日常3
いつになったら本編にはいるのだろう、
と自分で思ったりします。
気付いたらもう放課後だった。今日も叶は学校で特に何もしなかったが、そんなことはお構いなしに時間は過ぎ、いつも通りの時間に終わる。部活にも所属していないのであとは帰るだけ(掃除は当番制で、叶は来週から掃除当番にあたる)だが、校門を出たところで綾乃に捕まった。
待ってたよ、まるで待ち合わせをしていたかのように綾乃は言った。叶は綾乃の微笑みの中に『鏡の考えていることなんて全てお見通し』という言葉を見た気がした。
「なんで僕が正門じゃなくて、裏門から帰るってわかったんだ?」
それでも、朝と同じく右腕に抱きつく綾乃に問いかける。朝は肘より上を締め付け、ではなく肘より上に抱きついていたが、今は左手で肘から上、右手で肘から下を掴まれていた。二重ロックである。もはや逃げる術はない。まさに袋の鼠というやつだ。
「私と鏡は運命の糸で結ばれてるからね。私が正門で待っていれば鏡は正門に来たし、私が裏門で待っていれば鏡は裏門に来る。そういう風に決まっているの」
――そんなはずはない、声は出さずに言う。
「それに、裏門から帰った方が目的地に近いからね。効率を重視する鏡はこっちからくるだろうなって思ったんだ」満面の笑みだ。
目的地を知らない叶が効率を考えられるはずもなかったが、口出しはしない。捕まった以上流れに任せる以外生きる道はない。
「そういえば、今日も告白されたんだって?」
昼休み夢見心地で机に突っ伏していた時に女子の会話から聞こえてきた情報を言ってみる。
「確か相手は……えーっと、成績優秀で家が金持ちでさらにある程度のイケメンな同級生だったっけ? 僕はそんな奴の存在も名前も聞いたことないけど」
「あはは、鏡って意外にそういう情報知ってるよね」
叶は沈黙し理由を考える。
「――存在が空気みたいなもんだから噂が入ってきやすいのかもしれない」
「私にとっての鏡も空気みたいなものだよ」
「……そうなんだ」
「ないと生きていけないからね」
「あっそ」真面目に答えるのが恥ずかしく自然と冷たい口調になる。
「安心してね。断ったから」
聞いてもいないのに綾乃は言う。
「ふーん、何て言って断ったんだ?」
「『あなたみたいなゴミに興味はありません』って」
ただの興味本位だったが、聞くんじゃなかったと後悔する。
普通に考えれば社会のゴミは叶で、綾乃に告白した同級生こそ空気だ。きっと彼は大人になっても優秀で世の中の役に立つ。人に利用されてやるだけでなく、相手に気付かれずに利用するくらいのことは呼吸をするくらいにやってのけるだろう。そんな人間が綾乃にとってはゴミで、叶が空気。どこでなにを間違えばそうなるのか叶は不思議でならなかった。
「禍根が残る断り方はやめた方がいいと思う」余計な世話かもしれないが叶は忠告をする。
「大丈夫だよ。もし襲ってきたら、襲ったことを後悔するくらいに痛めつけてやるもん。というか、そんな奴には二度と女の子と話せなくなるくらいの恐怖を植え付ける」笑いながらも綾乃の目は鋭く光っていた。
綾乃自身が言うように、特に鍛えている訳でも武術を学んでいる訳でもないのに強かった。見た目の可愛らしさからは想像もできないほどの腕力を発揮するし、体力も化け物だ。昔の話だが、叶からカツアゲを行った暴走族をバット二本で壊滅させた、という逸話もある。まるで勝つことが運命とされている正義の味方のような強さだ。
それでも叶は言った。
「お前が言う通りお前は大抵の奴より強いけど、でもやっぱり気を付けた方がいいよ」
「力だけじゃ敵わないこともあるってこと?」
「そういうこと」
「うーん。分かった。鏡がそこまで言うなら今度から気を付けるね」
