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夏跡  作者: 南野李茶
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笑った

 朝の屋上は、ほんのり空気が冷たい。風もドアノブも、身体に触れるものは何だってひやりとした。固いコンクリートに腰を下ろしてから、腕時計の長針を眺めた。二十四分……午前八時。別に、朝に会おうと約束したわけではなかったけれど、何となく今ここに来たいと思った。

 鳴き続ける鳥の声に耳を傾けていた。もう少しでチャイムも聞こえるんだろう。それがどうしても、無性に嫌だ。聞こえるはずのない秒針の音が頭の奧で鳴り響いた気がして、うるさくて、妙に苛立った。時計はすぐに外して鞄に押し込んでみたけれど、それでも耳障りな音だけは残っていた。何度深呼吸を繰り返しただろうか。

 有川の、昨日の言葉を思い出していた。有川祐樹。特に変わった名前でもない。クイズか謎かけか、何かだったのだろうか。転がる石を見やり、大きさ形のちょうど良さげなものを拾って先端を少し地面に擦りつけた。手に馴染むように何度か持ち直し、壁に向かって打ち付ける。平仮名、片仮名……何度考えて、何度書いてみてもちっともわからない。靴底をコンクリートでこすると、文字はきれいに消えた。

 思考を変えてもなお収まらない耳鳴りは、どんどんと酷くなっていった。気持ち悪い。手のひらからこぼれたさっきの石ころをもう一度拾う。今度は、何か描こう。そう思った。寄りかかった壁が、十分なカンバスだ。灰色のその壁はよく見ると小さなひび割れがいくつもあった。石をそこに滑らせると、まっすぐな白い線は波打つように歪んで途切れた。

 何を描きたいか、そんなの。

 当てもなく線を引く。わかってるくせに、僕は何も描けなかった。


「一ノ瀬くん」


 聞こえた声の正体は知っていた。わかってたけど、振り向かない。振り向けなかった。声が聞こえた瞬間、どうしてか目頭が熱を持った。涙がこぼれそうになった。


「ちゃんと、持ってきたよ。でも、もうチャイムが鳴るから……」


 前髪を掻き上げる。視界がぐらぐらと揺れた。


「あの……」


 控えめな声だった。小さくて、柔らかな、優しい声だ。やっぱりどこか懐かしい。

 チャイムの音が重なる。耳鳴りは思い出したかのように共鳴しだす。


「ね、なんか顔色……」

「ねえ千崎さん」


 どうして、と言いかけてやめた。様子を窺おうとした千崎が屈んで不思想そうに首を傾げると、俯いたその視界隅で、千崎の長い髪とノートが見えた。


「そのノートのことなんだけど」

「うん、すぐに返そうと思って、それで」

「いらない。捨ててしまって、どこかに」

「捨てるって、どうして」

「いらない」


 汗が頬を伝って、顎から落ちる。これさえ無くなってしまえば、妙な苛立ちも、不愉快な耳鳴りも、消えて無くなってしまうだろう。そんな気がして、ゆらゆらと動いた視界をゆっくりと閉じた。


「わたしには、できないよ」


 千崎の声は震えていた。それを隠そうとするみたいに強張っていた。

 手に熱が伝わる。目を開いて見えたのは、僕の手に握られたそのノートだった。千崎の手のひらが僕の手を包み、固く握らせた。

 嫌悪が一層強くなる。指先に力が篭る。

 認めてもらたかったわけじゃない。そんな理由のために描いていたんじゃない。描き続けたんじゃない。ぐっとそれを握りしめて、僕は、その紙屑の残骸を二つに裂いた。

 瞬間に千崎の熱い手のひらが僕の腕を抑え込んだ。痛いくらいに強いその力に息を呑んだ。抑制されたまま、両手に残る残骸を見つめると、色付いたページの端が少しだけ見えた。


「ごめんね、別に、悲しませたかったわけじゃない」


 千崎は泣いていた。声を必死に押し殺しているのは、震えた指先から伝わってきた。

 僕の手のひらから、どんどんと零れ落ちていく。白と黒で埋め尽くされたその紙は、はらはらと風に乗って散っていく。


「悲しいよ」


 僕は千崎を見つめたけど、彼女の視線は一度もこちらに向かない。彼女の声がそう聞こえると、僕の世界は突然暗転した。





 そして目を開けた時、また夢を見ていたのかと思った。朝の冷たい空気が嘘みたいに消えていた。首筋が嫌に濡れている。意識が現に帰るたび、夢ではないことをようやく確信した。


「目、覚めたのか。大丈夫かよ」


 白いカーテンが風に煽られてうごめく。つんとした消毒薬の匂いが鼻を刺す。保健室だ。

 有川の声がやけにはっきりと聞こえた。


「あのさ、具合悪かったんなら言えよな。急にくるとさ、結構、ビビる」

「ちょっと寝てただけ。サボりだよ」

「うそつけ。倒れたんだぞ、お前」

「そうだっけ」


 よく冷えた水を手渡されて、そこで初めて自身の身体が不自然なまでに汗で濡れていることに気づいた。少し嚥下して、小さくため息をついてみる。するとなんだか急に酷く疲れて、また目を閉じた。


「お前、今日はもう帰れよ。しんどいんだったら、担任に言えば送ってくれるだろうし」

「……ひとりで帰れる」

「まあ、そう言うと思ったけど」


 校庭からたくさんの声が聞こえる。窓から差し込む陽も、もう随分と熱かった。閉めきったカーテンの中じゃ時計は見えないけれど、昼休みくらいの時間なんだろう。


「さっきさ」

「うん?」

「倒れてたって、僕が」

「うん、え、覚えてねぇの」


 なにも言えなかった。覚えてるはずなのに、言葉に出そうとするとわからなくなる。


「僕は……」

「うん」

「たまに、ほんの少しだけ、僕が分からなくなる。急に自分が自分でなくなる、みたいな……でもそれははっきりとじゃなくて。さっきだって、そうだった……」


 疲労感が頭を麻痺させる。途中からは、自分でも何を言っているかわからなくなって、思うままをぽつりぽつりと溢していった。有川は単調な相槌ばかりを繰り返して、最後には少し笑っていた。


「じょーちょ、不安定、ってやつじゃねぇの」

「かもね、変なの」


 気を抜くとまどろみそうだった。


「……謝らなくちゃ、いけないかもしれない。彼女に」

「なんでそう思う?」

「わからない、でも……」


 言葉に出そうとするとわからなくなる。頭がはっきりしないのは、倒れたせいなのかもしれない。

 とても眠かったけれど、もう眠りたくなかった。また何かひとつずつ、わからなくなってしまうような気がして。身体を起こそうとすると、有川は心配そうに手を差し出してきたけれど、倒れたとは思えないほどに身体は軽く起き上がった。


「なんだ、結構元気じゃん」

「だから、ただのサボりだって」


 有川はそーかよ、と一言返すと、眉を下げて少し笑った。


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