第一章、2
一時間の応接時間を確保していたにもかかわらず、彼がほんの七分で出て行ったことで、私は当然ながら、飽き飽きした書類の整理に戻らなければならなくなっていた。
しかし、ここはこのつまらぬ役目を買って出た役得として、残り五十三分をこの応接室での怠惰な休憩に充てても良いだろう。
ダニールが出て行った扉を閉め、一人掛けのソファに身を落とす。
テーブルに置いた情報端末が点灯している。
「ご用件はありませんか?」
再びポリティクスの声。
「何か面白い話はないかな」
「私は政策システムですので、政策システムについて解説することが出来ます」
私は暇つぶしにしゃべらせておくのも良かろうと思い、続けるよう命じた。
「政策決定システム知能機械ポリティクスに興味を持っていただきありがとうございます。それでは、アルカス共和国の立法および政策について説明をいたします。本共和国の立法、政策は、すべて全有権者の投票をもって承認される完全直接民主制となっております。投票は、私、政策決定システムポリティクスが完全に代行いたしますので、議案審議のたびに投票を行う必要はありません」
古い国々はどんなシステムなのか、あまり考えたことは無いが、投票とは個人個人がそれぞれに行うものなのだろう、そんな面倒なシステムを体験してみたいとは特に思わない。このポリティクスというシステムに任せておけば良いのだ。
来客用に準備していたコーヒーはまだ冷めていない。ポリティクスの演説を背景にゆっくりとすする。
「私は全有権者の投票行動を完全に予測可能です。この予測のために、高度な量子演算を利用します。私は、全有権者の量子状態を完全に観測可能であり、投票時にその量子状態から、各々の有権者が賛成か反対かを判断することが出来ます。幾度かのブラインドテストによりこの予測は99.999%まで正確であることが確認されております」
ソファに完全に身を預ける。たまにはこんな時間があってもいいだろう。忙しいのはいつものことだが、だからと言って忙しさに慣れるというものでもない。
「全有権者の量子状態は常に観測され、最新の情報が保たれます。次に、司法システムについてです。司法に対してポリティクスは積極的な関与を行いません。司法は定期的に資格が検査される適格者により――」
「ポリティクス、いいかな」
聞き流すつもりだったが、少し気になった。
全有権者の量子状態を常に観測?
そんなことが本当に出来るものか。
量子力学にはまったく造詣の無い私でも、それがいかに離れ業であるかくらいの想像は出来る。
「全有権者の量子状態を観測とは、一体どうやってそれをやるんだね」
余暇をあえて無為に過ごすためにこんな問答をしてみるのも面白いというものだ。
「お答えします。実際にすべての量子状態を個別に観測し計算しているわけではありません。すべての有権者の量子状態の重ね合わせを観測します。重ね合わせ状態は一度に計算できます。二億二千六百十三万八千四百七十七人の量子状態を一度の計算で演算し、ある質問に対する回答を確率の重ね合わせとして得るのです」
「しかしそうだとしても、重ね合わせはどこから持ってくるのかね」
「お答えします。重ね合わせはある場所に偶発的に生じます。一旦生じた重ね合わせ観測対象を継続的に観測することで、重ね合わせ状態を直接的に得ます」
私は興味を持ち、上体を起こして飲みかけのコーヒーカップをテーブルに戻した。
「それはどこに生じるのかね?」
ポリティクスは即座に反応する。
「お答えします。有権者のある一人が全有権者の量子状態の重ね合わせを観測可能な状態を持つことが分かっています」
「その一人は常に全有権者の量子状態を背負い、観測されるわけだな。気の毒に。それは一体どこの誰なのか……、いやそれはもちろんプライバシーの秘密だから答えられないのだろう?」
その気の毒な有権者の一人に思いをはせながら私は言った。全有権者の意思を重ね合わせたマリオネットのごとき存在。
しかし、ポリティクスはおかしなことを言った。
「いいえ、私はあなたに限りその質問に答えることが出来ます」
「この私に? 私は大統領でもなければわずかでもプライバシーを侵害する特権を持った人間ではないぞ」
「あなたに回答できます。なぜなら、プライバシーは侵害されないからです」
私の背を冷たいものが滑り落ちていった。
彼の言った言葉の意味は、もう取り間違えようが無い。
つまり、私が聞いてもプライバシーの侵害にならない人物についての質問を、私はしてしまったということだ。
「ポリティクス、それは誰だ」
私が問うと、ポリティクスは即答した。
「お答えします。それは、ランス・アルバレス、二十七歳、現住所は第七市三番街十六号――」
「もういい!」
私はポリティクスの回答を遮った。