勝ち負け
叶が綾乃から逃げ着いた橋の名前は船上橋と言う名前で、片側二車線の道路があり両端に歩行者通路を備えた比較的大きい橋だ。だけど、叶は二車線どちらも車が走っているところをみた試しがない。田舎故に、交通量が少ないことも原因の一つだ。主な原因は橋が作られた場所にあるのだが、今は特に関係がない。
大事なのは交通量だ。交通量が少ないということは人通りが少ないということになる。加えて、河原には背の高い草が方々に好き勝手伸び放題のため橋の下、それこそ中央あたりまで入ってしまえば周りからは完全な死角となる。当たり前だが、そこだけ都合よく草が生えていないということはない。誰かが悪意を持って草を刈りとってしまわない限り。
未開の土地を歩くかのように草を掻き分けながら叶は進んでいた。時折、早く歩け、という苛立った声とともに背中を押されるので非常に歩きづらかったが、それでも文句は言わない。抵抗してもいいことがないのはもう学んでいた。
――怒らせないように気をつけながら、適当に殴られればいい
数分先の自分の未来を頭に描き、叶はそう思った。
今叶の前を歩いている人間は二人、先頭を歩いているのは橋の上で叶の肩を掴んだ男、その後ろをある程度のイケメンが歩いている。叶の後ろには三人。全員が子供がやる汽車ごっこのように一列に並び、草を掻き分け進んでいる。
五分ほど歩いたところでようやく草が無くなった。半径五メートルほどだが、草が荒々しく刈り取られている。間違いなく人の手によるものだ。
「何で呼び出しを受けたか、わかるか?」
叶の後ろを歩いていた三人が姿を現してすぐにある程度のイケメンが声を発した。
「わかりません」胸を張って叶は言う。
誠意を持って答えたつもりだったが、反感を買ったらしく「あんまりふざけてるとどうなってもしらねぇぞ」とある程度のイケメンの取り巻きに言われた。
「いや、まぁその通りだろ。叶……だっけ? お前が何かやったわけじゃない。だからわからなくて当たり前だ」ある程度のイケメンが言うと別の取り巻きが「そうっすよね」と相槌を打つ。取り巻きが王に使える家来のように見えてきた。王様の命令は絶対、を地で通しそうな雰囲気がある。
「理由を説明するとだな」
極まりが悪そうに頭を掻きながらもある程度のイケメンは説明を始める。今までの奴とは感じが違うことに違和感を覚えたが、叶は黙って説明を聞くことにした。
「お前がよく一緒に登校している女、綾乃に、俺が告白したわけだが……ものの見事に振られてな。理由を聞いてみると――」
――あなたみたいなゴミには興味ありませんって言われたんだ
すでに綾乃から話を聞いていた叶は脳内で綾乃から聞いた言葉を再生する。
「――あなたじゃ私の好きな人には絶対勝てないから、と言われた」
「えっ」
聞いた話と違ったのでつい驚いてしまう。
「あなたはきっとこの学校の誰よりも優秀で負けたことなんか一度もないのかもしれないけど、それでもあなたは叶 鏡月には勝てない。どんな対決でも絶対に勝てない、とも言われたかな」
ある程度のイケメンはそこで溜息を吐いた。怒りに打ち震えているようには見えない。むしろ、彼女の自慢をしているかのような気恥ずかしさが表情にでている。
「凄いと思わないか。絶対に勝てないと言い切ってしまうほどに他人を信頼できるなんて、俺には出来ない」
綾乃が叶を信頼しているわけでは無いことをわかっていたが、叶は黙っていた。ある程度のイケメンが綾乃の言葉から叶と綾乃の信頼関係を感じた、というのならそれはそれで正しいと思ったのだ。人が違えば感じ方も変わるし、何かを現す言葉も変わる。それは当たり前だ。
「だから、対決してみたくなったんだ。叶と。呼び出した理由はそれだけだよ」
言い終わると、ある程度のイケメンは自然な動作で拳を構えた。力みが全くない構えから相当喧嘩慣れしているとわかる。もしかしたら何か格闘技をやっていたのかもしれないが、構えだけでは叶には何も読み取れなかった。
叶はこの状況の打開策を考える。
てっきり集団でタコ殴りにされて終わりだと思っていたので痛みを堪える覚悟しかしていなかった。相手は叶が構えるのを待っている。後ろに控える取り巻き達も加勢するつもりはないらしく、手を背中で組んで立っている。つまり、正々堂々と闘おう、と言ってきている。
改めて状況を確認して叶は溜息を吐いた。
はっきり言って叶は弱い。傍若無人とも言える常識を無視した強さを持つ綾乃と比べて、弱い、ではなく純粋に弱い。このまま闘えば叶は負ける。そしてある程度のイケメンは綾乃の言葉が信頼関係からくるものではなく、ただの彼女の夢であり望みだと気付くだろう。
