押した
途中の自販機で、安っぽいサイダー缶を買っていった。壊れた南京錠を手で解いて静かに戸を引くと、暑い風の塊が額をなぜた。よく晴れた鮮やかな青い空が、目に焼きついた。
展望室の扉を開けて風を入れ、中には入らずに軒下に座る。そうして目をつむって、思い出していた。むせ返るほどの暑さ、汗が伝うあの嫌な感覚、水の音、千崎の声……もう鮮明じゃないけど憶えてる。
あの時自信なく呼んだ彼女は、今考えても確かに千崎だ。彼女のことをそう知ったわけではないのに、夢とは不思議なものだ。未だに下の名前を思い出せずにいる。
サイダー缶を握りしめた手のひらに、いつのまにか力が籠っていた。サイダー缶は固く、音も立てずに指を痛めつけた。その冷たさに、指先が少しだけ痺れてしまった。
眼鏡を掛けて、さっきは忘れた鞄の中からノートと鉛筆を取り出した。前のページをめくって、その前もめくってみる。僕が毎日、まるで絵日記のように描き続けてきた屋上のスケッチだ。ここから見えるものは空と柵と、遠くの山だけ。それだけだ。
身体が怠い。ため息をついた。じっとりと、汗が頬をなぞっていく。
真っ白いページに開き直して、また同じようなスケッチを描きこんでいく。鉛筆が紙に擦れる音が、風の音に混ざりこんだ。吸い込まれるように、黒で埋め尽くされていく新しいノートを、僕はどこか客観的に見つめていた。
「すごいね」
唐突に、ノートに知らない影が浮かび上がった。これは長い髪だ。この声が聞こえたときにはもう、確信してた。
「絵、上手いんだね」
偶然は怖い、と思う。必然よりずっと。
優しい栗色の、長い髪が風に靡いた。風に溶け込んだようなその柔らかい髪質が揺らめくたび、曖昧だった記憶を起こす。彼女は少しだけ笑っていた。ぎこちなく、優しい笑みだ。
なんだか、やっぱりどこか、懐かしい。思い出せそうで、ちっとも思い出せない。
「わたしね、今日の午後は、ずっとここにいたんだ。でも、人に会ったのは、初めて」
「そう、なんだ」
「暑いのに、一ノ瀬くんは物好きだね」
「千崎さんもだろ、授業サボってまで来るようないい所じゃない」
「わたしはちゃんと、涼しい場所を知ってるもん」
得意げに笑う千崎は、少しだけ緊張しているようにも見える。少し沈黙した。千崎は一人分の間を空けて
僕の左隣に座った。
「よかったら、どうぞ」
横に置いたままのサイダーを思い出して、不自然に空いた空間に置き直してみる。
「い、いいよ。悪いよ」
「何か飲んだ方がいいよ。ずっとここにいたんだろ。熱中症になるよ」
千崎は、少し黙ってから、小さな声でありがとうと言った。プルタブは控えめに持ち上げて、飲み口に唇をつけたあたりで、もう目は逸らした。
千崎の、夢の方の千崎の最後の言葉を思い出したのだ。今更言えない。ここにいる千崎は、何も知らない。だから、せめて、自分なりの満足感が欲しい。
描き途中のスケッチはやめる。新しいページに開き直して、もう一度鉛筆を握りしめた。校庭いっぱいの金色のヒマワリ。すごく、すごく心が躍る。はやる気持ちが、鉛筆をどんどん滑らせる。
「きれい……ヒマワリだ……」
うん、僕は呟いた。静かな空気に、いきなり声をかけられたのに驚いて思わず千崎を見ると、口を少し歪ませてから、夢で見た無邪気な笑みを見せた。
「ね、ね。色、つけたらきれいだよ。きっと」
不可解なその表情に何も言えないまま、千崎はまた笑った。
「クレヨン、持ってるから。ね、よかったら使って」
千崎は鞄を漁ると、すぐにそれを手渡した。古びた八色入りのクレヨンだ。僕はそっと、手を伸ばした。
……受け取れない。どうしても、手が震えるのだ。受け取るなと、僕はなぜか思っている。
伸ばしかけた腕は、短い時間空中を彷徨ってから、静かに下ろした。
「もう、行かなきゃ」
それ以上はなにも言わず、言えず、ノートを閉じた。鉛筆も消しゴムもそのまま突っ込んで、勢いよく立ち上がった瞬間、追いかけるように千崎も立ち上がり、どこか必死に僕の制服の裾を引っ張った。
「じゃあ、じゃあさ」
疑問を短く口にする。そうしたら、千崎は片手に持ったサイダー缶を握りしめたみたいだった。
「わたしが、色、着けるの。着けたい。だめかな」
人差し指を自身に向け、また、ふわり。笑った。
何かと思った。僕も笑った。
「君が」
そう言ったら、また。こんどはぎこちのない笑みだった。
「千崎椎乃っていうの、君じゃなくて」
千崎、椎乃。椎乃。
……ひとつ知った。
「構わないけど、別に」
彼女の言動を不思議に思いながら鞄からノートを取り出して、ヒマワリのページを開ける。紙の端に手を掛けた。その時だった。
白い手のひらは強く、僕の手首を握りしめた。痛い。痣でも出来そうなほど、彼女が握った手は固く、震えていた。
「破かないで……お願い」
「え?」
「あの、明日には必ず返すよ。絶対だよ。だから……」
なにか意図があって切り離そうとしたわけではない分、思いつめたような表情をした千崎を見ては、慌ててノートを閉じた。本当に、切り離してはいけないようなものに、僕自身でさえ思えてしまうほどに。
「わかった、じゃあ」
ノートごと、渡した。問題なんてない、きっと。
「明日、ここで会おうよ。屋上」
頷いた千崎の目は見れないまま、僕は彼女の横を通り過ぎて屋上の入り口へと走った。彼女ももう、それ以上は何も口に出したりしなかった。
「颯太」
玄関の下駄箱の戸を、ぱたりと閉めたときだった。聞き慣れた声が僕の名を呼んだ。
「有川……なんだ、帰ったかと思った」
「ふざけんなお前を迎えに行ってたんだよ」
有川はそう一気に言い切ると膝に手を置いて、切れた息の合間に何度は咳を繰り返してはこちらを睨んだ。
「別に、一人で帰ったっていーのに」
少し冗談めかして笑ってみても、有川は無言で靴を履きかえるだけだった。照りつける日差しの方に視線を移して、ずり下がった通学鞄を背負い直すと、その無言のまま有川は僕の背を押した。