ずっと
「颯太!」
薄く目を開けた颯太は、ぼんやりとどこかを見つめたままゆっくりと、手のひらで顔を覆った。ユウキが次に声を掛けようと口を開いた瞬間、颯太は言った。
「夢を、見てた。ずっと」
小さなその声は、風音に今にも掻き消されてしまいそうだった。
「有川と、千崎がいた、そこに。今より、ずっと幼い……」
ユウキと目が合う。そう言って、しばらく黙り込んだ颯太は、誰とも目を合わせようとはしなかった。
わたしは一歩、颯太の傍へ踏み出した。
「……最初は、絶対に忘れないって思った。こんな大切なもの。でも本当は自信なんてなかった。怖かったんだ。いつか記憶が消えるときに、知らないまま二人を傷つけるって、そうも思ってた。記憶がだんだんと薄れていくのは、嫌でも感じたから」
「……颯太?」
ユウキが呼びかけても、颯太は口を止めたりしなかった。息を呑みこんで何度も詰まりながら話し続ける颯太は必死で、ただつらそうに、見えた。
「だから、勝手に消えてなくなる前に、自分で捨ててしまおうって。どのみち二人を傷つけるなら、その方がいいって、だから」
下ろした手が、ぎゅっと地を握りしめた。
あと少し。あと少しで颯太の傍にいけるのに、足が震えて、できない。颯太が今、何を言おうとしているのか、何を思っているのか、わからない。想像もできない。わたしはまた、怖いのかもしれない。
颯太は力の抜けた身体を起こし、そのまま膝を抱えた。顔がずっと見れないままだ。
「夢から醒めたら、もうとっくに二人は傍にいないはずだったのに。なのに、目を開けても二人はここにいてさ。おれは何のために、二人を傷つけたのかな」
颯太が少しだけ震えているのが、声から、肩から、わかった。それが熱の所為だけではないことも。
「……オレ、そんなことなんじゃないかって思ってたよ。だんだん変わっていくお前をみて、考える時間がいっぱいあって、そうだったのかなってさ」
ユウキは落ち着いた様子だった。そして、笑ってた。
「だからオレは、お前から逃げなかった。何度有川って呼ばれたって、オレは颯太って呼び続けてた。心底お前のことばかだと思ったし、そんなやり方認めたくなかったんだ。それだけ。傷ついたりしてないよ、オレは」
「ひどいこと言ったし、した。それに変わりはないだろ」
「謝るなよ、絶対。それはオレも同じだ。だけど正しかった。お前もそうなんだ」
笑って、そして、ただまっすぐ前だけを見てた。
「シイ、だからお前も悪くなんてなかったんだよ」
茜色の風が突き抜けていく。腕も脚も、髪も、まとわりつかれてまた、すぐに逃げていった。
今度はすぐに、足が前に出た。一度踏み出すと、もう一歩は簡単だった。
颯太、ユウキ。声にはならない。だけどわたしはずっと、その名を呼んでいた。
「わたし、わたしね、颯太が頑張って決めたこと、支えてあげられるユウキみたいになりたいって思ってた。つらいこと、ちゃんと向き合って決められる颯太みたいに、強くなりたいって、思ってた。だけど」
涙がこぼれたのは、その直後だった。泣かない、泣かないと思うほど、それはたくさん溢れ出ていった。わたしは必死に息を吸った。
「何もできなかった。ううん、わたしが全部、なかったことにしちゃった」
颯太が、ゆっくりと顔を上げた。なのに、もう涙も拭えなかった。思いが溢れる。今言わないとだめだって、気持ちがはやる。
固く握りしめていたはずの缶が、震える手からストンと落ちた。古いその缶は脆くて、その衝撃だけで簡単に蓋が開いた。そのまま、わたしの膝も力が抜けた。
「強くなんかないよ」
颯太が言った。
「強くなんかない。間違ってたんだよ、おれは。こんなこと、していいわけなかったんだ。あとさ」
言って、言いかけたまま、颯太はすっと立ち上がった。ふらふらとまだ、よろめく身体が数歩だけ歩くと、わたしの目の前で止まった。そのまましゃがみこんで、散らばった絵を見て、ふと息を吐いた。
「おれは結局絵をやめられなかったんだよ。嫌いにもなったけど、大切だった。だから」
颯太はいつのまにか笑っていた。
「シイはおれの大切なものを守ってくれたんだよ」
颯太の手が、わたしの頭を優しくなでる。その優しさが、余計に心を痛くする。途切れる言葉を紡いで、どうしても言いたかったことがある。ずっとずっと、言えなかったこと。でも、涙がどうしても言わせてはくれなかった。嗚咽になって消えてった。
颯太は優しく抱きしめてくれた。子どもみたいに泣くわたしを抱きしめる腕は熱くて、震えていた。そして小さな声で、わたしが言えないありがとうを、そっと呟いた。
少し落ち着くと、颯太はそっと手を解いた。颯太の熱がふっと消える。わたしは、涙を拭って見上げた。
