日常2
「あと少しで夏休みだね♪」
いつになく上機嫌な声で綾乃は喋る。叶と二人での登校中の会話。スキップのような軽やかな足取りで声も体も弾んでいる綾乃は誰が見ても、いいことがあったんだろう、と感じさせる。一歩進むたびにスカートがふわりふわりと膨らんだり萎んだりして、海中を優雅に浮遊する海月のようだ。
「…………」
そんな綾乃とは対極的な気分の叶は口を開かずただ黙々と学校に続く道を歩く。足取りは重く、靴に鉛でも仕込んでいるのですか、とついつい聞きたくなるほどだ。
「どうしたの?」
叶の一メートル先を歩いていた綾乃が振り返り正面に立ちはだかる。両手を背中で組み、上体は前かがみで首を傾げている。故意か偶然か分からないが、制服のボタン上三つが開けられており、叶は本能に従って自然と胸を見てしまう。飾り気は無いが清楚な雰囲気のブラだった。
急いで目を逸らしながら「べ、別に」となんでもない雰囲気を取り繕うように答える。
「ふーん、まぁいいや♪ 鏡は夏休みの予定とかある――わけないか、うん、ないよね。今年こそ私と二人で旅行に行こう。もう高校生だし、二人で旅行に行ってもいいよね、うん。あっ、お金はバイトで私が溜めたから鏡は心配しなくていいよ。どこがいい? どこに行きたい? 流石に外国は無理だけど、国内ならどこでも行けるよ♪」
他人の予定を勝手に決めつけ、しかも旅行には行くことが決まっているような口ぶりの綾乃に呆気を取られ、叶はまた沈黙する。
「夏休みまでまだ時間あるし、相談の続きは放課後だね。取り敢えずは学校に行こう」
沈黙する叶を悩んでいる最中と見たのか綾乃はそう言うと、叶の右腕に抱きつき「早く行かないと遅刻だぞ」と微笑む。
早く行かないと遅刻するのは綾乃の言う通りなので叶は渋々歩き始めた。右手に様々な感覚があるが叶は『今右腕は骨折中で固定されているので動かせないし何も感じない』ことにした。感覚についての詳細を考え始めたらきっと大変なことになる。叶はいつものように考えることを放棄した。何も感じないし、何も思わない。
学校までの道中、他校の生徒に指を差されたり、井戸端会議中のおばさんの注目を浴びたり、小学生の集団に「何やってるの?」「ラブラブだぁ、いいなー」「歩きにくくないの?」「チューはもうしたの?」とか言われたりした。叶は小学生の質問攻めから、やはり女の子の方が色々と成長が早いのか、などと至極どうでもいいことを学んだ。
同じ制服を着ている人がちらほらと目につくようになってきた。それでも綾乃は叶の右腕から離れない。しかも、叶の腕に抱きついてから綾乃はまだ一言も発していない。そろそろ、文句の一つでも言おうか、と叶が思い始めたころ綾乃が口を開く。
「鏡、私いま人生で一番幸せかも♡」静かに自分の言葉をかみしめるように言う。
「ねぇ、鏡」何かを訴えるような目、何かを欲しているような声。
いつもなら無視するが、今だけは答えなければいけない気がして叶は「なに?」と言った。
「やっぱり、学校行くのやめようよ」
「なんで? もう学校着くけど?」
「一日くらいサボっても大丈夫だよ、うん」綾乃の腕を抱く力が僅かばかり強くなる。
「そういう問題なのか? 学生は学校に行くのが本分だろ」
「ははっ」綾乃は可笑しそうに笑い「学校に行くだけの鏡がそんなこと言う資格はきっとないよ。うん、やっぱ絶対ない」と続けた。
酷い言われようだったが叶は否定できなかった。叶は大事な物は一つしか持っていない。親が一人、友達が一人。学校に行かなくても大事な人と会うことはできる。そして叶は決して勤勉ではない。成績は中の下といったところだ。
だから否定はせずに「学校サボって何するの?」と聞いた。
「うーん。えっとねー」綾乃は急に歯切れが悪くなり俯きながら「鏡は何がしたい?」と質問を返してきた。
「えーっと。綾乃の家に行きたいな」
酷く感情の籠っていない声に多少の不信感を抱くも、その言葉をどのタイミングで言うか迷っていた綾乃はつい「ほんと⁉」と叫ぶ。
「ああ、嘘は言わないさ。二人で辛な家庭を築こう」また感情が皆無な声。
「えっ?」定番の文句が明らかに不穏な言葉に変わっていた。綾乃は顔をあげ叶を見る。すると叶の目は綾乃では無くその後ろの空間を見ていた。叶の視線を追うため綾乃は振り返る。
そこには同じ制服に身を包んだ同級生の女の子がいた。身長は綾乃より高く百七十に少し届かない程度。髪は短くボーイッシュな趣がある。
