歩いた
いつもの通学路は、すっかり夏色に染まっている。草木の生き生きとした緑色も、川の透き通った透明も、梅雨の間色を失った時間を補うみたいに艶やかに見えた。息を大きく吸い込むと、湿った土の匂いがした。その途中にぽつりと現れる色あせた小さな駄菓子屋の前で、有川は一言、寄ろうぜと声を張った。
有川が買ったアイスキャンディーは、すでに少し溶けかかっていた。袋を外すと、色づいた水が何滴も滴った。僕は店の外に置いてある錆びついたベンチに腰かけて、地面には買ったばかりのラムネ水を置いた。玉押しで一気にビー玉を押し込むと、すぐに爽やかな炭酸の音がする。噴出さない開け方は、もうとっくに覚えた。カラン、カランとビー玉を瓶の中で転がしながら丁度良い場所で引っかけて、少しだけ口に含むと、ぴりっとした痛みを舌の先で感じた。
五時少し前。有川は、また黙ったままだ。ゆっくりと甘味を味わってから、今度は僕がゆっくりと口を開いた。
「あのさ」
有川はアイスを一口かじって、横目で僕を見た。今にも溶けて崩れそうなそれを、もう一口かじっては、うん、と素っ気ない返事が返ってきた
「千崎さんって知ってる?」
「は?」
「千崎。千崎椎乃、さん。うちのクラスの」
少女の名前を、ゆっくりと繰り返した。
有川は僕が驚くほど驚いた顔をして、溶けかかった最後の一口が地面に落ちたのも気づかずに、残った木の棒を口にくわえた。
「なんで」
「なんでって何」
「いや、だって……」
口の中から木の棒をするりと抜くと、有川は眉を少し下げて笑った。短い茶髪が少し弾む。
「ほんと、今日は珍しいな。お前らしくない」
「何それ」
「あれだろ、不登校の。窓側の席で……」
五時の鐘が鳴り響いた。街の子供を家へと誘導する、不思議な音色だ。反射的に音のする方に耳を澄まし、空を仰いだ。ほんの少しだけ、空は赤みを帯びている。
「さっ、帰ろうぜ。千崎のことはまた今度、話してやるよ」
本人に聞いたっていいし。聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、そう付け足したのを、僕は聞き逃さなかった。そのあとは、さっきまでの沈黙が嘘みたいに有川は饒舌に喋り始めた。それは何か必死そうに見えたし、いつも通りの有川のようにも見えた。意味も理由もわからないまま、他愛もない話をして、当たり前のようにいつもの分かれ道に辿り着く。立ち止まらないまま、じゃあと声をかけようとしたとき、半歩後ろで立ち止まった気配がして、僕も思わず足を止めた。
「なに、どうしたの」
「颯太さあ」
「うん」
「俺の名前、言える?」
アミと虫かごを背負った少年が横を通りすぎた。
「有川」
「そうじゃなくて、全部」
「有川……祐樹でしょ。なに、急に」
「いーや、別に」
へらっと笑った有川は、じゃあなと一言言うとさっさと視界から消えてった。
さっきの少年が、家路のずっと先の方で誰かに別れを告げる声がした。ばいばい、またね。そう聞こえたのを最後に、風が一際強く吹いて少年たちの声を呑み込んだ。
夏が始まる。
◇◇◇
「あれ、有川じゃん。何してんの」
帰り道、呼び止めたのは見慣れた学生服を纏まとった少女だった。逆光が視界をあやふやにするけれど、その姿の正体はすぐにわかった。
「別に」
「別にってなによ」
彼女は丸め上げた髪をゆるゆると落とした。うねりの目立つその髪を気にするように指でいじりながら、強めた口調で、ばか、と言った。
セミが鳴かない。陽が落ちてきた。彼女は伸びをしてから、やや視線を落とした。目に掛かる長い前髪が目を隠す。彼女は言った。
「あんたっていつもそうよね」
「なにが」
何か言いたげに口を開く。でも、言葉にはしなかった。
子どもも大人も、誰もいない道をゆっくりと見渡す。車が通る気配も無かった。静かな場所だ。
「そういうばかっぽいとこ。直しようがないのはわかるけど」
「うるせぇよ、ばかはどっちだ」
彼女は笑っていた。そうやって言い合って、オレも少し笑えた。
「……アイス、食べたいんだよね。あっつくてさぁ。付き合ってよ」
今食った。そう言い切る前に背中を強く叩いて、ぐいぐいと押した。
しばらくそうして、また沈黙する。オレが黙って前を歩くと、彼女もまたその後ろを歩いた。