第二章、2
目覚めて十三日目に呼び出され、市街に出てきたときに見た簡易裁判所に連れられた。
簡易裁判は予告無く開始し、私が裁判官のいくつかの質問に、はい、いいえのどちらかを七回答えただけで終了した。
私の罪は器物破壊、暴行で、いずれも軽微で懲役に当たらず罰金刑、中期のカウンセリングを要する、と言うものであった。
罰金二百二十クレジットは即日決済された。
家に帰るのが面倒で、もう一騒ぎ起こしてやろうかと思い、一旦ホテルを取って泊まったが、翌日にはその気は失せていた。
ホテルでビデオニュースを見た。社会は混乱していなかった。しかし、もし混乱があっても、ポリティクスや周りの技官たちはそれを注意深く隠すだろう。
情報端末でポリティクスを呼び出そうかとも考えたが、拘置中にバッテリが空になっていたため、充電しなおすのも面倒でやめた。
やわらかいベッドで不快な夜を過ごし、翌朝遅くにチェックアウトしてから、私はゆっくりと自宅に帰った。
自宅はまったく変わっていなかった。冷蔵庫の期限切れ食品ありのアラームランプだけが、出たときとの差分であった。
とりあえず情報端末をデスクの充電パネルに放り乗せ、冷蔵庫から期限切れのレトルトサンドイッチを取り出して食べた。腹が膨れたところで、ベッドに横になって、しばらくうたた寝する。
目を覚ますと、まだ明るい。時間は十五時を指している。
情報端末は満充電になっているので、改めで電源を入れる。
メッセージが二百件、音声接続を八件ほど取り逃したという履歴が表示されたが、全削除する。
接続履歴からポリティクスを選択し、音声回線を開く。
間もなく、いつもの声が聞こえてきた。
「こんにちは、私は、アルカス共和国政策システム、ポリティクスです。ご用件をどうぞ」
さて、何を聞こうか。まずは、政治は順調か、と聞いてみようか。
「二週間と少しほどぶりだが、その間に何か問題は?」
私が問うと、
「いいえ、何も問題はありません」
ポリティクスは答えた。
「この二週間で何件の法案が可決したね」
「お答えします。この二週間に可決した法案は二件です。一件目は廃止地下鉄路線の瓦礫再利用の――」
「内容は結構」
私は彼の言葉を途中で打ち切った。
二件の法案が可決した?
どういうことだ。
いや、二週間前の私の状態を保存してあったので、それを利用して投票が行われたのだろう。
「どのようにして投票を行った? この二週間、私に対する観測は行われなかっただろう?」
「お答えします。投票は通常、投票をする瞬間の全有権者の量子状態を観測し、投票行動の完全予測を行います。このため、この二週間の間に二回、あなたの量子状態から全有権者の量子状態の重ね合わせの観測を行いました。なお、あなたの量子状態を観測するために、四千二百九十個のセンサーを使って述べ二十一万七千七百四十五秒の観測を実施いたしました」
観測をした、と彼は言った。何ということだ。
「その……観測結果は、正しいのかね」
「はい、観測された重ね合わせ状態は別の演算によりパリティチェックを受けており、正常であることが確認されています」
ポリティクスは、私を観測していた。そして、正しく全有権者の量子状態を得ていた。
午前中まで持っていた晴れやかな気分はすべて消し飛んでしまい、暗鬱と言うしかない精神状態が再び襲ってきた。
何がいけなかったのか。ポリティクスは確かに言った。この観測に適格なのは、社会に順応的な人間だ、と。反社会的な人間は当然ながら、社会に属する有権者にも反する存在のはずで、それは、社会に資する政治決定には不適格であるはずなのだ。
「……私の量子状態は、まだ全有権者を反映しているのかね」
長い思考の後、ようやく私は声を絞り出した。
「はい、まだあなたの量子状態は全有権者の量子状態の重ね合わせを観測するのに適した状態を維持しています」
「だが君は、私の自由意志が存在すると言った! 私はその自由意志に従って反社会的な行動をとったのだ。反社会とは、反有権者ではないのかね」
私は怒鳴り返した。理性は、コンピュータごときに感情をぶつけることがまるで無意味だと理解していたにもかかわらず。
