走った
目が痛い。無理もない、今光に慣れない目は、さっきまで塵にくすんだ階段ばかり見つめていた。初夏の爽快な光は地面を叩きつけ、白く広がっていく。恐る恐る、意識に閉じた目を少し開け、見上げた。
痛いのは、青空だ。
雨雲が空を駆けていた。ここが暑い場所だと告げた雲が逃げろと言う。それは皮肉に過ぎず、嘲け笑った僕を罵った言葉だった。瞬時気づいた僕は、キッと空を睨んだ。
『逃げろ』
頬まで伝った丸い粒を潰して、けれど僕はこの場に佇んだ。
ふいに開いたドアに視線を上げた時、この温い風に一瞬意識を飛ばされた。眩んだ世界が嫌で、咄嗟に手で目を庇う。息をつく暇もなく、風は目許をなぜる。
「……ここにきたら、いるかもしれないって、思ったよ」
それでも僕がここに佇むのは、もう逃げないと誓ったから。
「おはよう、一ノ瀬君」
呼ばれるまま、振り返った。
泳ぎそうになる目を、必死でこらえた、けどやっぱりどこか怖くて目を瞑った。なんて臆病。僕は逃げをいつの間にか得てしまったことを知る。
「雨、あがったんだね。よかった」
ふいに千崎は、手のひらを目の上にかざし、空を仰いだ。眩しい、そう一言呟いた彼女を僕はただ見ている。
彼女は、空からは目を逸らさないんだ、と。そう思う僕も、次には上を見上げた。すぐに視線を戻すのはそう、臆病だから。
「昨日、ごめん。迷惑、かけたみたいだから」
ひとつずつ、言葉を確認した。
そう言った僕は出来れば、昨日の事は忘れてて欲しかった。願ってた。謝らなきゃいけないのはわかってる。でもやっぱり、忘れてていい。早く忘れて、僕も忘れて、きっとここで今こうしてることすら忘れて。それがいい、気がする。
千崎はまっすぐ、僕の横を通り過ぎた。僕は追うように振り返る。そして、もう一度小さく息を吸った。
「ごめん」
むっとした、雨の匂いが鼻を刺す。
「今日は空が青いね」
千崎は水たまりのまだ目立つ地面を、派手に歩いて水音を轟かせる。飛び散る水が千崎の周りを染めていく、から。慌てて首を振った。
さっきは、何の話をしてたんだっけ。そして今は何の話をするんだろう。
「あのさ」
「一ノ瀬君はね、いつも走って階段を昇るの」
靴を鳴らし少し跳ねた。コトコト鳴る足踏みが、ああ僕の真似だと気づくのにそう時間はかからない。
自分が言いたかった事も忘れて、思い出してみた。昨日、一昨日、もっと前。そういえば。
「そこの階段の窓、校門からよく見えたんだ。あの人、屋上にいくんだ、ずっと高い空を見るだろなって、思って……そしたら私も走ってた」
大分脱線した話を、今は大分、聞いてた。
「……千崎さんは、空が好きなんだ」
「うん……だいすき」
優しい、時間だった。そんな思いと反比例する僕の体を、どうにか奮い立たせて、小さく返事した。
すこし、冷たい風が吹いた。強さは増し、それは嵐を予感させるくらい。
(変な風……)
風に靡く前髪が邪魔で、頭を振る。髪の先が当たるのが嫌で閉じていた目を薄く開ける。微かに、足跡が聞こえた気がして。
不意に大きく目を見開いた。目の前にいたはずの千崎が、いない。
「わたしもう、行かなきゃ」
横をみやり、振り向こうとした瞬間、後ろで聞こえた。確かに千崎の声だった。はじかれるように返った踵に身体がついていけず、少しよろけた。
風が強くなる。ごお、と唸る風に掻き消されないように、叫んだ。
「待って」
「……またね」
「待って」
微かな笑みを見た。そして、長い髪が大きく揺れた。
また少し目眩がした。すこし後退りして、そこで初めて気がついた。足がなにか掠めて、ようやく下を向いたのだ。
「なんだ、これ」
千崎を、追っていけばよかった。この存在に気づかなきゃよかった。
拾い上げた紙袋を、呆然と眺めるしか、今の僕に出来ることはない。
◇◇◇
「颯太ー帰るぞ」
「えー待ってよ! あたしも一緒がいい」
読みかけの本を取り上げて、なにかちょっと偉そうな有川を笑った。
「なに笑ってんの」
「いや、意味はないけど」
「意味無く笑われてる俺ってなんなんデスカ」
有川のやる気のない突っ込みで、高田が苦く笑ってた。高田は有川の後ろで、せっかく結い上げた髪をおろしている。高田所属の陸上部が休みになったと、さっきの放送での連絡を思い出した。
「二人で帰ればいいだろ。わざわざ巻き込むな」
知ってる、と短く返した。知ってる。観察眼は人並みにあるつもりだ。
「好きなんでしょ、高田の事」
頑張れば、そう肩を叩いた。けど、今度はその手を掴まれた。びっくりしたのは臆測、そんな気はした。
「お前がいなきゃ意味ねぇんだよ」
「なんでだよ……」
「つか、わかってんだろ、お前」
「何が」
僕達を急かす高田の声が聞こえる。苛々しだした有川を、ほら、と宥めた。
「行くなら、行こう。早く」
有川に先に行くように話し、いちど、席についた。さっきの紙袋をもういちど見るために。いわゆる確認作業、夢じゃないのか確かめるため。
やっぱり首を振った。夢だったって、思った。
軽く机の整頓をして、教室に鍵をかける。日課を終え、久しぶりに廊下を走った。