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夏跡  作者: 南野李茶
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だから

 いつの間にか置いてあった僕の鞄を軽々と持ち上げて、数センチ空いていた窓を雑に閉めると、じゃあ、と少し間を開けて言った。


「じゃあ、俺もサボるかな」

「そんなこと言って、悪い頭がさらに悪くなったらどーすんの」

「うるせーよ」


 早退のための手続きは、いつの間にか済んでいた。職員室に寄って担任に顔を出すと、随分と心配そうに声をかけてくれたけれど、なんともない、と言うと、諦めたようにわかったと返された。

 身体軽い。倒れたなんて嘘みたいに、足取りは軽かった。堂々と職員室の前で僕を待っていた有川は、今日は随分としおらしく見えた。


「さて、僕は帰るけど」


 鞄を背負って玄関へと歩き出すと、やっぱり有川はついてきた。こんなことして、内申下がったらどうしようなんて考えないあたり、先のことをあれこれ考えない性格なんだろうと思う。前向きなのか、ばかなのか。


「帰るって、お前、帰れんの」

「だから、見てわかるでしょ。どこも悪くないって」

「いや、そういう意味じゃなくて」


 有川はふいに目を逸らした。それ以上はどもってしまって、それがなんだか珍しくて少し笑った。


「有川が帰れって言ったんじゃん」

「そうだけど、いや、だから……」


 帰れんの。そうだ、帰るには帰れるんだろう。長く、長く息を吐いた。あまり考えたくない。


「少し時間をつぶして帰る。どうせ、僕の親のこと、心配してるんだろ」

「今日くらいさ、ちゃんと話せばわかってくれるって思うよ、俺。だからさっきはああ言ったけどさ、なんかやっぱり、気になって」

「いや、うん。寄りたいところがあったんだ。用が済んだら、ちゃんと帰るよ」


 廊下はやけに静かだった。有川に尋ねると、休み時間はとうに終わっていたらしい。さっき保健室で、校庭から聞こえた声は、どこかの体育の授業だと言う。授業中の廊下はまるで人気がなく、教師の声が時たまどこかから聞こえてはなんだか少し緊張した。下駄箱を過ぎて、校門を抜けるまで、なぜか息をひそめたくなる。自分だけが特別なこの状況は、誰にも気づかれることなく居たいと思うのだ。この息の詰まる感じが、鼓動を大きく高鳴らせる。


「なあ、寄りたいとこって」


 僕のそんな心境とは裏腹に、有川随分と慣れた様子だった。知ってか知らずか、校門を抜けるまで一言も話さなかった彼がその口を開いたのは、振り返っても大分学校が見えなくなった位置だった。


「大したところじゃないよ。家のすぐ近くだし、だから、有川はすぐ帰んなよ」


 だから、もうそんなに気を遣わないでいいから。言葉にはならなかった。

 昨日から何か不自然だった。有川とはもう随分と長い付き合いになるが、こんな態度を取られるのは初めてだった。もっと、無神経になんでも聞いてくるような奴だし、何を考えているのか一目でわかるような、そんな単純なやつだった。変だ。

 さっき倒れたのだって寝不足だって思ってる。今までにだって、そこそこ何度かこういうことがあったみたいだし、有川だってそれがなんでもないことくらいわかってるはずだ。

 まだ重い瞼を開け、眠気を振り払うつもりで前髪を掻き上げると、あたたかい風が額をなぜた。それ以上は何の会話もなく、本数の少ない電車を待つ間も、電車に乗ってしまっても、少しも目が合わなかった。電車の中の色落ちしたようなくすんだ赤の座席が、時折影から現れる陽の光に照らされて鮮明に見えたのが、嫌に目に焼きついた。

 向かった先は、そこそこ広い近所の公園だ。さっきからちらつく朝の苛立ちが、何故かこの場所を指さした。広く人気のない場所で、ただ意を落ち着けていたいだけなのかもしれない。さっきまで後ろにいた有川が気がつくといなくなっていたことに、内心、少しだけ安堵していた。

 水道で蛇口を軽く捻ると、水は一気に噴き出した。手をかざしてみるとそれは随分温くて、水飛沫が頬に触れるたび不快さに眉が寄る。見た目の涼しさとは違う温度の矛盾が嫌で、乾いた喉も潤わないまま蛇口は閉じた。木陰にでも入らないと、今度は熱中症で倒れそうだ。

 藤のつるがちょうどいい日陰になってる。錆びたベンチに腰掛けて俯くと、突然冷えた缶が頬を掠めた。


「ん、ほら」


 傍にいられるのが嫌なんじゃない。だけど、この場所には来てほしくなかった。


「なんだ、帰ったかと思った」

「それ昨日も聞いた……」


 缶から滴る水滴が落ちて、雑草の上に落ちた。限りなく無音に近い微かな振動を、耳が確かに捉えた。それくらい静かで落ち着いた真昼間の公園は、なんだか不思議な場所に思えた。通り過ぎた一台の車のエンジン音がやけに近くに感じた。


「ここに来るとさ」


 声に、言葉にするつもりはなかった。でも気が付いたらそれは、言葉にしなくてはならない大事なことのようにも思えて、少し上擦った声が独り言のように呟いた。


「昔のこと、少し思い出す。たいして遊んだわけでもないんだけどね。なんか、こう……」

「なにそれ」

「なんて言っていいか、よくわからない。いいや、忘れて」


 なんか、こう。次の言葉は決まっていた。だけど、低く響いた有川のその声に、不覚にも驚いてしまって、口を噤んだ。


「有川」


 偽りだけの笑みを、どうか気付かれないように。


「ありがとな」

「なにそれ」

「いや、今日のこと」

「ああ、うん」


 僕がベンチから立ち上がっても、有川は深く腰掛けたまま何か考えるかのように腕を組んだ。


「じゃあ、もう行くから。明日また、学校で」


 組んだ左腕の半袖の裾が固く握られていたことに気づかない振りをしたまま、僕は家路へと向かった。



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