梅雨とバスと短い出会い。
雨が降っていた。梅雨の雨だ。九州の梅雨はまるで台風の時のような強い雨で、一気に降ってくる。それが暫く続くものだから、雨が嫌いじゃない人でもうんざりするほど。
今日も朝から強い雨が降っていた。時折、雨足が弱くなる時があるけど、またすぐにザァ、と地面を叩く。私にとって最後の日だったのに、散々な気分だ。
バス停に置かれたベンチではぁ、と深い溜め息を吐く。もうすぐ夏だというのに、厚い雲のせいで辺りは暗く、じめじめとした空気が気温を下げていて寒かった。
「転校、かぁ……」寒さに腕を擦りながら呟いた。転校は嫌いだ。次の学校の授業がどのくらい進んでいるのか分からないし、暫くは転校生として嫌でも注目されるし、もう、友達に会えなくなるのかと思うと、胸の辺りがもやもやと燻る。
ふと上を見上げると、頬に雨粒が落ちた。いつから建っているのか分からないバス停のトタン屋根はボロボロで所々、錆び付いて穴が空いていた。ぽつり、また空いた穴から横に伝った雨粒が頬を打つ。
「そこ穴、この前小学生が傘で空けたんだ」
そっちなら濡れないよ。そう言って、傘を畳んでバス停の屋根の下に入って来たのは、草臥れた制服を着た高校生だった。
彼は傘を軽く振って水を払うと、隣のベンチに座って私を呼ぶように手を扇ぐ。
「ほら、濡れるよ? こっち座りなよ」
気まずい。そう思った。知らない人だったし、男の人だし、歳上だし、二人きりで隣同士に座るのは、正直言って抵抗がある。
ぽつり、とまた雨粒が落ちて、頭に冷たい感触が伝わった。
「……失礼します」
背に腹は変えられない。気まずさへの抵抗よりも、髪や服が濡れる方が嫌だった。と、いっても、ここに来るまでに傘では防ぎきれない雨風によって既にそれなりに、濡れていたのだけれど。
サッと、素早く移動して隣のベンチへと腰を下ろす。出来るだけ隣の人との距離を取るように身体を小さくする。そうして、顔を俯けると、湿った制服が目に写る。今日はベストを着てきて良かった。もし、着てこなかったら濡れた制服から下着が透けてしまっていた。
「来ないね。バス」
「え? あ、そう、ですね」
言われて、携帯を取り出して時間を確認する。バスの予定時刻はもう少し先だった。来ないのではなく、私達が早く来すぎただけだった。
気まずい沈黙の中で、雨の音だけが鼓膜を叩く。車通りも無く、他に人も居なくて、ここだけ時間が止まっているようだ。
「高校は決めたの?」
「え?」
唐突に掛けられた質問に驚いて、隣に座る高校生に顔を向けると、「ほら……そのリボン」と、私の襟元におざなりに付けられた緑色のリボンを指差して彼は言う。
「確か、緑色は三年生だったよね? 俺も中学はそこ通ってたんだ。あ、もしかして今は違う?」
「……いえ、三年です。けど、高校は、私、県外に引っ越すので、そっちになると思います」
ナンパ、されているのだろうか。そんな疑問が頭に浮かび、すぐに沈んでいく。自意識過剰だなぁ、と。地味子、なんて、陰で囁かれるほどには、私は特筆すべき点のない人間だから、そんな事は今までされた事ないし、これからもないだろう。
「そっか、地元校の人間としては残念だなぁ。新しい後輩かと思ったのに。まぁ、君が高校生になる頃には俺は卒業してるんだけどね」
私の言葉に残念そうに声を下げたかと思えば、にっこりと笑ってそう言う彼は、「君、頭良さそうだし、そもそも偏差値低い高校には来ないか」とも付け加えて笑う。
高校か。と、私は思う。隣に座る高校生の横顔をぼぅ、と見上げながら思考に意識を傾ける。
みんなに話したら嘘だ、と笑われるかも知れないけれど、もしくは白い目で見られるのかも知れないけれど、私は中学三年になっても、未だに高校の事なんて深く考えた事がない。全部、何もかも他人事のように思えて、友達があの高校に行きたいとか、あの高校は嫌だとか、そんな話しをしていても私にとっては外国語のように聞こえてしまっていた。
親だって、何も言わないし。勉強しろ、とは言っても私の成績に関心があるわけじゃなくて、高校の事なんて話した事もない。将来性を考えるなら、ちゃんと高校の事を意識した方がいいのだろうけど。きっと私は引っ越した先で、教師の言うがままに無難な高校へ進学するだけだろうな。
「ん? どうしたの? え、もしかして、俺の顔、なんか付いてる?」
ぼぅ、と見上げる視線が高校生の視線とぶつかり、高校生が首を傾げるのを見て、自分が高校生を見つめていることを今更恥ずかしく感じ始めて顔に熱が昇る。
