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つむじ

作者: たかさんz




 僕が彼女と別れて最初に抱いた感情は、悲哀というよりもむしろ恐怖だった。恐怖。もちろん悲しさや空虚感といったものも十分に僕の身体の様々な部分を蝕んではいたが、その根幹には控えめに、しかし確実な恐怖が存在していた。それは紛れもない恐怖であった。時間が経てば経つほど、それは明確な輪郭を帯び、最終的にはそれだけが広大な野原に立つ巨大な風車のように僕の身体の中に残った。この経験から僕が理解したことは、僕が女性と交際している間、自分の精神の一部を相手に含ませる傾向にあるということだった。あるいは彼女が時間をかけて、僕の心を含んでいったのかもしれなかった。丁度、フレンチトーストを作るために食パンに卵と牛乳と砂糖とバニラ・エッセンスをよくかき混ぜた液体を染み込ませるように。ただそれはどちらでも良かった。問題はそこではなかった。ただ僕は、彼女に含まれていたということだった。何も飾ることのない、そのままの意味で含まれていたのだ。そして別れによって、含まれていた僕の精神の一部は、収まるところを無くし宙ぶらりんの状態になっていた。それを支える紐は限りなく細く、素麺のように脆かった。素麺。僕の中にある恐怖とは、つまるところそういうものだった。


2

 僕は別れた後丸三日の間家に閉じこもり、本を読んだり思考したり、あるいは涙を流したりした。三日間の思考の結果、家に引きこもっているままでは段々と四肢の先から体が腐っていってしまうのだということが分かった。僕の両手足の指先は実際、まるで腐っているのではないかと見間違うほど、汚くくすんでいた。そこで僕は服を着替え、歯を磨き、髭を剃り、お気に入りの喫茶店に向かうことにした。深海に沈んだ潜水艇のように深く錆び付いた気持ちを清潔に蘇らせるため、歯は鏡を見ながら一本一本入念に磨き、髭は久しぶりにシェービング・クリームを使って剃った。僕はあまり髭が生えないので日常的にはさっと簡単に剃ってしまっているのだが、三日ぶりともなるとさすがの僕の弱々しい髭もそれなりに立派に成長しており、クリームを使って剃っても良いと思えるほどではあったのだった。

外に出てすぐに、僕は丸三日の引きこもりで歩き方を忘れてしまっているのではないかと危惧した。しかし心配は無用だった。人間の体はある意味でとても精巧に出来ているのだ。僕は使い古した白いアディダスのスニーカーを履いた。お気に入りのスニーカーだった。一歩一歩入念に靴底のゴムが地面と僕の足に挟まれる感覚を確かめながら歩いた。


 喫茶店に着くと、僕は普段座っているカウンターの端っこの席に座り、ブレンドコーヒーを注文した。喫茶店は僕の記憶にあるものと変わらず、馴染み深い平日の午後の気怠さのような雰囲気に包まれていた。それは丁度、先ほど家のドアを閉める際にちらりと垣間見えた、三日間締め切られていた僕の部屋のようだった。外から入ってくる光が闇と混じり、使い古されたプレパラートを一枚通して見た世界のように霞んで見えた。僕の二つ隣に座っていた五十代ぐらいのおじさんがふかす煙草の煙が、その雰囲気を助長していた。アメリカンスピリットのライトだった。彼はとても美味そうに煙草を吸っていた。そしてそれ以上に、とてもスマートな吸い方をしていた。すらっと伸びた、男性にしては幾分か細身な人差し指と中指の間に煙草を挟み、親指で下から支え、先端を少し上向きに掲げていた。まるで地方の豪族の末裔の未だ幼いお嬢様を、彼女の送迎専用の、今工場から出荷されてきたばかりのように黒く艶やかに光るリムジンに乗せようとしている、清潔で従順な執事のような丁寧さだった。彼はお嬢様を躓くことなくリムジンに乗せる為なら、彼の着る皺一つないアルマーニの黒いスーツを泥まみれにすることも厭わないぐらいの情熱と誇りを持っている。しかし、そのような熱意は彼の皺だらけで優しげな顔から漏れ出すことはない。いたって冷静沈着に、しかし驚くほど手際よく彼女を車の中に導くのだ。

