だからこそ
また、嘘を吐いた。叫びたいのも、何か殴ってしまいたいのも我慢して、小さく舌を打った。自身への嫌悪感にさいなまれ、ただ、苛立った。
椎乃はきっと、颯太のところに行ったのだろう。だから、今すぐ俺が行かなくちゃいけないわけじゃない。俺は行かなくても、大丈夫。だけど、俺はまだここにいてもいいのだろうか。ここにいることが、正しいのか。そんな思いだけ頭の端に残って、ぐちゃぐちゃで、つきたくもないため息を、大きく吐いた。
目頭がまた、熱くなった。案外俺は泣き虫なのかもしれない。いちど、手のひらで目を覆って、ゆっくりと深呼吸もしてみる。そして、弓を閉め直し松脂を塗り直して、手元に置いたバイオリンをそっと手に取った。
また、甲高い音が鳴った。まるで叫声、本当に嫌な音。それでも俺は指を弦に滑らせる。気の紛れる何かをしたいと、どこかで思っていた。一人でも平気だと、何かで証明したかった。弾く。
旋律さえ頭を過ぎれば十分だ。曲名は知らない。知らない間に、どこかで覚えた。
どこからかセミが声がした。子供の声がした。アスファルトで焦げた熱い風も、耳元ではただの優しい音を囁いた。全部、遠くで雑音となって、バイオリンの音を一層引き立てた。
また夏がくる。今年もまた俺は相変わらず、何かを失う。そう、きっと。
俺は弓を置き、少し錆び付いた弦を撫でた。指板がもう色あせて、俺が指の押さえる位置を覚えるために張ったシールは、剥がれて汚れが付いていた。だけど今、これだけは大事にしたいと思った。
風が、心地良い。生い茂る木々を抜けていく。
◇◇◇
「シイ? どうしたの」
シイの声が止まった。オレはしばらく演奏を続けたけど、颯太の絵筆もぴたりと止まって、やめた。そこでようやく、オレは異変に気がついた。
「具合でも、悪い? 今日は暑いもんね。帰ろうか」
「違う」
シイは驚いたように目を丸くし、颯太が問うても不思議そうにただ呆然と前を見つめていた。何が起きたのか全く分からないまま、オレはバイオリンを草の上に置き、シイの元に寄ってみた。後ろで颯太の足音も聞こえたが、途切れる前にオレは再度、名を呼んでみる。
シイ、椎乃。そうしたらシイは、くすっと笑った。
「大丈夫か、お前。何かあったのか」
「大丈夫。あのね、歌を忘れてしまったの」
「忘れた?」
「そう。変だな、昨日は全部歌えたのに」
そう、言い切ると、シイはまた笑って半歩前に飛び出して身体を翻した。ひらひらしたスカートが、大きく揺れた。風が揺れるようで、冷えた森の空気が足元をかすっていった。
「へんなの」
シイは首元に浮かんだ汗を手の甲で拭うと、ぱたんとその場で寝転がった。くすり、くすり、笑うシイを見ているうちに、オレも楽しくて、一緒になって笑った。紛れもなく、楽しいのだ。声はずっと反響して、当たり前だって知ってたのになんだかおかしくて、ずっと、笑った。二人で。二人だけ。
――颯太は、少しだって笑わなかった。気づいたときは、すごく難しい顔でシイを見つめていた。何かと思い声を掛けたときだった。颯太も、口を開け息を吸った。
「シイ、忘れるってどんな感じ」
「どんな」
「その歌、好きなんでしょ。昨日も歌ったなら、きっと。それを忘れてしまうのって、どんな感じ」
今まで見たことないくらい、真剣な目だった。
なんだよ、少し歌詞が飛ぶことなんて、よくあることじゃないのか。
息を呑んだ。喉が鳴った。あっちで鳥が鳴いて、セミまで鳴いた。
「最初から、何も無かったみたい。おかしいの、そこの歌詞だけ、最初から無かったみたい」
「そっか」
颯太はそれきり、また木の根元に座り込み、パレットを手に取ってカンバスを立てた。
トンボが一尾、目の前を過ぎた。あとは木漏れ日と、散っていったいくつかの葉と、風のせい、で目を閉じた。ほんの一瞬、目が眩んだ。
「なんだよ颯太。そんなのどうってことないじゃんか」
「そうだね。ごめん、どうかしてたかな」
前髪の先で、何か、弾けた。こめかみを伝い、背中をなぞり、身体が震えた。爪先に、静かに落ちた。
颯太の絵は、もう少しで完成する。絵の具のこびりついたパレットを手放し、筆だけを器用に動かしていた。何をしてるのかまではわからない。だけど、見たことがある。図工の時間、先生が同じことをしてた。これはとても大事な作業なんだよ、と言っていたのを憶えている。
水差しに筆を沈めた音、水が跳ねる音で、はっとした。絵が椎の木に立て掛かっていた。シイはとっくに颯太の傍で、目を輝かせながら絵を眺めている。
「颯太」
思わず、呼んでいた。声が震えた。嫌な、予感がした。
颯太は頬笑んで、無言で、こちらを見上げた。だから、何も言えなかった。何も言わなかった。
森に佇む少女と、バイオリン弾きの少年。小さな川が二人を隔て、手が届かない。伸ばした腕は寂しそうに空中を彷徨い、けれども優しい表情を浮かべている。哀愁を帯びた、何とも不思議な絵だ。颯太にしては珍しい創作だった。
おそらく、というか絶対、人物のモデルはオレとシイであり、恥ずかしいようなむず痒いような心持ちで、少し、笑えた。
「シイの歌のイメージだったんだけど」
「うん、すてき。すごく、すてき」
「よかった」
だからこそ。