第二章、1
■第二章
目が覚めたとき、全身にひどい痛みを感じた。
左腕には点滴チューブがつながっている。
部屋は細長く、私の周りは真四角にカーテンで仕切られている。
カーテンの向こうにも誰かがいる気配を感じる。
起き上がろうとしたが、どこと言うわけもなく全身が痛み、起き上がれなかった。
また寝なおそうと思ったが、痛みと十分すぎる睡眠のために眠れそうになかった。
真っ白の天井を眺めるだけの二時間ほどが過ぎたとき、ようやく部屋の中に誰かが入ってくる気配があった。
遠くでぼそぼそと話し声が聞こえ、それが次に隣のカーテンの向こうでのもう少しはっきりとした話し声に変わり、最後に、その声の主が私のカーテンを軽くめくりながら入ってきた。
「目が覚めたかね。状況は分かるか?」
白衣の男が言う。いでたちは医者そのものであり、左手に広いボード状の情報端末を抱えている。
「分かりません」
私は当然の返答をした。
「そうか。君は市内で逮捕された。逮捕時、神経銃を使用されたため、しばらく昏睡状態にあったのだよ。私が受けた報告によると、使用は三日前の十六時。標準時間で百十時間ほど前だ。君はそれだけの時間眠っていて、今起きた。この場所は警察署内の病棟で、私は担当の医師。これで十分かね?」
そうか、試しに食らってみようと思った神経銃を見事に受けたわけだ。
「法的にはどういう状態にあります?」
私が聞くと、
「それは私の専門ではないがね、少なくとも、取り調べはまだだし、被疑者ではあっても被告ではないだろう」
と医師は答えた。
「いつ起き上がれます?」
「それはわからんね、君の根性次第だ。だが、早いものでは百時間に満たずに起きるものもあるし、遅いものは百五十時間を過ぎても起き上がれないものもある。君が起き上がれると思えるまでは、気にせずに寝ていなさい」
彼はそれだけ言うと、私の周りのいくつかのパネルの表示を確認し、自分の端末の画面と何度か見比べてから、黙って出て行った。
点滴ですべての栄養が補われているらしく、夕食はなかった。
消灯後も眠れなかったが、気にならなかった。
夜半を過ぎたころに眠気が来て、そして目が覚めると明るくなっていた。
体を起こそうとしてみると、昨日よりはだいぶ痛みは和らいでいた。
半身を起こして、自分の情けない恰好を観察する。
馬鹿なことをしたものだが、これも、あのポリティクスを遠ざけるためだ。この私を実験動物のように常に観察している冷酷な機械を。
これだけ反社会的な行動をとれば、おそらく私は不適格だろうし、加えて、この行動そのものが私の特異な量子状態を破壊しているかもしれない。
政治は混乱するかもしれない。しかしそれは一時的だ。
元々、本人にそれを知られてはならないはずの存在ではないのか、この量子的な観測の対象というものは。
ポリティクスはその意味で、大きな間違いを犯した。
あの時、ポリティクスは生真面目に私に回答すべきではなかったのだ。
ポリティクスの失敗こそが、これに続く政治の混乱の原因なのであって、私が混乱を願ったのは、まぎれもなくポリティクスの誤りが原因なのだ。
もし私がそれを知らされなければ、私はこのような行動をとる動機は全くなかったのだ。知らぬという幸福を奪ったのはポリティクスという情緒を持たぬ機械なのだ。
私は今後いくつかの社会的ペナルティを受けるだろうが、それは、今後、ポリティクスの観測対象として生き続けなければならない苦痛に比べれば万分の一にも満たないだろう。
特許事務所は辞めることになるかもしれないが、あの苦痛の思い出しかない事務所に戻るよりは、新たに出直した方がよいかもしれぬ。
考えが巡るうちに一日が過ぎ、再び外は暗くなり、そして明るくなった。
***
午前中、ようやく取り調べの警察官がベッドサイドに来た。寝たままで取り調べをするというので、私はそれを断り、通常の取り調べを受ける、と言い張った。
医師が呼ばれ、私の体につなげられていたいくつかの管が取り外された。
まだ体は痛むが、歩けないほどではなかった。むしろ、筋肉が弱っていることの方が歩きづらさを感じさせた。
小さなリハビリ用のカートを押しながら警察官について行き、取調室に入った。最初に入った取調室と同じフロアで、少し懐かしい気分さえ湧いた。
向かい合って座ると、また警察官はお決まりの文句として私が逮捕されたことと逮捕されたものの権利を説明し、それから、私の被疑案件を簡単に説明した。つまりは、交通行政庁のガラス破損と、警備員への暴行だ。
「君は先日も些細な喧嘩で逮捕されているね。どうしてこんなことをしたのかね」
彼も、前の警官と同じような質問をした。だから、私は正直に答える。
「政治を混乱させるためです。前にも答えたでしょう」
彼は私の言葉をメモしながら、端末で前回の取り調べ記録と見比べている。
「……君の量子状態が惑星の運命を握っているとかなんとかいうたわごとかね? 残念ながら、精神薄弱者の演技はおしまいだ。本当の動機を話したまえ」
「いいえ、これは本当のことです。『政治』が私に対する興味を失うくらいに私は反社会的な行動をとらなければならないのです」
警官は一度首を傾げ、それから、私の言葉を書き留めた。
「……つまり、君の動機は、政治に対する不満かね」
「もちろん。その通りのことを言ってきたつもりですが」
彼は混乱しているだろう。混乱するだけすればいい。そうだ、ここで余計なことを付け加えてやろう。
「お疑いなら、ポリティクスに尋ねてみると良い。この私をどう扱うべきか。彼がなんと答えるか、私にも興味がある」
その後、同じような問答を六回繰り返し、その日の取り調べは終わった。
私は通常の拘置房に入れられた。体の痛みは、ちょっとした運動の翌日くらいにまで和らいできた。
冷たく固い粗末なベッドが、むしろ私の精神を安定させた。
翌日に同じ問答をあと四回、さらに翌日に担当者を変えて八回繰り返した。
ポリティクスに確認しろと言う私の助言は完全に無視された。それならそれでもよかろう。
私が意識を取り戻して六日目からは、私は完全に独房に放置された。食事だけが出された。看守は、何か足りないものは無いかと訊いたが、私には何も必要なかった。これですべてが終わる、と言う達成感だけで日々を過ごすことができた。