いってきます
次の日、学校に行く前にアパートに寄った。兄はおそらく寝ているだろう。
昨日のこともあって、マコトさんと顔を合わせるのは少し勇気が要った。
しかし、インターホンを押すと、ドアを開けたのは意外にも兄だった。
「あれ、お兄ちゃん?」
「なんだよその顔。俺が出たら悪いのか?」
少し不機嫌そうだ。眠いのかもしれない。
「そんなんじゃないけど、珍しいね」
「あぁ、ちょっとな」
言葉を濁した兄はドアを開けて中に入れてくれた。ちょうど、マコトさんが朝食を終えたところだったらしく、食器を片づけていた。
「あ、ルウちゃんおはよう」
「おはようございます」
挨拶をして、紙袋を渡した。
「遅くなりましたけど、バレンタインのお菓子です」
「ありがとう、今度何かお返しするね」
「そんな、いいですよ。好きでやってることですから」
「……うん、ありがとう」
少し間があって、マコトさんは笑顔で頷いた。
「マコト、そろそろ出ないと遅れるんじゃないか?」
まだ眠そうな兄がそう言うと、マコトさんは時計を見て立ち上がった。
「あ、本当だ。じゃあ行ってきます」
「いってらっしゃい」
「マコトさんいってらっしゃーい!」
少し慌しくマコトさんは鞄を持って出ていった。
兄は気だるそうにしながらも残された食器を片づけ、冷蔵庫からパックを取り出してソファに腰を下ろし、飲み始めた。
「お兄ちゃん、まだ寝ないの?」
「これ飲んだら」
と言いつつ、今にも寝そうな兄はソファにだらっと座って天井を見つめている。
「マコト、断らなかったぞ」
「え、本当に?」
「あぁ、昨日の夜、タツキのとこいってきたって」
昨夜、帰宅したマコトさんからその時のことを聞いたらしい。タツキには、吸血鬼だと話したということだった。
「そ、そっか……よかった」
私は安心してホッと胸をなでおろした。
「お前さ、人のことより自分のことも考えた方がいいんじゃねぇの?」
「え、何が?」
「……いや、別に」
「なによー、気になるじゃん」
私が口を尖らせると、兄はため息をついてストローを咥えた。
「お前も好きな人の一人や二人作れって話」
「そういうのってそんな何人も作るもんじゃないと思う」
そう言うと、兄は天井から視線を外してこちらを向いた。
「お前、どういう奴が好きなわけ?」
「え?」
「いや、お前からそういう奴の話ってまったく聞かないから。初恋とかないのか? いい年にもなって」
「私まだ高校生なんだけど……うーん……」
確かに自分はそういう話をしたことがない。自分には初恋なんてあっただろうか。
「あ」
そこでふと思い出した。
そういえば、小さい頃にそんなことを言っていたのを思い出した。
「何?」
私が声を出したので、兄は怪訝そうに私を見た。
「お兄ちゃん」
「は?」
兄は呆けたような声を上げた。
「そういうのって、お兄ちゃんぐらいかも」
「いや、だから何が?」
「私さ、小さい時にお兄ちゃんのお嫁さんになるとか言ってた気がする」
そこで兄がむせた。
飲んでいたものが飲んでいたものだったので、苦しそうに咳き込んでいるのを見ると、まるで吐血しているようだ。
「だ、大丈夫?」
兄はしばらくむせていたが、落ち着いたところで大きく息を吐いた。
「お前、そんな昔のことよく覚えてんな」
「偶然今思い出しただけだよ。でも、もし付き合うならお兄ちゃんみたいな人がいいなー」
「お前な……冗談でもそういうこと言うなよ」
「あ、でもお父さんみたいな人は遠慮する」
「そうしろ」
それには兄も即答した。おかしくなってつい笑ってしまった。
「それじゃあ、もう行くね」
「おう、気をつけろよ」
「いってきまーす」
アパートを出て、学校へ向かって走り出す。スカートが揺れて冷たい風が足を指すけど、そんな寒さも今は気にならない。
タツキに会ったら何を話そうかな。
とりあえずは、おめでとうと言ってあげようと思う。
2010.1 執筆(部誌掲載)
2013.4~8 修正
テーマ【バレンタイン】