 そんな想像をしながら彼をゆっくり観察していたころに、ブレンドコーヒーが届いた。持ってきた店員は初めて見る娘で、ブレンドコーヒーをテーブルに置くぎこちない仕草を見て新人だとすぐに分かった。髪を茶色に染め、赤いチェックのシャツの上からエプロンをきつく締めていた。腕はすらりと細いが、下半身はわりかししっかりとしているようだった。恐らく学生時代にバスケットボールか、バレーボールをやっていたのだろうと推測できた。彫りが深く、整った顔をしていた。誰が見ても明らかな美人だった。また、自分が美人であることを知っているタイプの美人だった。彼女は無遠慮な笑顔を僕に向けると、素早く綺麗に百八十度ターンして戻っていった。彼女の無遠慮で動物的な笑顔は、彼女自身の未熟さと幼さを僕に感じさせた。素敵だと思った。とても素直な感想だった。初めて会う人間から受けるなんの疑いもない親切に、僕はすこしどぎまぎした。どぎまぎして、そして煙草を吸いたくなった。思い返してみれば、僕は二日前から煙草を吸っていなかった。僕は二日前から煙草を切らしていたのだ。横にいたはずの美味そうに煙草を吸う男を思い出して横を確認したが、僕が店員の女の子にどぎまぎしている間に午後の気怠さの奥に消えてしまっていたようだった。後には、煙草の吸い殻だけが残っていた。


 僕の大学での専攻は経済学だった。そこにはいつも、全ての人々に最高の満足を与えるただ一つの点が存在した。あらゆる感情は数値化され、静寂と均衡が実現した。僕は何の疑いもなく、その静寂に身を委ねることができた。


 「永久機関って存在すると思いますか?」アルバイト先の後輩のアキ君は僕に尋ねた。

 「あのこれ、僕の来週提出のレポートのテーマなんですけど」と、彼は付け加える。彼は数学科の大学生だった。

 「ふむ」

 僕らは午後のアルバイトが終わった後、暗黙的に近くの喫茶店に入り、コーヒーを頼んで雑談していた。なんとなく家への帰りを先延ばしにしようとする意識が、僕らには共通してあった。

 「実際的なことはよく分からないけど、エッシャーの滝の絵のようなもののこと?」僕は一枚の絵を思い出した。水が段々流れていって、その水はやがて滝となって落ちる。落ちた先には水車があって、その水車は再び同じ水路に水を流していく。

 「そうそう、そういう感じのです」彼は答えた。

 「しかしあれは絵の中の話だろ?」

 「まあそうですね、あれが現実に再現できたらノーベル賞貰えますよ」

 「だろうな」

 「でもあの絵のものは無理ですけど、棒二本と、ゴム紐と、おもりを使って理論上は永久機関ができるらしいんですよね。僕が実証したわけではなく、教授が言っていただけなのですが」

 「へえ」僕は頷いたが、想像するのは極めて難しかった。一体それっぽっちの身近な道具達が、如何に組み合わさってノーベル賞を受賞し得るような発明に至るのだろうか? いやしかし待てよ、と僕は思う。

 「しかしそれって永久機関なのか?」僕は聞いた。

 「どういう意味ですか?」

 「確かにそれは仕組みとしては永久機関なのかもしれないが、例えば何ヶ月、何年と動かし続ければ次第にゴム紐がのびてしまったり、棒が老朽化して、折れてしまったりするだろう。それは永久機関と言っていいものなのだろうか」

