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日常

 瞼を開けると見慣れた白い天井が一番初めに目に入ってきた。

 「――っ、ごほっ」夢の感覚が残っているのか叶は咳き込む。

 「あはは、大丈夫?」

 恐らく人生で一番多く聞いたと思われる少女の声が、叶の安否を確認する。何故笑っているのか、と叶は一瞬疑問に感じたが顔が濡れていることに気付き、何をされたのか長年の経験から理解する。

 「死んだらどーするんだよ」

 気怠そうに呟いてから、体を起こす。まだくすくす笑っている幼馴染(林 綾乃(はやし あやの))の姿が敷布団の右手側にあった。きちんと高校指定の夏服に身を包み、女の子座りをしている諸悪の根源は悪行を隠す気がないらしく、すぐ隣に堂々と青いバケツを置いていた。

 「人間、この程度じゃ死なないよー」罪悪感など微塵もない、のんびりとした声だ。

 ――お前が人間の何を知っているんだ。馬鹿

 心中で悪態を吐きながら「気管に水が入ったら呼吸できないだろ」と恨めしそうに反論する。

 「そしたら私がキ――じゃなくて人工呼吸をしてあげるよ。ファーストキスはまだだけど、人命が第一だもんね。恥ずかしいけど、私頑張る」満面の笑みと両手での小さなガッツポーズで自分の意思の強さを表現する。

 「間違った人工呼吸は命を奪うぞ」叶は知識もないのに(うそぶ)いた。

 「大丈夫、大丈夫。私、中学の保健体育の評価は五だったから」

 自信満々に意気込む幼馴染に「十段階中ね」と同中学卒業生が現実を突きつける。

 「あっれーそうだったっけ?」人差し指を(あご)に当てながら明後日の方向を見るので、叶は溜息をつき反論を諦め、被害の把握を始める。

 髪の毛はずぶ濡れで水滴が一定間隔で垂れている。砂漠の光景がフラッシュバックするが、無理やり意識の外に押しやった。幸いにも服は濡れていない。しかし枕とその近辺の敷布団は大量の水を吸って色が変わっている。手で押さえると、水が滲み出てきた。もう吸えないよー、と訴えているように見えたので軽く鼻で笑った。貴重な水を無駄に使いやがって、と思うと同時に脱力感が全身を駆け巡る。

 「タオル」当然その程度の事前準備はしているものだと思い、叶は手を出し後処理の道具を要求する。

 叶の手を数秒見つめ、幼馴染は言う。

 「ないよ」まるでタオルが無いのが当たり前かの様だ。

 あるわけないじゃん、と表情も語っている。

 問い詰めるのも面倒になり叶はただ無言で睨み付ける。

 「えっとねー」さすがに説明を求められているのを察したのか「洗面所でバケツに水を入れるでしょ。私はか弱い女の子だから片手じゃバケツは持てなくて、だけど首にタオルを掛けるのは可愛い女子高生としていかがなものかと、で、二階の(きょう)の部屋までバケツを持ってあがってからタオルを取りに行くのは二度手間なので、諦めました‼」と悪びれずに説明する。最後の一言と共にビシッと敬礼を決めるあたり、あからさまにふざけている。

 もう言葉を交わすのも嫌になり、叶はびしょ濡れの枕を甲子園で三振を取りに行く剛速球自慢の投手が如く全力で幼馴染の顔に投げつけた。

 「ぐぇ」奇怪な声をあげた後「あーもー髪が乱れる。制服が汚れる――」と幼馴染は文句をぶーぶー垂れていたが、叶は聞こえないふりをしてタオルを取りに階下に向かった。

 洗面所で大量のバスタオルを入手した叶はそれら全てを左手で抱え、慎重に階段を上がっていた。二階に到着し、空き部屋の前を二つほど通り過ぎて、最奥に位置する自室の前まで足音を殺して歩く。

 叶の家に今住んでいるのは、父親と叶自身のみだった。二人で暮らすには二階建ての一軒家は少し広い。自然と空き部屋も多くなる。この家に母親はいなかった。叶は生まれてこの方、写真でさえ母親を見たことが無い。家に仏壇がないので生きているのかもしれないが、父親から母親について説明があったこともない。中学生の頃に初めて自分の家はまわりとちょっと違うのか、と理解したほどだ。子供ながら聞かない方がよいと感じたので叶も母親について質問したことがない。この話を聞いた他人は同情の目を向けてくることもあるが、一度も見たことがない人物がいないからといって寂しくなるはずもなく、それ故、なんで他人が同情の目を向けるのか理解しがたい、と叶は思っていた。

 「……そういえば、あいつは今まで一度でもそんな目をしたことないな」自室の扉の前で呟く。部屋に入るのを少し躊躇するが「母親と今の状況は無関係か」と自分に言い聞かせ左手に抱えるバスタオルをそっと地面に置いた。

 一度大きく深呼吸をする。

 覚悟を決めた叶は左手で扉を豪快に押し開け、背中をむけていた幼馴染の頭上で躊躇(ちゅうちょ)なく右手に持っていた冷水入りのバケツをひっくり返した。冷水は重力に逆らうことなく幼馴染の頭に降り注ぐ。

 「きゃ⁉」短い悲鳴のあと「――えっ、なに⁇ なにが起きた⁇」と困惑気味の声が部屋に響く。幼馴染は混乱しながらも後ろを振り返り、扉の近くでバケツを持って無表情で立ち尽くす叶を大きく見開いた目で見つめる。

 叶はてっきり罵声を浴びせられると思っており、その際の受け答えも自室に来る道中で思考済みだったが 「なんだ、鏡じゃん」と髪が水によりぺたりとついている顔で安心したように言われ拍子抜けする。

 その後「どうしたの? まさか鏡の狙いはこれ?」と水により肌の色が伺えるほど密着した制服のまま、両腕で胸を下から抱えるようなポーズをとる。

 呆気にとられ叶が黙ってしまう。

 「見たいなら見たいって言えばいいのに……わざわざそんな手の込んだことしないでさ。私はいつでも見せる準備は出来てるのに。鏡は復讐するだけだって自分に言い聞かせてここまで来たんでしょ? でも、実際はバケツに水を入れながら鏡は私のこの姿を、妄想してた。違う?」  

 蠱惑的かつ挑戦的な口調で幼馴染はまくし立てる。目が爛々(らんらん)と輝いていた。

 叶は幼馴染の反応に多少驚いたが、実際の理由は異なる。

 「ただの復讐のつもり」冷淡な声で返し「バスタオルあるから待ってて」と続ける。

 「待つのは鏡のほうだよ」叶の背中に声がかかる。

 有無を言わせない強制力が(こも)った声に叶は立ち止まざるを得ない。

 「なんで?」

 「私寒いなぁ。このままじゃ風邪ひいちゃうかも」両腕で体を抱き、微かに声を震わせて幼馴染は言う。

 「だから、今バスタオルを――」

 「タオルじゃ体は暖まらないよ? 勿論責任とってくれるんだよね? 下着までびしょびしょにしたんだから、さ」大きく口を広げ、ニヤっと笑う。

 幼馴染の悪魔的な笑みを見て、叶は遅まきながら気が付いた。濡れた枕をぶつけられて文句を言っていたのは、復讐に水を掛けろ、という振りだったのだ。そして自分はまんまと(はま)ってしまった。

 「じゃあ、しっかり温めてね。体で♥」心底嬉しそうに言い、髪から水滴が滴るのも気に留めず幼馴染は両手を広げた。

 叶は思考能力を限界まで使用し、打開策を考えるが希望はどこにも見出せない。


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