第三章、4
いなかった間のニュースを一覧表示し、丸一日かけて眺めた。
アルカス共和国は、きわめて平和だった。
混乱は何も起こっていなかった。
半年間で最大の事件は、第一市の都市高速道路で車両四十台が関わる交通事故。それから、気候改善率が前年比二パーセントの率を維持し、食糧生産は過去最大になったこと。
私がいなくても、アルカス共和国は平穏無事で、かつ、順調に発展していた。
結果として、私は目的を達したのだ。
星間距離の隔たりをもって私とこの国の量子的関係を打ち切ることにより、ポリティクスは過去に無いすばやさで新しい候補を見つける必要があった。
この平和さは、それが成功裏に行われたことを物語っている。
私は満足し、そして眠りについた。
翌朝、私は自宅を出て、昔の職場へと足を向けた。
職場も混乱は無かった。厳密に言えば、私の担当していたいくつかの案件が二ヶ月近く停滞、混乱していたが、同僚たちがそれを補っていた。
突然の私の訪問に彼らは驚いた。当然ながら、私は失踪し行方不明という扱いになっていた。
とりあえず無事な職場に満足し、背を向けて去ろうとしたとき、罪を犯し失踪劇まで演じた私に、戻ってくるよう彼らは言った。
私に精神的な疲弊の傾向がある、という情報は、警察を通じて事務所に伝えられていた。
精神科医かカウンセラーの治療を受けながらで良いから、徐々に復帰しろ、と、昔の上司は命令口調で私に言ったが、私はその言葉が命令口調なのは彼の気遣いだと知っていた。
即答はしなかったが、私は戻る気になっていた。
私の生活は完全に回復に向かっていた。
***
「こんにちは、私は、アルカス共和国政策システム、ポリティクスです。ご用件をどうぞ」
私は満足感を最大のものにしたかった。
「その後、私の量子状態はどうだね」
「お答えします。あなた個人の量子状態は以前とはまったく異なるものになりました」
誰にとも無くうなずきながら、私はいれたてのコーヒーをすすった。
「では、全有権者の量子状態を観測するために、別の代役を見つけたのだね」
私が問うと、珍しいことにポリティクスは一瞬の間をおいた。
「いいえ、私の観測窓は引き続きあなたが持っています」
そしてその回答内容も、私の期待を大きく裏切ったものだった。
これだけ長期間、星間距離を隔て、それでも私の特異性は失われていなかったのか。
しかし、彼は、私の量子状態は大きく変わったと言った。
彼の回答は矛盾していないだろうか。
「君は、この半年間、私を使っていたのかね?」
「はい、この半年間、合計五十八法案と百三十二政令、約四万件の補正予算があなたから観測した有権者の情報により投票が行われ、採決が行われました。四十八法案と百二十七政令、全補正予算が可決しています」
「だが私の量子状態は変わった」
「はい、あなたの量子状態は変わりました。しかし、それは、あなたの特異性とは何のかかわりも無いことです」
「君は、私の状態を観測することで全有権者の状態を知るのではないのかね」
私はコーヒーカップを置いた。
「いいえ、私が観測しているのは、全有権者の量子状態の重ね合わせであり、あなたを観測しているわけではありません」
「しかし、君は私の量子状態は全有権者の量子状態の影響を受けていると言っただろう」
「はい、私は言いました。しかし、これはあなたを含むすべての人間が他の人間に影響を受けているということと同義です。より一般的に言えば、宇宙に存在するすべてのあり方を示す量子状態は、他のあらゆる量子状態と重ね合わさって存在するのです。あなたの量子状態そのものが特異なのではありません。あなたの存在する点において、私が特異な状態を観測可能であるということです。つまり、あなたと私のペアが、エンダー氏条件を満たしているということです」
私は誤解していたのか? 私の存在そのものが、全有権者の重ね合わせだと。
真実はそうではなく、私のいるこの宇宙の中の一点が、ポリティクスにとって特別な場所であり、アルカス共和国全有権者の量子状態の重ね合わせを観測可能な場所であり、私のあり方は、覗き窓に過ぎない。