綾乃のその言葉はもう聞き飽きていた。叶は自分の耳に噂が入るたび毎回忠告しているが、綾乃は変わらない。変わったためしがない。ただの一度も。何があっても誰が相手でも変わらないところが綾乃の良いところかもしれないが、同時に悪いところでもある。
「じゃあ早く用事を済ませよう」
何気なしに叶は言ったが綾乃は「まだ時間が早いよ?」上目遣いで口ごもりながら言う。
「何が? 早くしないと店が閉まるんじゃないの?」
「こ、こんな早い時間からだなんて……鏡も意外に大胆な男だね」
「会話が噛みあってない気がする――一体お前は何の話をしてるんだ? 勿論僕は旅行代理店の話をしているつもりだけど」
「だってデートだよ。旅行代理店はイベントの一つだけど、愛し合う二人のデートの終着点はそこじゃないでしょ」
「僕たちの終着点は家だろ」「そうだね、家のほうが良い。私の家がいいよ。誰も居ないから」
「…………」
「私の家じゃ嫌かな?」
「お前は一度頭の中を調べて貰え」
――きっとABCの八文字目で埋め尽くされているから
「まぁ、とにかく旅行行くんだろ? なら僕の考えが変わらないうちに決めたほうがいいんじゃない?」
「それもそうだね」
素直に納得して綾乃は叶の腕を引き歩き始める。目的地を知らない叶は綾乃に引っ張られるように歩くしかなかった。
旅行の行先も予定も全て綾乃が決めた。そのあいだ叶はただの置物と化していたが文句は言わない。金は全て綾乃がだすのだ。やりたいようにやらせればいい、叶はそう考えていた。
愉しそうに旅行の話を店員とする綾乃を見て叶は「昔から変わらないな」と呟く。今まで綾乃と様々な約束をしたが、正直約束を守った回数は片手にも満たない。今回の旅行もそうだ。一ヶ月後、旅行に行く予定を綾乃は立てたが、一ヶ月あれば綾乃から逃げる準備は十分できる。
綾乃はまた大泣きするだろう。しかし叶にとってはどうでもよかった。なるべく早く嫌いになって貰い、出来る限り早く普通の男と付き合って欲しいと叶は常日頃から考えている。目を覚まして現実を見てほしい、とも思っていた。
旅行代理店をあとにして適当に綾乃の買い物に引っ張られた後「まだちょっと早いけど、私の家、行こう」と綾乃が言った時、叶は――今日は本気だ、と感じた。買い物のあいだ一度たりとも叶の腕から両手を離すことはなかったし、気付いた時にはポケットから財布も携帯も家の鍵も無くなっていた。
どう逃げようか悩んでいる間に綾乃の家に到着する。
「鏡」
脅すような声で呟く綾乃に「にゃ、なにかな?」叶は噛みながら答える。
「逃げたら次は手足の骨折ってでも連れ込むから♪」
笑いながら冗談っぽく綾乃は言うが、目が本気だ。
「……勿論、ここまできて逃げないよ。僕も男だし」勿論これは叶の嘘だ。
「じゃあ、家の中入ろう」
――もう駄目だ
叶が諦めかけた時、綾乃の手が右腕から離れた。どうやら鞄の中に鍵があるらしく、片手では取り出せないようだ。この機を逃す訳にはいかない。叶は駆け出した。後ろを全く振り返らず。怒声が耳に届くがそれでも走った。捕まったら手足を折られる。風を切るように走り、歩行者信号の赤を無視し、閉じ始めた踏切を突っ切り、逃げた。
「はぁ、はぁ、はーー」
滅茶苦茶に走り回って、辿り着いたのは河原付近の橋だった。欄干に手をつき深呼吸を繰り返す。
「は、はは、何の因果だよ。全く」
――早くここから逃げないと
叶がそう考えた時にはもう遅かった。ゴツゴツとした堅い手が叶の肩を掴んだのだ。
肩に絶対に好意的ではない力を感じる。振り向くまでもなく、叶は相手がどのような人物で何故自分の肩を掴んだのかわかったが、もう逃げる力は微塵も残っていなかった。