人の力量も見極められないつまらない女だ、と思われるかもしれない。
「それは…………嫌、かな」
叶自身がどんなに馬鹿にされ、蔑まれようと問題はない。本人でさえ自身のことを馬鹿にしたりすることもあるくらいだ。ただ、叶は綾乃を馬鹿にされるのは嫌だった。それこそ、ただの冗談でも綾乃に向かって馬鹿という奴は許せない、と考えてしまうほどに。
「覚悟を決めよう。せめて、今まで闘った奴とは一味違うと感じさせるほどには頑張ろう」
ぼそぼそと呟いてから、気合を入れるため両手で頬を打った。そして構える。余計な力があちこちに入り、恐怖に震え、誰が見ても弱そうな構えだったが、ある程度のイケメンは静かに叶が構えを整えるのを見ていた。
「いくぞ」
叶が構えを整え終えたことを見届け、ある程度のイケメンは強く地面を蹴った。一歩で距離を詰め、二歩目で拳を振りかぶる。体重がしっかり乗った拳を見て、叶はコンクリートも砕いてしまう威力を秘めているのではと考えてしまう。
震えて足が上手く動かない叶は、咄嗟に左腕で拳を受け止める。昔綾乃に殴られた時ほどではないが、それに近い痛みを感じる。綾乃に全力で腕を殴られた時は骨折したが、今はまだ大丈夫だ、と叶は判断する。すぐに右手を拳骨に握り、拳はハンマーのように固く、腕は鞭のようにしなやかに、そう意識しながら振るう。
叶のハンマーパンチは相手に簡単に往なされた。ある程度のイケメンはただ、ちょっと左手で叶のパンチを触っただけだ。それだけで叶のパンチは相手の体に当たらない。
左手も右手も使ってがら空きになった叶の顔に、いとも簡単に相手の拳が入った。
それからは一方的な展開だ。何もできず殴られ続ける叶と反撃する暇を与えず殴り続けるある程度のイケメン。
そして叶は地面に倒れる。相手は少し息が荒れているくらいで傷も殴った拳に負っているだけだ。叶がそのまま起き上がらないだけで勝負は終わりだった。
だが、叶は起き上がった。倒れてから起き上がるまでの時間は五秒を切っている。ろくに休憩することなくまた殴られ始める。
倒れる。
起き上がる。
殴られる。たまに蹴られる。
そんなことを繰り返し、叶が起き上がって八度目で取り巻きが「大丈夫ですか、龍さん」と声を掛けた。
「そうか、君、は龍って、名前、な、のか」
叶は考えることなく喋っていた。殴られ過ぎて意識が朦朧としているせいか、ひどく聞き取りづらい声だ。
「なんだ、俺の名前知らなかったのかよ。傷つくなぁ、地元内だけでは結構な有名人だと思ってたのによ」僅かに呼吸が乱れているが龍は最初と変わらないはっきりとした口調で喋る。たまに顔を苦痛に歪めるが、殴り過ぎて痛い拳のせいだろう。
そんな龍に向かって叶は「もう、降参、したら」と問いかけた。意識がはっきりしてきたのか、しっかりとした口調に戻ってきている。
龍は笑う。滲んだ涙で瞳を濡らしながら、哄笑する。
「あーイテェ。可笑しすぎて笑いも涙もとまらねぇ。何で俺が降参するんだ。殴ってる俺が勝つことはあっても、負けることはないだろうが」
叶は警告する。
「それ以上僕を殴ったら本当に拳が壊れるんじゃないかな」
龍は忠告する。
「それ以上殴られたら顔の形が変わるんじゃないのか」
そしてまた龍は哄笑する。叶は笑わない。
「それに拳が使えなくなれば脚を使えばいい。それだけのことだ」
しかし龍は悔しそうに溜息を吐いてから「だけど、これ以上は闘えないな」と言った。
「何故ですか、まだ勝負はついていませんよ」取り巻きが疑問を投げる。
「頭を使えよ。たぶん叶は限界まで立ち上がるつもりだ。それくらいの覚悟は持っているように見える。このまま叶が立ち上がる限り殴るか蹴るかして、もし殺してしまったら、それはもう俺の中の闘いから逸脱する。相手が死んだら、それはただの殺人だ。世間はきっと女に振られて、悔しくて、恨めしくて、殺した。そう受け取るだろう。それは面白くない。だから、これ以上続けることは出来ない。俺の負けだよ。叶 鏡月」
素直に負けを認める龍を見て、叶は倒れた。張りつめていた糸が切れたのだ。意識が段々と遠くなっていく。叶の自我が完全に閉じる刹那、叶は綾乃の叫び声を聞いた気がした。
綾乃の声が、顔面がボロボロになった叶を見て泣いた声か、本当にボロ雑巾が如く汚れている叶を見て笑った声か、好きな人が暴行を受けたことに怒った声か、喧嘩に負けた思い人を見て呆れ果て冷めている声か、はたまた、ただ獣のように叫んだだけの鳴き声なのか、今の叶にはわかるはずもなかった。