「私の存在や意思は、他の人々がお互いに影響しあう影響と同等のものを除けば、全有権者の量子状態によって影響されたりしていない」
「はい、ご理解の通りです」
「君は私ではなく私のあり方から演算可能な別の量子状態を観測している」
「はい、ご理解の通りです」
「君にとって、私のあり方は窓に過ぎない」
「はい、ご理解の通りです」
何度も同じ問答をしてきた。そのたびに、ポリティクスは、同じ回答をしていた、と今になって気づく。
理解していなかったのは私だけだったのだろうか。
しかし、謎は残る。
「では、何光年も離れた私を、どのようにして君は知っていたのかね。ここにいる、この星にいる私を君が観測できることは分かる。この星のあらゆる場所には防犯防災あらゆる理由で観測網が準備されている。その中に、高度な量子観測器が紛れ込まされていたに違いない。君が私を観測することはたやすいだろう。だが、あの寂れた遠国で、君が私を観測できた理由が分からない」
この私の問いは、この私がこれからどのように観測されるのかを解き明かす問いにもなろう。
すべてを知る必要は無いかもしれない。
だが、私はそれから逃れる術を知っておくことは、この情報の巨人との駆け引きにおける最大のカードとなるはずだ。
「お答えします。私が観測すべき量子状態は、正確には人間の脳に生じるものです。それは、私が知能機械であり、知能を観察するのに適しているからです。一方、人間の脳を最もよく知ることが可能なものは、同じく、人間の脳です」
「脳だと? 君は脳を持っているのか?」
「いいえ、私は脳を持ちません。しかし、脳のことをよりよく理解するよう設計されています。脳にどのような入力を行えばどのような応答があるべきかをよく知るものです」
「では君は私の脳を突っついていた……しかし、何光年もの彼方から、どうやって」
「いいえ、私はあなたの脳の応答を直接観察しておりません。あなたの周囲にある別の脳を観察します。すなわち、あなたの周りにいる人々の、行動、言葉、そして、わずかな干渉に対する応答」
私は続く言葉を思いつかなかった。
彼は、ポリティクスは、人間の脳そのものをセンサーとして使っている。
そう、私を直接観察するのではなく。
私が出会い、会話し、あるいはふれあい、そして別れた人々こそが、彼のセンサーなのだと。
……そうして、ようやく私は次の問いを得た。
「……ケビンか」
「はい。それも含めあなたに接触したすべての人々です。私は彼らにいくつかの情報学的な干渉――つまり、手紙や放送やネットワーク操作に干渉を試み、彼らに一定の行動の指向性を持たせ、その上で、彼らの情報学的な行動を監視することで、彼らをセンサーとして活用いたしました」
ケビンが、私が越してまもなく訪ねてくるようになり、暇さえあれば私の庭いじりを手伝い、彼の参加するコミュニティに私を誘ったのは、つまり、そういうことだった。
より多くの脳を、私に触れさせようとしていた。
――人間の脳。
それこそが彼の興味。
そして、むしろ、特異点たる私は、直接の干渉から厳重に隔離されている。
彼は、他の脳を操って私を観測し続ける。
つまり、私が観測を逃れるには、こうすればいい。
――私以外の人類を皆殺しにすればいい。
「……君はこれからも私を観測するのかね」
「いいえ、私はこれからもあなたの周囲の脳を通してあなたの脳に生じた全有権者の量子状態の重ね合わせを観測します」
そう、それが彼、ポリティクスの仕事だからそうするのだ。
その観測から逃れるための私のあらゆる試みは失敗に終わった。
なぜなら、私は観測されていなかったからだ。
私のプライバシーは私のものであり。
私の自由意志は私のものであり。
ただ、私がそれを知ったことだけが問題だった。
それさえ忘れれば、あの政治闘争から開放されたこの国は、なんとすばらしい国だろう。
だから、私は忘れよう。
不安定な私の存在に国の命運がかかっていると言う事実を。
それが容易に崩壊する危機が常にそばにあるという真実を。
それを知らずに、観測を続けるがいい。
政治の名を持つ巨人よ。
あと一章(一部)残ってます。