 「その議論も確かにあるにはありますが……。でもそれを言ったらエッシャーの滝の水を流す水車も時間とともに腐敗していくでしょう。それに、実際に永久機関というシステムを例えば発電のために研究するのであれば、そこでは施設の老朽化に関しては議論されないでしょう。ガタがきたら一度止めて、新しいものに替えてまた再起動すれば良いだけですからね。つまりちょっとずつ古いものを新しくしながら、永久機関は動き続けるんです。まあ原子力のように危険が生じるものではない前提の話ですが」

 僕はゆっくりと想像してみる。そこには完全なシステムが存在し、それは永遠の時間を思わせるほど滑らかで洗練された動きをし続けている。しかしそのシステムがあまりにも完全であるがゆえに、それを支える部品達が釣り合わないのだ。軋轢を受け、錆が増え、街角に捨てられたサドルのない自転車のようなみすぼらしさを帯びてくる。しかし心配することはなかった。古い機械は取り除き、新しいものに交換すればいいのだ。そこに例えば寂しさが孕むのであれば、小綺麗なガラス張りのタンスかショーケースを用意し、中に古くなった機械を保存すればいいのだ。傷がつかないよう、しっかりとした、けれど上品な綿の生地の布をちょうどいいサイズに切り、下敷きにしてその上に飾るのだ。それは見方によっては時代遅れのガラクタに見えるかもしれないし、弥生時代に作られた荘厳な青銅器のようにも見えるかもしれない。ただ唯一、かつて永久機関を構成する一部であったという誇りだけはどの機械も持ち続けており、僕たちはそれを微かに感じとることができる。

 「先輩、先輩。聞いてます? しょうもない話をすいませんでした。今日は早いんですけど俺そろそろ帰ってこのレポートを完成させなきゃいけないので……」気づけばアキ君は、申し訳なさそうに席を立とうとしていた。

 「ああ、うん、大丈夫。俺も帰るよ」僕は答えた。


 その夜、僕はビールを飲みながら、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」を読んでいた。暑かったので窓は少し開けていたものの、外はしんとして、とても静かだった。遠くの方の家の窓も開いているのか、人々の営みの気配が微かに感じられた。時々、原付の走る音がこだまのような奥行きを持って聞こえた。本に飽きると、ウォークマンをスピーカーに繋いで、適当にシャッフルで流しながらアキ君との会話を思い出していた。ボブ・ディランが、軽快にハーモニカを吹いていた。

 「永久機関。」僕は口に出して言ってみた。永久機関。

 永久機関を永久機関たらしめるには、しかしながら古びたパーツを交換する人間が必要だと、アキくんは言っていた。いなければ、永久機関は死に絶えてしまう。僕は自分がそんな仕事をしているところを想像した。発電所の隣にある小さな小屋にひっそりと住み、三年に一度送られてくる新しいパーツを持って発電所の中に入り、取り替え、古いパーツは家の地下にあるショーケースの中にきちんと納める。発電所の機械のことに関しては世界で一番精通しており、あらゆるパーツの形から素材、組み立て方をも熟知している。それぞれのパーツをつなぐボルトの細かなサイズの違いや、レンチを何回転させれば取り外すことができるかなど、全てを知りつくしているのだ。それ以外の時間は本を読んだり、映画を見たり、犬と戯れたりして過ごす。それは言うなれば、永久機関の一部に組み込まれた人生だ。自らを永遠のサイクルの中に投じ、その流れに身を任せる。まるで卵を産み終え死んでしまった雌の鮭のように。


 一週間ぶりに授業に出た。教室に行くと、僕の大学における数少ない友人であるハルが声をかけてくれた。

 「先輩、顔死んでますけど大丈夫です?」

 僕の顔はそんなに酷かっただろうか、と懸念する。確かにここのところ考え事ばかりしていたが、今朝はきちんと洗顔して、ヒゲも剃ってきたはずだった。

 ハルは授業で知り合った後輩の女の子だった。ショートボブに軽いパーマをかけ、いつもTシャツを着てジーンズを履いた元気な子だった。メイクは最低限で、白いTシャツにくっきりとブラジャーのラインが浮き出ていても全く気にしないような、良く言えば鷹揚な子だった。性格は悪く言えば図々しく、よく言えば人当たりが良かった。

