開けた
これは夢だと知ってる。そんな夢を観ていた。その中から僕は出れずにいて、だからこうして今、疲れた。浮遊感のせいで気持ち悪い。
目に映る黒と黒。そのずっと遠い所で光が差してた。それだけが多分、ここからの出口だと思ってる。いや、出口と呼んでいいものだろうか。僕は視界とは違う世界を歩んでいるようだった。歩いても走っても気がつけば元の場所にいた。
なぜか。そう問うたところで出る答えではない。
これからまた、一つずつ狂っていくのだろう。それだけは確かに、現実に残される。答えを探すたび、繰り返す。
膝に頭を凭れうずくまった。疲れた。こうしていつも、ひたすら耐えるしかない。結局何もできないまま、いつも。
……これは夢だ。なのに、なぜ。
「颯太。颯太、まだ寝てんのか。迎えに来たんだけど」
ベッドの上、天井が見えた。夢の終わりは唐突だった。
ドアを叩く音で覚醒する。詰まった息をゆっくり吐き出して、ベッドから足を下ろした。
今日もまた有川は、この面倒な長道を歩いてきたのだろう。いつも汗だくになって来る有川を見て思う。なんて辺鄙な場所に病院なんかあるのか。素直に回らない鍵を適当に回しながら、ふわりと欠伸をした。
「なんで、毎日来んの、有川」
「俺の勝手。いいだろ、別に」
まぁと言い返して中へ促した。現在七時。まだ時間がある。そんな考えの間に割り込んでくる、暑い暑いと騒ぐ有川の声が、あまりに邪魔でうるさくて叱咤する。前言撤回、全然よくない。
冷蔵庫からポットを取り出した。並べたコップに並々麦茶を注いだのは、ほとんど嫌がらせであって親切心では無い。欠片もない。今できる精一杯の仕返しとも言う。でも氷を二つ入れたら、さすがに少しだけ溢れてしまった。シンクに跳ねた冷たそうな雫が、窓から漏れる朝陽を少し反射した。
「とりあえず、飲んで。飯作ってくる」
「おー」
どうしてこう、毎日こいつの飯を用意しなきゃいけないのかって、思いながら少し笑う。飯くらい食べてこいと言いたいところだが我慢した。一人でない食事は、なかなか悪くない。
立て付けの悪い窓を思い切り開けて、空模様を伺う。怪しいというか、降り出すのは時間の問題と言ってもいい。まだ見えているあの太陽も、もう時期隠れるだろう。梅雨明けの遅い地域という事もあって、特に、全く珍しい事じゃないけれど。とりあえず、今日は傘が必要かもしれないと、ぼんやり考えた。
「昨日はちゃんと寝られたか」
「寝た。十持には、寝た、けど」
卵を割ってフライパンに落とし蓋をした。パンは焼けたみたいだから有川の前に出したけど、気づいてないのは確か。僕の部屋に散らばる本を、口を開け不思議そうに見てた。そりゃそうだ。僕だってよくわかってないものばかりだ。
目玉焼きがきれいに焼けたことにほっとする、のも束の間。今度はせかし立てた有川の前に放った。
ほぼ同時に、天井を打つような音がして、返した踵を一度止めた。
「あー……、降ってきやがった」
降りだしたのは大粒の雨。窓閉めなきゃ、と思った。けど、直に聞こえる雨音が気に入って、それでもいいと思った。
「あのさ、颯太」
「なに」
パンの半分を平らげた所で、有川が呟いた。適当にちぎった青野菜を厭そうにつつきながら。待つのも面倒、無理矢理口に突っ込んでやった。不服そうに、それでも飲み込んで、続けた。
「千崎サンの話、だけど」
「なに」
残りのパンも掻っ込んで、早々立ち上がった。片付けは帰ってからでいい。
水を張ったボールに食器を突っ込んだ。何か考え込むように黙った有川に向き直って、流し台に寄りかかった。
「あの子さ、お前の事すげー心配してたから、ちゃんと会ってやれよな」
「ちゃんとも何も、教室行ったら会うよ。嫌でも」
「前に言っただろ、サボり常習なんだって」
着替えをベッドに放って、一気に着替えて、忙しい振りをして、返事をしなかった。
言われなくてもわかってる。千崎には会うつもりだった。けれどなんとなく怖かった。あのノートの現実を告げられる事、千崎の、あの時の声色が脳裏に蘇った。
「あの時あの子、マジで血相変えて教室来たんだぜ」
◇◇◇
教室がうるさい。それ以外は非日常、これがあたりまえ。ドアの前でため息をついた。クラス委員長という役を担う僕には憂鬱で仕方ない。今日もまた、億劫な呼び出しを受けなければいけないのかと思うと、途端帰りたくなった。面倒臭い。
「よ、一ノ瀬。なんだもう出てきたのか。サボればいーのに、あたしならそうする」
ふいに、だからさすがに驚いた。丸めた長い髪がいつも少し崩れていて、男勝った性格が印象的だったから、よく覚えてる。有川の友達、だった確か。
「冗談。それともなに、今日の委員会議出てもらっていいってことかな」
「……無理」
「でしょ、だったら僕しかいない」
少女、高田は親指を立て、満面に笑みを向けた。言葉では僕も返事をしたけど、眼はもう千崎を探した。ホームルームがもう始まるってのに、姿はない。なるほどな、と思う。
「高田、お前アイス代返せ!」
「奢りって言ったろ」
「言ってねぇよ!」
高田だったら何か知ってるんじゃないかって、だから聞いて見ようと思った。なのに、こう来た。どうして有川は、いつだってこう、なんて言うか邪魔ばかりするのか。
ホームルームは、実は僕もサボりたい。だがそうした所で誰がこのクラスを束ねるのか。有川や高田は例外の騒がしさだとしても、この騒がしさは学校一と言っても過言じゃない。
「いつまで騒いでんだお前ら! 怒鳴られないとわかんないのか」
席についたのは僕と、高田、高田に引っ張られ強引に有川。そうだ、高田は意外と真面目なやつだった。それ以外はまるで聞こえていないみたいに騒ぐばかりで、苛立つ教師の顔色なんか見もしない。呼び出される身にもなって欲しいものだが、もう、どうでもよかった。お構い無しに始められた出席確認に、さっさと呼ばれた僕の名前に返事して、頬杖をついた。
女子の奇声が耳に障る。突っ伏して寝ることもならない。高田が険悪な顔をしてるから、きっと同じ事考えてる。有川は寝てる。
今僕が何か言ったって静かになるわけでもなし。早く鐘が鳴る事をただひたすらに祈るだけ。目を閉じた。
例えば千崎が居たとして、何から話せばいい。どんな風にしていればいい。思いを巡らせながら、一段一段階段を踏みしめる。七段目は足を止める。ここからは少し、勇気が要るから。
拳を握り息を呑む。残り六段は駆けて、ドアを開けた。