「あ……い、いえっ、すみません、何でもないです」
俯けた顔に手を当てると、冷え症の冷たい手のひらに熱が伝わっていく。恥ずかしさを振り払おうと必死に落ち着きを取り戻しながら、心の片隅で、狙ってやったわけではないけれど、地味娘の癖になんだかあざとい仕草をしているなぁ、と考えてまた頬に熱が昇る。
緊張しているからだ。多分。普段、男子と話す事なんて滅多にないから、それに知らない人だし、年上だから、だからナンパとか考えてしまうし、こんな恥ずかしい思いもするんだろう。
何よりも、雨が降っているからいけなかった。私の気分が落ち込む事も、多分、高校生に会う事もなかった。彼を今までこのバス停で見たことないし。高校生達は一つ前のバス停で乗り降りしてたから。
顔の熱さも落ち着いてきた頃、高校生が立ち上がった。
ギシとベンチが重さから解放されて息を吐いた。
「転校かぁ、俺、転校とかしたことないから、羨ましいなぁ。君は女の子だし、転校先の男共は喜ぶだろうね」
伸びをしながら彼は言って、私に振り向くとからかうように笑う。
「……転校ってそこまで良いものじゃないですし、そんな事ないと思いますよ。私、地味だし。落胆する人の方が多いと思います」
実際、ここに転校してきた時もそうだった。ざわつく教室の扉を潜った瞬間に感じるあの感覚は今でも思い出せる。ざわつきの中に混じる落胆の声や、冷めた視線はいくら覚悟していたって慣れるものじゃない。持て囃されたいわけじゃないけれど、勝手な理想で落胆されるのは辛い。
私の言葉に高校生は屈伸したり、身体を曲げたりとストレッチをしながら「うーん」と唸る。
「そうかなぁ。ここに居たら出来なかった筈の友達が作れるっていい事だと思うけど。それに、地味なのは……君次第で変えられるでしょ? まぁ、落胆する奴は見る目がないね」
高校生がベンチに再び座り、ギシ、とベンチが鳴いた。
「ぁ……せ、先輩は見る目、あるんですか? あと……ここでの友達とは疎遠になりますよ。それに、受験を控えた半年で友達が出来るとも思えないです」
口がよく動くな。と自分でも不思議に思う。
私は何をしているんだろう。バス停で、バスを待っている。そして、名前も知らない高校生と話しをしている。ろくにクラスメイトの男子とも話しをした事なんてないのに。
「ふっ、俺はほら、ゲームでプロデューサーしてるからさ……。あ、笑えない? ……友達じゃなくなるわけじゃないだろ。出来るよ、友達。だって、君、案外話す娘だしね。受験生だって休み時間に話しくらいするだろ? 話すだけで友達は出来るもんだよ」
なら、私とあなたはもう友達だろうか? なんて思ったけれど、声には出さない。だって、友達じゃないから。私と隣に座る高校生は他人だ。知らない人だ。きっと一週間も経てば互いに顔も忘れるだろう。
疎遠になっても友達じゃなくなるわけじゃない。そうかな、そうだといい。どんなに落ち込んだって、もう別れは済ませてしまったし、私は明日にはこの街から出ていくから、今更仕方のない事だけど。
ふと、高校生が携帯を見てから言った。
「後、二十秒。……あ、バスが来るまでね? もう十八」
「……見えるまでですか? それとも、ここに停まるまで?」
私も携帯を取り出して時間を確認する。予定時刻までは後少し余裕があった。
「……見えるまででいい?」
三、二、一、
「ふふ、見えないですね」
腰を浮かして道路の先を見てもバスの影が見えないのを確認する高校生を見て、思わず笑い声が漏れる。
「あれ、可笑しいな、アイツ、測り間違えたな……って、今来たかぁ……」
高校生が浮かした腰を下げた時、遠くから雨の音に混じってエンジン音が響き、バスが雨の中をゆっくりと進んでくるのが見えて来た。
「惜しかったですね。後十秒程でした」
携帯を操作しながら残念がる高校生に言う。
「まぁ、結果オーライだったから良し。またね、中学三年生」
バスの停車と同時にブザー音が響き、扉が開いた。
「また、会う事は多分ないですよ。……先輩」
私はそう言って、高校生より先にバスの中へと入った。
バスの中は学生達でそれなりに埋まっていて、バスが動き出してから高校生を目で探して見ても見つける事が出来なかった。
一言、伝えるのを忘れていた。
でも、多分また会う事はないだろうと思う。次に会う時はまた、初対面だろう。私と高校生は友達でも知り合いでもない他人なんだから。
バスの中、ラジオから聞こえる声が梅雨の雨が、もうすぐ過ぎ去るらしいと、見えもしない天気予報図を指し示しながら言っていた。