「いいえ、あなたが反社会的行動を自由意志に基づき行い、あなたの量子状態が全有権者の状態を反映するということは、二律背反ではありません」
私は頭を抱えた。彼の言っている意味が分からない。
***
「もう一度聞きたい。私がこの立場を逃れる方法はあるだろうか」
「お答えします。あなたがその特異性を失った場合には、現在の立場を失うことが予想されます」
「つまり、その特異性を失う方法についてだ」
「お答えします。特異性は純粋に物理法則にしたがって発生するものです。この特異性の発生、消滅について私は予測することが出来ません」
「しかし、君が観測をやめると決定すれば、私はその立場を逃れられるだろう」
私はポリティクスの声が聞こえる端末を、もはや視界に入れていなかった。
「はい、その決定は私が行います。しかし、現在、あなたに代わる観測対象を見出しておりませんので、その決定を行うことは出来ません」
彼は淡々と答える。
「しかし、私が反社会的な行動を取れば、少なくとも、模範的な有権者ではないから、全有権者の状態が重ね合わされた状態とは言えないだろう? それは、物理的に私の特異性を崩壊させるはずだ」
もう一度、この疑問をぶつけた。やはり矛盾しているような気がするのだ。
「お答えします。あなたの行動はすべてあなたの自由意志に基づくものであり、他人の内的な思想、信条、行動に直接の影響は受けません。あなたはあなたしか持ち得ない内的要因によってあらゆる行動をとることが出来ます。一方、量子論的な重ね合わせは、あなたの量子論的な状態に影響を与えます。あなたの内的要因にはその量子状態を含みますが、すべてではありません。すなわち、あなたの自由意志は量子状態の影響を受けますが、それ以外の教育、環境、経験、気分、あるいは昨晩の夕食のメニューでさえ強い影響を持っており、量子状態そのものが意思決定の要因ではありませんし、意思決定の結果が量子状態に与える影響は無視できるほど軽微なものです」
「しかし重ね合わせの影響下とは、重ね合わされたすべての存在のあり方を等しく持っているということだろう?」
「いいえ、複数の存在のあり方を量子論的に重ね合わせても、重ね合わせの結果が元の存在のあり方を持つということではありません。不透明な水風船を思い浮かべてください。風船の色は外側のゴムの色で決まります。仮に、いくつかの絵の具を混ぜた水を注入しても、外から見たあり方にはほぼ変化がありません。ただし、絵の具を混ぜたことで比重分布など軽微な変化が見られます。一方、量子論的に観測を行うことで、不透明なゴムに隠された水中の絵の具の成分を分析することが出来ます」
ポリティクスの言いたいことは、徐々にだが分かるようになってきた。
つまり、重ね合わされた量子状態とは『平均値』ではないということだ。
かすかな影響はあれども、本質的には、重ね合わされた量子状態はどこか別の世界に閉じられているのだ、と彼は言いたいのだろう。
「つまり、私は自由に行動してよい、しかし君は私を観測し続ける、そういうことだな?」
私の指摘に対して、
「はい、ご理解の通りです。投票すること、つまり、政治決定システムに適切な情報を共有することは国民の義務です。ただあなたは特異点であるというだけであり、負う義務はすべての国民と等しいものですので、今後もどうぞご協力をお願いいたします」
最後には、義務だから我慢しろ、というのが彼の弁のようだ。
確かにその通りだ。この国に国民は、面倒な投票行動を免除される代わりに、投票行動を機械に予測されることを許している。
であれば、私も知らずに予測を許している有権者の一人だったわけだ。
だが、私一人が観測されるという不公平までを許した覚えは無い。
これ以上、ポリティクスと問答するのはやめよう。
平等に負担を強いられるシステムにいる以上、確率的に避けられない特異点としての負担を避けられないというのであれば、その平等性を崩壊させればよい。
私が次に取るべき行動を組み立てながら、私は無言で情報端末の接続を解除した。