踏み込んだ
頭が痛い。なんだろうか、今すごく怖い。何かはわからない。
さあ、次は何を失うか。
コップの中の、ほんの少しの水が、渇いた口内をすっかり潤す。こんな感じ。おれは誰かを深く傷つけるくせに、人の優しさを当てにして無かったことみたいにする。
本当は、水も覚悟も全然足らない。おれは渇いたままで、傷つけたままだ。
部屋の温度がかなり高くなっていた。汗が引かない。熱のせいもあるのだろう、ふらつく足元に力を込め、ゆっくり歩く。僕は大きく息を吸い込み、前を見た。
◆◆◆
誰かが俺の名を呼んだ。次第にはっきりする。夢と現の間で曖昧で、俺はまだはっきりと返事はしなかった。
「ユウキ」
よく透き通った、まるでシイの声だ。椎乃の声。うっすらと目を開けた。
――瞬間、唐突に目が醒めた。あまりにもはっきりした音が耳元を突いた。
「椎乃」
その人物の名前をゆっくり呼び、すぐに疑問となった。時計を覗き込む。おれはどこからどこまでの夢を見ていたのだろうか。
吹き抜けた風にはっとし、手元に置いたバイオリンに目を移した。片手で足りるほどの葉が散り覆っていた。
「お前……なんで」
「颯太が、家に、いないの」
椎乃の言葉ではっきりする。なんだ、俺が眠った時間はほんの少しじゃないか。
多分、三十分。椎乃がこの場を去ってから、三十分ほどの時間が過ぎている。
「離れにも、家にも、誰も……いなくて」
「待って」
「どうし、よう。きっと、一人になったら……だめ、なのに」
「待って、落ち着け。パニックになるな」
椎乃はひどく苦し気で、今にも崩れ落ちそうだった、
椎乃はまだ、何も知らない。
「深呼吸して」
俺の声に従い、椎乃はゆっくりと息を吸い込んだ。肩を掴んで、椎乃を草むらに座らせた時、その肩は大きく震えていたのに気づいて、俺はない頭を必死に絞っている。何か、安心できる一言を。
なんて、無理だ。俺は、所詮俺自身の震えを堪えることしかできなかった。
「何も変わってない、お前」
「……ごめん、ね」
やっと言えた一言は、きっと傷つけた。もどかしくて、苦しくて、悲しい言葉。椎乃の中で変わって、消えて、生まれたものを、俺は何も知らない。そう気づかされた。だけど、なんだか安心してしまった。変わらないことは、嬉しかった。
――変わってしまったものは、わからないこともある。気づかないだけで、本当はその方が多いのかもしれない。多分、俺だって気づかないだけなのだ。気づきたくない、から。
「怖くて……わたし、まだ……だから」
椎乃は、変わってしまった颯太を、受け入れようとする。何も気づいていない振りをする。
気づくこと、気づかないこと。どっちだって残酷だ。変わることは、そんなに怖いことだったのか。
「でも、もう忘れちゃったかな」
溢れそうな緑が、波のように揺れた。
「ねぇユウキ」
「ん?」
「ずっと一人にして、ごめんね」
バイオリンの上の葉は、まるで絵の具の塊から滴った油のように見えた。
「……ずっと、言えなくて、ごめんね」
対比するように、俺の頬はきっと赤くなった。いちど泣くと、駄目だ。我慢が難しくなる。ああもう、と心の中で叫んで、俯く。
「でも、お前、ちゃんと戻ってきたじゃん……椎乃」
「戻れた、かな。私、ちゃんと戻ってる?」
黙る。静寂。このまま、涙は引いた。落ちる前に、そっと消えた。
「……もう行こう、椎乃。颯太を探しに」
気づいたら、ちぐはぐな返答を。俯いたままの椎乃の腕を引いて、ゆっくり歩きだした。
――颯太の異変に気がついたのは、あの夏の終盤。
俺の目の前でいちど倒れて以来、発熱を繰り返し、顔を合わせる機会が少なくなった。颯太はもとより身体は強くない方で、だからまた、いつもの体調不良なんだと思ってた。また、すぐ『いつも通り』に戻るって、そう信じて疑わなかった。
違う。違うと気づけたのは、随分あとになってからだった。あの時、もっと早く気づいたところで、何か変わったわけではない。だけど、無性に悔しかった。
奥歯を噛み締めた。森を抜けたばかりの足を走らせるのは、まるで鉛をくくりつけたかのように動かしづらい。何度も経験した。この足のだるさ、痛みは、いつまで経っても慣れない。
「高田に連絡ついた。すぐ来るってさ」
椎乃が後ろで、切れた息の間に短く問うた。
「人探しは、人数多い方がいいだろ」
「でも」
「椎乃は右、俺は左な。道は、大丈夫だよな」
一直線の畔道に突き当たる。大きく息を吐いて、詰める。足が、途端にすくんだ。
ナズナもヒメジョオンもツユクサも、ここで覚えた。透明なBB弾を拾ったのもこの場所、流星に溢れる空を眺めたのも、この場所だ。
二人で、最後は、三人で。幼い頃の少ない記憶の中で、まだ鮮明に蘇るいくつかの日々が、目元をまだ滲ませた。
あの時は思いもしなかったこの現実が、つらい。苦しい。
なんだろう、もう。俺はがんばるって決めたのに。なんで動けなくなるのかな。
靴に入り込んだ砂利が痛い。ただそれだけは、信じたくもない現実を突きつける気がした。
「大丈夫」
椎乃の声が、風の様に流れた。俺よりも大分小さな体躯が横を過ぎ、長い髪がその横顔を遮る。
その瞬間、小さな手が確かに俺の背を叩いた。
椎乃の『大丈夫』は、俺が投げ掛けた言葉の答え。それに付け足された大きな意味を、手のひらの熱が囁いた。
過ぎ去る小さな背中に、結局俺は何も言えなかった。
すくんだ足が少しふらつく。大丈夫。言い聞かせて、そのまま前へ踏み込んだ。