 「そんなことより! 先輩いつになったら私をお洒落なバーに連れて行ってくれるんですか?」彼女は大声で、そんなことを聞いてきた。

 「そういえばそんな約束したっけか」言われて僕は、全く思い出せずにいた。

 「忘れちゃったんですか? ていうかここのところ学校に来てなかったって聞きましたけど?」

 そう言われながらも、僕はそんな約束など全く思い出せずにいた。ここ一週間、極めて複雑な気持ちの整理に努めていたせいで忘れてしまったのかもしれなかった。言い訳しようとしたが、うまく言葉が出なかったので何も言わなかった。

 「学校を休んでたのはちょっと忙しくてね。あとバーに関してはそしたら今週末行こうか、大学近くに、そこまで高価じゃないところを知っているから」僕は提案してみる。

 「本当ですか! じゃあ金曜日、授業が終わった後に行きましょう。忘れないでくださいよう?」

 「今度こそ誓って、忘れないよ」僕は精一杯の笑顔で答えた。しっかりと笑えていたかどうかは分からない。けれど彼女は僕の笑顔など興味もなさそうだった。いつも通り僕の目を見て、嬉しそうにニッコリと口角を上げていた。彼女の笑顔もまた、新人の娘のように無遠慮だった。


 帰りの電車の中、本当にそんな約束をしていたかどうかについて記憶を辿っていた。しかし、やはり思い出せなかった。向かいの席では、高校生ぐらいの男の子がスマートフォンを凝視して、何か文字を入力しているようだった。扉の付近では、つり革につかまろうと飛び跳ねる小さな女の子を必死で止めさせようと、その子の祖母であろう女性が声を荒げていた。僕は思い出すのを諦めてナイン・ストーリーズの続きを読んだ。電車はゆっくりとしたスピードで進んでいた。

 「車両感覚の調整のため、速度を落として運転しております。皆様にご迷惑をおかけいたしますことを、お詫び申し上げます」というアナウンスが聞こえていた。車掌の声は低く、小さく、まるで男子学生が英単語の暗記のために単語を復唱するときのような声だった。彼の声に耳を傾ける乗客は、この車両には僕以外に一人もいないようだった。アナウンスが終わると、孫を叱る女性の声がやけに大きく聞こえた。


 僕とハルは、渋谷にある学生向けの安価なカクテルを提供するバーに来ていた。彼女はお店に入るなり、「私、こういうところに来るの初めてなんです!」と大はしゃぎで、店内をスマートフォンで撮影していた。席に座ると、彼女はラムコークを、僕はバカルディを注文して、ナッツを齧りながらしばらくたわいもない話に興じた。店内には大学生が多く、騒然としていた。マルーン5の「ムーヴス・ライク・ジャガー」が流れていた。

 「それで、なんで一週間も学校休んでたんですか?」彼女は僕にそう聞いた。

 「実は付き合っていた女の子と別れたんだ、それで気持ちの整理をしなくちゃならなくて」隠す必要もなかったので、僕は端的にそう言った。

 「なるほどそういうことで……」

 彼女はそれだけ言うと、何か考え込むように黙り込んで、ラムコークの炭酸が液体の中を登って弾ける様を眺めていた。僕も何を言うでもなかったので、結露した水滴がカクテルグラスをつたって流れ落ちる様を見ていた。カクテルグラスの後ろには灰皿があった。僕は未だ煙草を買っていなかった。禁煙しようと考えていたわけではなく、ただ吸う気が起きなかった。少なくとも気持ちの整理がつくまでは、美味い煙草も不味くなるような、そんな気がしていた。