「おれ」
颯太から、優しい笑みは消えていた。不安気に、無理矢理笑ってわたしを見て、そしてまたすっと立ち上がった。わたしはさらに颯太を追ってさらに見上げた。
「また、忘れるかもしれない。今日のことも、昔のことも」
手のひらには千切れた絵があった。少しの弱い風でそれは数枚飛んでいく。握りしめて、また落ちた。
「だから、二人に頼みたいことがある」
もし、また何か見失ってしまった時。何か、消えてしまいそうなとき。そう続けた。
「傍にいて……助けて」
颯太はまた、笑って言った。見たことない、大人びた悲しい笑い方だった。不安なんだ。怖いんだ、颯太も。
ユウキと目が合った。ユウキは、昔と変わらない表情で笑ってた。わたしも、笑った。
ユウキはこぼれ落ちた絵を拾った。わたしは颯太の手を握った。そうしたら、一度驚いたような表情でわたしたちを見て、小さく声を上げて笑った。昔のままの顔だった。
「ばか、最初からそう言えよ」
「ほんと」
「やっぱお前が一番悪い」
「そうだね」
懐かしいな、って思ったら、また涙が出た。二人も泣いてた。
あの夏の跡を振り返ってばかりだった。目で追いかけて、立ち止まって、ずっと後悔してた。
今度は歩ける。また三人で歩いていける。つらさも悲しみもみんな、三分にして歩いていきたい。そう思った。
髪も腕も風も、みんな、風が洗い流していく。木の葉の間から溢れ出す光を思いきり吸い込んで、胸が苦しくなる。空を仰ぐように顎を上げると、緑に吸い込まれそうになる。夏の音、夏の匂い、夏の色……変わらない夏。ずっとこの町で、みんなで。
夏の残す幸せな記憶を、ずっと。
◆◆◆
戻った記憶は、すぐに消えてしまうことはなかったけど、それでも、その記憶もほんの一部にすぎないということを、あとから知った。
それから数日が経った。シイが毎日学校に来るようになって、クラスは転校生でも来たかのような反応を見せた。元々不登校ではなかったらしいけれど、じゃあどこにいたのかと尋ねると、呑気そうに秘密だよ、と言った。
おれは執行部をやめて、クラス委員も辞退した。クラスのことを、学校のことを、忘れないために始めたこの仕事も、もう必要なくなった。代わりに祐樹を推薦したら高田が見兼ねて立候補して、ホームルームが少し騒がしくなった。
夏休みがもうすぐ来る。おれの周りはどんどんと騒がしくなっていった。さらにセミもうるさくなったし、刺すような暑さも一層鋭くなった。
「入院、決まったんだって」
祐樹が隣の席から、こちらを見もせずに呟いた。高田の仕事を手伝わされているらしい。机に寝そべりペンを滑らせたまま、おれに問うた。
「今まで断ってきただけだからね、まさか記憶が戻るなんて思いもしなかったから」
シイの席をふと、見る。高田と随分楽し気に話をしていた。
記憶が戻ったきっかけはシイだ。夢の中のシイ。それは今でも不思議だけど、もしかしたら、まだ何か忘れてることがあるのかもしれない。
「遊びに来てよ、何もないけど」
「やだよお前が来い」
祐樹はそう言って、ペンを置いた。そして窓の外の大きい入道雲でも眺めるみたいに、頬杖をついた。
「森に行こう。三人で」
「……そうだね」
「オレもシイも、お前を連れ出しにいくよ。何回だって」
「……うん」
小さく返事すると、祐樹は鼻で笑ってまたペンを取った。
夏が来る。三人で過ごした夏がまた、繰り返し始まろうとする。
「おれの隣が祐樹で、シイで、ほんとによかった。おれの人生に、二人がいてくれてよかったって、思うよ」
チャイムに掻き消される。その瞬間、教室が一層うるさくなった。号令がかかる。
慌ててノートを取り出して、開くと何かがひらひらと落ちていった。それはいつの日か描いた、黄金のヒマワリ。その欠片。こんなところにまだあったんだ。
あの日千切ったヒマワリは、シイが持っているらしい。おれは二度も同じことを繰り返したんだなと、嘲るような笑みが漏れた。
全部くっつけ合わせたら、また絵に戻るんじゃないかな、なんて、無謀なことを考えながらその絵をポケットにしまう。
放課後、どこかに寄って糊を買って帰ろう。少し笑えてくる。おれはシャーペンを取り出し、ノートの隅にメモを残してから、そろそろ板書を取ることにした。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
本編はこれで終了致しますが、三人の物語はこれからも続いていきます。彼らはまた、どこか違う物語で登場するかもしれません。
感想等を残して頂けると幸いです。
四年間、本当にありがとうございました。




