明後日はバレンタインデーです
放課後に買い物を済ませてタツキと別れた後、いつものようにアパートに寄った。
もう五時を過ぎているので、日も落ちて辺りは真っ暗だ。ひやりとした空気の中いそいそとアパートの階段をのぼり、玄関のドアの前でインターホンを押すと、少し間があってドアが開いた。ドアの向こうから顔を出したのは兄だった。
「あ、お兄ちゃん起きてたんだ」
私がそう言うと、兄はだるそうに欠伸をして答えた。
「さすがに起きてるよ、お前学校は?」
制服姿の私を見て兄は尋ねてきた。今が何時かわかってないのかな。
「もう終わったよ。さっきタツキと買い物行ってきたから、帰りに寄ったの」
「あー、そうか。まぁ入れ、寒いだろ」
遠慮なく部屋に入ると、マコトさんはまだ帰っていないようだった。兄は呑気にソファに座ってパックをちびちび吸っている。コンビニとかでよく見るゼリー飲料のパックに似ていて、透明じゃないので中身は見えない。
「今日はバイトあるの?」
「これからバイト」
「まだ着替えないの?」
兄はまだ寝る時に着ているスウェット姿だった。
「これ飲んだら着替える」
「ご飯は?」
「これ飲めばいい」
さすが吸血鬼という感じだけど、そんなちょっとの量の血を飲んだだけでご飯はいらないなんて不健康だ。
兄が持っているパックは、血液パックだそうだ。パッケージには血液型が書かれている。この部屋の冷蔵庫にはいつも常備されているものだ。もちろん家にもあるんだけど、兄が出て行ってからは冷蔵庫の隅に少し置かれているだけになった。それとは対照的に、この部屋の冷蔵庫の半分以上はこの血液パックが占領している。
吸血鬼は人間みたいにご飯を食べなくても活動できるらしいけど、やっぱり栄養が偏ると体の調子が悪いって母も言っていたし、兄の食生活が心配になる。
「不摂生だよ、お兄ちゃん。病気になっても知らないよ」
「親父みたいなこと言うな」
「お母さんも言ってたよ」
「……たまに普通のもんも食ってるから心配ねぇっての」
母のことを持ち出すと、兄は強く言えなくなるので都合よく使わせてもらってる。父にはともかく、母にはあまり頭が上がらないようだ。
ちょっと面白く思っているのは内緒。
「そういえばこの前教会の人に会ったよ」
「はぁ? 誰に?」
「ミノリさん」
目を丸くした兄はミノリさんの名前を聞くと、少し安心したようにため息をついた。
「……あー、あの人な。なんでお前が会ってんだよ?」
「前に会った時におもしろいよって話してた漫画貸してくれたの」
「仲良いな、お前……」
ミノリさんというのは、教会で働いている女の人だ。二十歳ぐらいに見えるけどいくつなのかは聞いたことがない。いつも黒いスーツを着た人で、時々このアパートに来て兄やマコトさんに話を聞きながら何か難しい書類を書いている。最初はクールで素っ気ない感じに見えたけど、意外と優しくて面倒見のいい人だ。冷蔵庫の血液パックはミノリさんが定期的に持ってきてくれている。
教会というのは、吸血鬼の保護をしてくれる機関らしい。兄は保護ではなく監視だと言ってるけど、何か違うのかな。
それにしても、教会はどこからこんなに血液パックをもってくるのだろう。
「やっぱり、お兄ちゃんにはそれおいしいの?」
何気なく聞いてみると、兄はこちらを横目で見て呟いた。
「美味いって言うよりは、落ち着く」
「……煙草みたいな感じ?」
「たぶん? 俺煙草吸わねぇし。美味いことは美味いけど」
「へー」
兄はそこで念を押すように付け加えた。
「お前は飲むなよ」
「飲まないよ!」
冗談ではなく本気の目をして言われたので、思わずむきになって言い返した。
私はそんなに食い意地がはっているように見えるのだろうか。さすがにお腹がすいても人の血は飲みたくない。
「それはそうと、お兄ちゃん明後日はバイト入ってない?」
「あぁ、ない」
パックを飲み終えたらしく、遠くのゴミ箱に放りながら答えた。
「マコトさんも?」
「ないと思うけど、なんで?」
日曜日なら大学も休みだろうし、バイトもないならマコトさんは家にいるのかな。そこで少し考えて、兄に提案してみることにした。
「久しぶりに家族でご飯を――」
「却下」
即答されて私はしばらく次の言葉が出なかった。
「そんな即答することないじゃない!」
「なんでわざわざ親父のいるところにいって飯食わなきゃいけねぇんだよ」
兄は不機嫌そうに吐き捨てた。
兄と父の関係はまだ悪い。父としては兄に歩み寄っているけど、兄がそれを鬱陶しいと思っているという方が正しいんだけど。
「もーちょっとは協力してくれたっていいじゃない! お兄ちゃんのケチ!」
そう言うと、兄は怪訝そうな顔でこちらを見た。
「協力って何だよ?」
「……明後日が何の日かわかる?」
期待しないで聞いてみると、案の定難しそうな顔をして考え込んだ。
「母さんの何か……記念日?」
「バレンタインデー」
呆れて訂正した。
「あー……そういえばそんなのもあったな」
すっかり忘れていたらしい。
そもそも兄にとってはあまり接点のないことだから仕方ないかもしれないけど。
「とにかく、タツキを応援したいからお兄ちゃんにも協力してもらいたいの」
「なんで親父と飯食うことが協力することになるんだよ」
本当にわけがわからないといった様子で、兄はため息交じりに言った。
「マコトさんを一人にするの」
「え、何、ハブ? 喧嘩でもしたのか? ちゃんと謝った方がいいぞ」
「違うってば!」
この鈍感さは一体誰に似たのだろう。たぶん父だ。
「マコトさんとタツキを二人にしてあげるの」
「なんで? あの二人、仲良かったっけ?」
「……」
「え、何? なんなんだよ」
兄は本気でわからないと言った様子だ。呆れを通り越してもうどうでもよくなった。
「とにかく、明後日は家族で集まるんだからね!」
「お、おう……」