 僕たちはそのまま十分ぐらい何も話さなかった。学生たちの喧騒が僕らを包んでいた。微かに聞こえていたBGMが僕の知らない曲に変わった時、ハルは呟くように話し始めた。

 「私、恋人とか作ったことないのでよくわからないですけど……、そういうのって立ち直るのに時間がかかるものなんですか?」

 「わからない」僕は言った。「個人差はあるだろうし、その恋人への気持ちの度合いもあるだろうからね」

 「ですよね。で、先輩はそれが一週間だったわけですか」

 「それも、わからない。大体自分が何に落ち込んだり悩んだりしているのか、それは何をすれば解決するのか、判然としていないんだ。」僕は正直に答えた。

 「悩むっていうのはその、つまりこれから新しい恋人はどうしようとか、性欲をどう解消しようとか、そういうものですか?」

 「少なからずそういう細かな悩みもあるだろうけどね。けれど僕は恐らく、それ以上に恐怖という感情に苛まれている。」

 「恐怖、ですか。それは何に対する?」彼女の質問は続く。

 「それがはっきりとしてないのが悩みかもしれないね」

 彼女はそれに対して何も答えず、また黙り込んでしまった。何かを熟考する彼女の横顔は、古代ギリシヤ人の肖像ように凛々しく、またヨーロッパ映画に出てくる女優のような、密やかな美しさを孕んでいた。普段の爛漫な彼女からは想像もできない表情だった。

 しばらくしてまた彼女が口を開いた。

 「私、誰か一人のことを特別に好きになることができないんです」彼女は先ほど頼んだカルーア・ミルクを眺めながら呟くように言った。「友達は男女関係なく沢山いるんです。みんな同じように好きで、同じように嫌いです。けど、その中で頭一つ抜けて好きな人って、いないんです。できないんです。みんな平等に好きなんです。他のどの友達より優先してこの人と……ってなる人は今までいたことがないんです。これって変でしょうか? ……いや、実はこの質問はもうし飽きてるんです。こういうこと聞いても、みんな一様に困ったような顔をして何も答えてくれないんですよね。それにさえももう慣れちゃいました。それに、こういう聞き方をしたっていう時点で、自分の中で何かおかしいなっていう気がしている証拠なんです。それで、同時にそのおかしさが恐怖でもあるんです。今はまだ大丈夫ですけど、この先周りの人たちがみんな結婚とかしていって、でも私はいつまでたっても特別に好きになる人はできなくて、いつまでも孤独なまま……、いや、友達いるわけですから孤独なんて言っちゃダメですよね。でもとにかく、そういう恐怖が常に私の中にあるんです。なんだろうな、東京タワーみたいな、なんかそんな赤々しい、圧倒的存在感をもって、あるんです」

 「ふむ……。なんとなく分かる気がする」僕はふと、彼女のつむじを見ながら相槌を打った。彼女のつむじは非常にシンメトリーな形をして、頭のてっぺんに存在していた。それは、アキ君と話した永久機関を思い出させた。そして、永久機関に組み込まれた人生を。

 「もちろん今まで何人かの人を、恋愛的な意味で好きになれそうになったことはあるんです。それで二人でご飯に行ったりして。でも結局いつも駄目なんです。この人が特別ってならないんです。私、そういうのを何回か繰り返してて。でも結局元のところに戻って来ちゃうんです」彼女は冷淡な声で言った。それにしても彼女のつむじは美しかった。

 「なんでこんなこと言ったかっていうと、先輩の感じている恐怖もそういう感じなのかなって思って」彼女は彼女なりに考えてくれているようだった。僕の感じる恐怖は彼女と同じものなのだろうか? 僕は元のところに戻って来ているのだろうか?


