立ち去った
眠りたかったんじゃない。ただ少し疲れた。ちょっとの間だけ目を閉じて、なんとか起きた。
さっき目についた本を開いてはみたのだけど、やはり俺には難し過ぎるようだった。頭が痛くてかなわない。ため息がこぼれ落ちたのを、自身の耳で、舌で、しっかり感じた。
遠くの木々が唸り続け、夏の風を部屋の中に巻き込んでいく。ため息が吸収されていく。さらさらとまた、窓を抜けていく。何も無かったみたいに、全部消えた。
疲れた。今度は呟いた。まだ早い、だけど。
息を呑み込んだ。膝の上に本を置いていたことも忘れて、俺は夢中で立ち上がった。紙の擦れる音がした。靴の踵を潰した。
そうして足早に階段を降りた。制服のシャツが風に煽られて躍り、思わず襟を握りしめた。拳に熱が篭り、汗で不快になる。一度息をつめて、走った。
部屋の押し入れの、二段目の段ボールの中、だ。まだしっかりと記憶していた。煤まみれのバイオリンケースを手探りで引っ張り出して、俺はまた走り出す。早く、早く着けと、気持ちばかり溢れ、何度かつまずいた。靴が脱げては引き返し、きちんと穿き直して、また走った。
森は何も変わらない。あの時と同じままの静けさに、笑みがこぼれた。大きな一本椎、いくつもの倒木、虫の音、たくさんの雑草と、風。
すこし、甲高い音が鳴った。俺のバイオリンには独特の癖がある。その音が、昔から大好きだった。懐かしい音。覚えてる。忘れない。
俺は、ここに来れば救われると、思っていた。昔のような、ありきたりで、毎日何も変わらない、幸せな時間が在ると、思っていた。
「ばかだな、俺は」
音階を行って戻って、弓を下ろした。馬鹿だ。バイオリンのおかげで、目が覚めた。我に返るとは、きっとこのことだと、咄嗟にわかった。
現実、そんなわけないのだ。気づけば俺は独りきりで、隣には、無音の空間が広がっている。颯太も、シイも、離れた。
くすっ、と乾いた笑みがこぼれた。
椎の木の下に座り込む。俯く。変わらないなんてそんなこと、絶対にないのだと、突きつけられた気がした。この森は、容赦ない。
口を手のひらでふさいだ。ため息も、失笑も、もう一欠片も落とさないように。甘えない。もう甘えてはいけないと、深く、心に刻み付ける。
「やっぱり、ここにいた」
風が、強かった。ほんの一瞬、目を閉じた時だった。次に目にした景色は、幾枚も散った葉と、緑陰。陰が少しだけ、濃くなっていた。はっとして、顔を上げた。
「シイ」
なんで、と言葉が続く。心の中で問いた。声には、ならなかった。
思い出とリンクする。あの日、初めて会った日も、シイは突然現れた。
「覚えてたんだな、お前」
「もちろん」
混乱、しているのだろうか、俺は。
いや、でも、おかしさが込み上げてきて、笑えた。笑う。笑うと案外簡単に泣けた。
「颯太のとこ、行ったのね」
「うん、なんで」
「なんで?」
「なんで、そう思うの」
俺は、まっすぐ椎乃を見る。
「ううん、そんな気がしただけ」
椎乃は、目を静かに閉じて、俺を見なかった。
「颯太、どうだった? まだ、具合、悪いの」
俺はマシな嘘は吐けない。
椎乃が笑う。今は椎乃の優しささえ辛かった。ただ、泣いてしまわないように、俯いて歯を食い縛る。なんて情けない。
「ねぇ、ユウキ」
「なに」
「颯太のこと、あのね」
「……あのさぁ」
「あのね」
悪態が、渦巻く。呑み込むが精一杯で、口をつぐんだ。
「無理、しないで。お願い」
もう椎乃にはばれてる。全部ばれてる。びっくりして少し顔を上げた瞬間、涙が溢れた。慌ててもう一度下を向いたけど、もう歯止めは効かなくなっていて、苦しくて、こぼれそうになった声を塞いだ。女々しいなと思う。最初から俺はそうだった。わかってる。
椎の木がざあざあ揺れて、ほんとうなら心地良いはずなのにうるさくてイライラして、なんて馬鹿なんだろうと、思ったりして。
こんな時に、なんでこの場所に来てしまったんだろう。ここは、楽しい場所でなければならないのに。悲しい思い出がひとつ、染み込んでしまう。嫌だ。それだけは嫌だと、自身に懇願し続けてきたのだ。なのに。
「今はひとりがいい、悪いけど」
精一杯の言葉を吐き出して、また嫌悪した。ひとりなんてきらいだ。だいきらい。俺は嘘なんてつけないのに、馬鹿だ。
「謝らなくて、いい。でも、ユウキが落ち着くまでは、ここに居させてほしい」
力を入れて、息を止めた。唇を噛む。苦しくて痛くて、でも、涙は止まった。乾ききった口の中でゆっくり舌を動かすと、鉄の味が広がっていた。
立ち上がろうとした椎乃の肩に手を掛けた。まだ伝えたいことがあった。何よりも、大事な。
「俺は、平気。だから」
「ユウキ、あのね」
「颯太のとこ、行ってほしい。颯太は、きっとお前のこと待ってる」
俺はまた、俯く。意気地無し。なんて意固地。固く目を閉じて、歯を食い縛った。
「なに」
「は?」
「さっきはシイって呼んだじゃない」
どうして? そう、突き刺した椎乃の言葉は酷く優しい音で、戦慄が走った。鼓動を耳で捉えた。もうこの人も昔とは違うのか。みんな、変わったのか。
変わらないのは俺だけか。否、俺も何か変わったのだろうか。
「行けよ」
「ユウキ……」
「行けって!」
ごめん、シイ。俺はもう呼べない。きっと呼べない。呼んでしまったら、幸せだったいつかの日の思い出を壊してしまいそうだ。悪いのは俺じゃない。
椎乃は一度、しばらくスカートの裾を握り締めて、俺が息を呑み込んだ瞬間、走ってこの場を立ち去った。