女の子は何故か横開きのノートを九十度回転させ縦に開き両手で使用している。ノートの上側を持つ右手は油性マジックも一緒に持っていた。そしてノートには『嘘は言わないが冗談は言うぜ‼』と太い字で大きく書かれている。
綾乃が振り向いたことで同級生の女の子はつまらなそうに「あーあ、叶君がちゃんと読まんからばれてしもうたやん」と言った。
「いや、僕は書いてある通りに読んだ。大名が間違えたんだ」
「えっ」叶の唯一の友達である大名 里香はノートを捲り「あぁ、ホンマやなぁ。急いで書いたから気付かんかったわ。でも考えたら分かるやろ。定番やん、幸せな家庭を作ろうって。だいたい、辛な家庭ってなんやの? そんな言葉ないよ?」軽快に笑いながら悪びれずに言う。
叶は少し考え「そうだな。父親が家でDV――」
「それも定番やね」叶の言葉が終わる前に大名は口を挟む。
が、叶の言葉には続きがあった。
「――Dを毎日リビングで一日中ごろごろしながら見ている」
「辛っ、父親とどう接して良いかわからんやん⁉ 学校行く前になんて声掛ければええんや。それとも黙っていくのが正解なんか⁈ これはムズイ。つーか父親に何があったんや。家があるいうことは働いとったんやろ」
「あまり他人に家庭の事情は話したくないな」
「えっ叶君の家の話なん⁉」
「うん。中々複雑なんだ。実は家でごろごろしている父親は母親の再婚相手で血は繋がってないんだ。母親は教えてくれないけれど聞いた話によると、実の父親は部長の愛人だとは知らずに手を出したせいで会社をクビになったらしい。部長の横領の事実を押し付けられたそうだ。メディアからの追及も酷くて、それがショックで文字通り、首を切って自殺したらしいから中々ブラックユーモアのある人だったみたいだね」
叶は噛むことなく一息且つ早口で家庭の事情を告げる。
「喋ってええのそんなこと」気落ちしているのか大名の笑顔がぎこちなく声に元気がない。
「まぁ、勿論嘘だけど」
「嘘かいっ‼ ちょっと信じてもうたやんけ。うちの感情を弄ばんといて」
「母親がいるみたいな口ぶりが嘘」
常に快晴みたいな笑顔の大名も「……………………」叶の告白に絶句した。
この世の絶望を垣間見たような顔の大名に「で、父親の話はただの冗談だよ」と叶は言った。
「…………………………………………………………………………………………ドアホが、いっぺん三途の川まで行ってこい」
たっぷりと溜めを使って大名はドスの効いた声で呟く。
「うん。この国の何処かには三途川というのがあるから、夏休みの間に行っておくよ」
怒りの言葉を受け流すかのような叶の態度を見て大名は攻撃的に叫ぶ。
「なんやの? 朝からうちのテンション下げてなにがおもろいん」
「いやさ、ちょっと悪ふざけが過ぎたかもと思って、贖罪をと」
「叶君だって同罪やろ‼」
「そうだ。ただ僕はもう罰を受けているんだ。というか、まだ受けている最中さ」
「うん? 別にこれといって何も罰なんてなさそうやけど? 綾ちゃん腕に抱きつかせて登校とか、他の男子にはなかなかできん幸せなイベントやと思うし、どこにも罰なんかないやん」
幾分か明るさが戻った声で言う大名に叶は「なぁ、血ってどれくらい止まってても大丈夫かな」と弱々しい声で問いかけた。心なし叶の顔が青ざめている。
「そんなん知るわけないやん……」デクレッシェンド気味の声量で言った後「まさか」と大名は息を呑む。綾乃は大名が出会ってからずっと叶の腕に抱きついている。俯いているので表情は伺えないが、耳を澄ますと鼻を啜る音が微かに聞こえてくる。
「綾ちゃんうちも悪かったからもう許してや?」と探るように大名は言う。
「――デート」叶にだけ聞こえる大きさの声が俯いている綾乃からした。
「はい?」叶が聞き返すと右腕を縛る綾乃の力が上がった。時間が経ちすぎて、だいぶ感覚が無くなっているので痛みはないが、それこそがより大きな問題の可能性もあった。
「――今日の放課後」
「いや、放課後は予定が――痛っ」断ろうとした叶の足を綾乃が一切の躊躇なく踏みつけた。
「――デート」綾乃はもう一度同じセリフを繰り返す。
顔が見えなくて良かったと叶は思った。現在の綾乃は殺人鬼すら恐れ慄く表情をしていることが、想像に難くない。
叶は諦めて「わかりました」と囁く。
叶の声を聞き綾乃は顔を上げる。そして「いやなの?」と笑いながら言った。
目が一切笑っていない笑顔は怒っている顔より数倍怖い、と叶は学び「そ、そんなわけないだろ。あーあ早く放課後になればいいのに♪」と普段では考えられない陽気な声を出した。