 僕は少しの間沈黙した。ハルの言ったことを頭の中で反芻した。彼女も黙って、僕の話し始めるのを待っていた。

 「僕のは少し違うかもしれないし、でも確かに根源的には同じかもしれない。」僕は答えた。「僕の恐怖はなんというか、もっと漠然としているような気がする。意味がわからないことを言うようだけど、僕は彼女と別れて、すごく不安定な場所に取り残されたような気分になったんだ。まるで平均台の上を歩いているような、つかまるところのない電車の中に立たされているような。彼女は、言うなればつり革だったのかもしれない。僕はそれにつかまって慣性に耐えていた。でもそのつり革は、僕の身長じゃもう届かないような高さまで昇っていってしまった。僕も最初は届かないものかと飛び跳ねて掴もうとしていたんだ。けれど、次第にそれもやめてしまったんだ」言い終えて、僕は残っていたウイスキーの水割りを飲み干した。

 「よくわからないです。私と同じもののような気もしますけど」彼女は正直なところを言った。

 「僕もわからない」僕も正直だった。


 それから僕らはもう何杯かのカクテルを飲んで、店を出た。ハルはあまりお酒が強いタイプではなかったらしく、僕の腕を掴みながらフラフラと歩いていた。夜の風は程よく涼しく、僕のアルコールで火照った体を冷ました。渋谷の人々は忙しなく歩いていた。道端に落ちたいくつものチューハイやジュースの空き缶が、高層ビルの窓から漏れる光を反射していた。僕はハルを自宅に送るため、二人で山手線に乗った。彼女は目白で一人暮らしをしていた。

 駅からハルの家へ向かって歩いていたときに、彼女は言った。

 「手を伸ばすのをやめるのは、一つの解決策かもしれないですね」

 「なんの話?」僕は聞いた。

 「さっきの先輩の話です。つり革に手が届かないなら、手を伸ばさなきゃいいんです。電車の揺れに身を任せるんです」

 「けれどそれは危ないぜ、もしかしたら転んでしまうかもしれない。今の酔っ払った君のように」

 「けれど電車なんて、凄い速度で、外から見たら車内に立っている人の顔なんて見えないぐらいの速さで走ってるじゃないですか。例えば脱線したら、つり革なんて有ろうが無かろうが死んでしまいますよ」

 「まあ……、確かにな。それはなに、人生の比喩か何か?」

 「そんな難しい話じゃないですよ、私酔っ払ってますもん。ただつり革がなくても電車は乗れるっていう話です。そして、私は酔っ払ってますけど先輩がいるから転びません。同じようなものです」

 「そういうものかな」

 「そういうものです」彼女は言った。

 「ところで先輩は私を家に届けて、そのままうちにあがるおつもりです? 私は別に構わないんですけど」彼女は僕の顔を見て、ついでに、というような感じで聞いた。僕は、一瞬迷って言った。

 「いや、今日は帰るよ。明日は午前中からアルバイトがあるしね」そう言って、正直少し後悔したような気持ちになった。だから僕は帰りにコンビニで煙草を買ってから帰った。


 僕はまた、いつもの喫茶店に来ていた。喫茶店は相変わらず煙で充満して、気怠い雰囲気を作り出していた。アメリカンスピリットを吸うおじさんもいつも通り僕の隣に座り、新聞を読みながらタバコをふかしていた。相変わらず繊細な持ち方で、美味そうに煙草を吸っていた。新聞を覗くと、なにやら女性芸能人のスキャンダルについて大きく報道されていた。それはまるでフィクションの中での出来事のように、僕の住む世界とは全く関係のない場所で起こっている事のように思えた。

 新人の店員は既に仕事に慣れた様子で、テキパキと動いていた。テーブルにコーヒーを置くときに突き出るお尻は、相変わらずがっしりとして魅力的だった。今日は白いブラウスにジーパンを履き、上からいつものエプロンをしていた。常連客の顔も覚えてきたらしく、僕のところにブレンドコーヒーを持ってくると、僕の目を見ながら微笑み、会釈をして去っていった。僕の方も彼女にはすっかり慣れてしまったが、彼女の笑顔は相変わらずとても魅力的だった。僕は彼女の持ってきてくれた熱くて濃い珈琲をすすった後、先日買ったマルボロのライトを一本取り出して吸った。煙草の先から出る煙は一本の線のようになって昇り、空中へ消えていった。









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