忘れた
手の甲で汗を拭い、木のしなう音に耳を澄ます。
有川には一つ嘘を吐いてきた。親のせいで帰りづらいと話したことだ。だからああして、僕を引き留めようとしてくれた。
半分は、本当だ。ただ、僕が一方的に父を避けているだけなのだ。どうも気難しい父の前に立つと緊張する、そんな大したのことない理由だった。隠したかったわけじゃない。嘘を吐いたのは、自分自身でも驚いた。
まっすぐ向かったのは、自宅のすぐ近くの山道だ。いつだって、独りの逃げ道はここだった。
この先は小さな滝が葉に身を隠して轟いている。僕がここで、本当に独りきりだと証明するみたいな強く力満ちる音が自然と耳に届くのだ。ふいに、描きたい、と思った。
そんな中僕は、或る神話の英雄を思い出していた。この小滝のように強く、そして無力故に己の持つ力さえ忘れ、神に翼をもがれた、あの話。僕は彼に似て、少し違う。
僕は、僕を貫けばよかったのか。自らで自らの翼を凍らせた僕は、弱くて、馬鹿だ。誰かに取られる前に、自分でなくしてしまう。それでよかったと思っていたはずなのに。僕が朝の屋上でごみ屑にしたあのノートは、その後どうなったのだろうか。
色のついた絵は久々に見た。断片だけ。息を呑むほどに綺麗だった。本当に、綺麗な。あれはもう、僕の絵じゃない。だからこそ、いつかもう一度会えるなら、あの場所で謝りたい。そう思う。千崎は、あれから何をして、どこへ行ったんだろう。いくら目をつむって考えても、瞼の裏に浮かぶのはたくさんのヒマワリだった。
大きい松の木が唸って揺れた。近づけば、独特の匂いが鼻をくすぐる。僕は数ある木々の中で、この木が一番好きだった。掻き乱れた感情もいつの間にか落ち着いて、ひとたび息を吸い込むとまた僕を前へと導いていく。僕はこの木の幹に軽く触れた。
頭が鈍く痛んだ。痛みも虚しさも全部、いつか消えるだろうか。僕の手に握られた学生鞄、目前にそびえる大木。生きた証も、大切なものも、そうしたら消えるんだろうか。
有るわけもない。そんな事を考える僕はくだらないと思った。
小さく息を吐いた。帰ろう。少し、休もう。だから早く。
山の裏を降りたら、また林があって、小道を抜ければ家の門が見えてくる。木漏れ日がちらちらと視界に現れて楽しい。
父の病院に寄ってみようと思ったのは、この時だった。こんな時間に帰って、一言もない方が不自然だ。
ぐっと息を呑み、戸を掴んだ。
「あら、颯太くん? 珍しい」
待合室には、患者が三人。顔は朧気に憶えている。
飲みかけの麦茶の氷が、小さな欠片を残して揺れていた。閑散としているけれど、どこか暖かい雰囲気があった。
「早いねぇ、もう学校終わったの?」
あまり覚えていないけど、この人が全然変わっていないことだけ、直感的にわかった。そんなところです、なんて呑気に言って、一度部屋を見回した。
「ほんと、久しぶりに見た気がする。颯太くん」
僕の目の端に映った、その隣の人が割って入った。笑っていた。
覚えてる、この人の笑い方。談笑の中、一人だけ声は立てずに優しい笑みを湛えていて、しつこく干渉もしないで、だから嫌いじゃなかった。
「昔はよく、ここで絵を描いていたのにね」
この人は、こんなにも弱々しかっただろうか。笑い方は覚えていても、その他の記憶は曖昧だった。
返事に困り僕はただ、にこりと微笑んだ。
次、次と、父さんの呼ぶ声がしたのは、それからすぐの事だった。神木さん。確か、神木さんは、またねと手を振り診察室へと影を伸ばした。
「あの人ねぇ、ずっと颯太くんに会いたがってたよ」
小さい頃、この待合室で絵を描くのが好きだった。父がそれを疎うようになって、一人きりで描くようになって、それでも僕の絵を見に来てくれる人がたくさんいた。ここの患者たちだ。
一ノ瀬先生は気難しい人だから。笑顔まじりにそう言うのは、思えば僕を励ましてくれていたんだと今気づいた。
神木さんはその輪の一人じゃなかった。別に他の人たちとの折り合いが悪い訳じゃなかったけど、いつもふらり一人で来て、一本の色鉛筆と引き換えに、よく絵を持っていってくれた。そうしてくれることが嬉しくて、僕は何枚も描き続けたんだ。思い出した。
不意に目眩が酷くなって、そっと壁に手を当てて耐える。目元を軽く押さえて、何か適当な事を言ってここを立った。息苦しくて、嫌だった。
結局父には会えなかったけど、さっきの人たちが適当に話すだろうと思ったら、途端にどうでもよくなった。
離れにある自室まで走って、階段を昇ろうとして……無理だった。しゃがみ込んで、目眩をやり過ごす。その間、微かに笑みさえ浮いてきた。そういえば僕は、寝不足で倒れ早退したんじゃなかったか。
色鉛筆を思い出す。使い込んで短くなった茶色、異様に多かった青、折れた赤い芯、粉に姿を変えた虹色の屑。
目を瞑り、もう忘れた。