に怒り、隣家と自家を隔てる壁をたたくこと。
2)腹の立つことがあり、憂さ晴らしとして壁を殴ること。
3)人を壁においつめ、壁に手をついて威圧すること。
おじさんの思い出の『壁ドン』は1)であるが、若者が使っているのは2)の『壁ドン』であるようだ。おじさんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
おじさんを笑顔にするために、『壁ドン』の発生を調べよう。『壁ドン』という言葉はインターネットで用いられるスラングが発祥で、主に匿名掲示板でよく見られた。隣家の騒音に怒って戸建ての壁を殴っても、隣家には届かないので、1)の『壁ドン』は集合住宅特有の行為である。したがって集合住宅に住む人が多く利用する匿名掲示板で盛んに使用されたのだろう。
2)の『壁ドン』も匿名掲示板で盛んに使われていたようだ。詳細を知ることは匿名ゆえに難しいが、憤ることの多い人が掲示板を利用していたのだろう。初めて使った人に共感した人が、便利な言葉として拡散させたのかもしれない。これは1)の『壁ドン』と区別するために『イラ壁』と呼ばれることがある。
おじさんを苦しめる3)の『壁ドン』について解説する。これは主に恋愛描写として用いられる。男性が女性に決め台詞―たとえば、『お前を離さない』―を言う時、女性をときめかせるにはどうすればよいか。狭くて暗い場所は、広くて明るい場所より人間の心理に『怖い』という感情を起こしやすい。女性が怖いと思うことで、目の前の男性に安心することを言って欲しい、という気を起こす。そこへ格好のよい台詞を贈る。安心した女性は心ときめき、すっかり惚れてしまうという算段だ。壁においつめて逃げ場をなくし、自分が覆いかぶさって彼女の見る『明るさ』を減らし、充分不安にさせてから真逆の『安心』を与える。これは恋愛テクニックなのである。壁に追いやって手をつくこと=壁をドンすることから『壁ドン』と呼ばれ、そのシチュエーションに憧れる女子を中心に爆発的に伝播した。
3)の『壁ドン』が1)と2)の『壁ドン』を駆逐するようになったのは、流行を司る『先駆者』や影響力の大きい『オピニオンリーダー』になりやすい若い女性が専ら3)の『壁ドン』を使ったからであろう。拡散に大きな寄与をするマスコミは、イライラして壁を殴るオッサンよりも、キュンキュンしている恋する乙女のことを紹介したいだろうので、テレビ番組では3)の『壁ドン』ばかりが紹介される。したがって、世の中には3)の『壁ドン』ばかりが溢れ、1)と2)の『壁ドン』の利用者は後発の3)の『壁ドン』に惑うことになるのだ。
おじさんは、マイノリティなのだ。起源を主張することはできるが、3)の『壁ドン』がすっかり広まっている世界の中で1)、2)の意味で『壁ドン』を用いても、『それ違う使い方だよ』と言われてしまうのである。元祖『壁ドン』派のおじさんが彼の思い出の『壁ドン』を使いたいのであれば、同じ派閥の『壁ドン』ユーザーと話さなければならないのだ。
おじさんは若者とも話をしたい。『壁ドン』の意味による理解の違いを生まないためには、おじさんが3)の『壁ドン』の存在をしっかり憶えていることが重要だ。でなければ、おじさんが『おっさんのくせにキュンキュンしているやべー奴』と思われてしまいかねない。
ある日、おじさんの友人が彼の家を訪ねた。返事がなかったので鍵のかかっていないドアを開けて中に入った。すると、
壁に手をついてぼそぼそと呟いているおじさんの姿が見えた。