「ふーん」綾乃は見定めるように叶を見ていたが「そっか♪ じゃあ学校サボタージュしちゃう?」と満面の笑みで喋った。叶の右腕に血が巡ってくる。
「クラス委員を前によう言うわ。学校サボるのはダメやで」
綾乃は大名を二秒ほど無言で見つめ「えー見逃してよ里香ちゃん」普段通りの態度をとった。大名は心中で、叶君ホンマにありがとう、と叫ぶ。
「いーや、見逃せんね。いくらうちがコーンポタージュ好きかて、サボタージュじゃ見逃せん。まだまだ甘いで、綾乃ちゃん」
ふふふと不敵に笑う大名に綾乃は「サボタージュってフランス語だよ」あははと笑いながら言う。
「えっうそ」大名は叶を見る。
「僕は知らないよ。だけど、こいつが言うんならそうなんだろ」
綾乃が学年一位であることを忘れている大名にそれとなく教えた。
大名はみるみる顔が紅葉する。
そして「う、うちはクラスの用事があるから先いくわ。二人とも学校サボタージュしたらあかんでー」と言い残して走り去った。
学校に続く流れに紛れる大名を二人で見送った後、流れに抵抗するかのように叶達はゆっくりと歩き始める。
「そういえば、さっきのサボタージュって本当にフランス語なの?」
あまり聞きなれない言葉なのでまだ頭に残っていた。話題もなかったので叶は質問をしてみる。
「さぁ、どうだろうね」
「どうだろうねって、お前が言った言葉だろ?」
「にひひ、まぁそうなんだけどさ。でもここで私が教えたら面白くないよ。だってさ、里香ちゃんも鏡も知らないんでしょ。だったら二人の行動は検索だよね。うん。今の時代はそこら中に情報が転がっているから検索すれば、きっとすぐにわかるよ。だけどここで私が教えちゃうと少なくとも鏡は調べないよね。そうすると検索はしない。さっきの鏡の言葉じゃないけど、私があると言えば鏡は調べずに信じそうだもん。だから教えない。教えないことで鏡は教室に行ってからネットで検索する。絶対ね。私の選択ひとつで鏡の些細な日常の未来を決めちゃえるわけだ。それってかなり凄いと思うんだ。神に近しいものがあるね」
「その理屈だと、校長も神みたいなもんだな」
「なんで? どーしてそうなるの?」
感じたままを呟いただけだったが叶の言葉に綾乃は敏感に反応した。
喋るのが多少億劫に感じたが、頭の中で考えをまとめ説明する。無視をして後で痛い目をみることはこれまで何度もあったのだ。
「考えてもみろよ。僕たちは休みの日以外学校に行くことが決まっているだろ。そればかりか、学校が休みということすら事前に決められる。夏休みとか」
「うん」
疑問の気配が全くない綾乃の声色から言いたいことがもう伝わっている気がしたが、そのまま続ける。中断されない限り説明を続けなければいけないことも学習済みだ。
「本当に校長が決めているかなんて知らないけど、学校があるとかないとか、行事がどうとかは最終的に校長が決めているんじゃないか? つまり校長の一存で僕たちの未来が決められている、と言えなくない」
「だから私の理屈だと校長が神って言える……」綾乃は不満そうに頬を膨らませながらも叶の後を引き受け続けた。その様子は幼児が拗ねている姿を連想させ、綾乃の見た目と相成ってなんとも言えぬ可愛さを持っていた。叶も素直に可愛いと思ったほどだ。
「そう」説明が終わったので返事は最低限の一言だけになる。
「髪ないのにー?」
咄嗟に校長の頭を思い浮かべる。天辺は見事につるつるだ。だけど、まだ後頭部と側頭部には申し訳程度に髪はある。
「まだ髪あるだろ」
「あれは無いに等しいね。むしろ全部ないほうがまだ見苦しくないよ。無駄な抵抗はやめてとっとと投降しなさい‼って感じだね」目の前に校長がいるかのように、ビシッと指を差す。
「じゃあ、見苦しくないように僕たちは無駄な抵抗はやめて早く登校しようか」
叶はそう宣言し、会話により遅くなっていた歩みを加速させる。
「学校に着いてもサボタージュについて調べない」
綾乃への些細な抵抗として、歩きながら思いつきで宣言した。
「人生の何処かで鏡があるかないか知れば、私がその未来を作ったって言えなくないよ」
「それは暴論だろ」「私の理屈は私の中で通用すればいいの♪」「暴君だ」「私、鼻水なんてたらしてないよ?」「…………」
学校外で調べようと思っていた叶は早々に白旗を上げ、登校中に携帯で検索をすることにした。情報社会は本当に便利だ。