――ように
「あ、おはよう祐樹」
夏休み二日目。また森へ行く約束をした。
今日は好きなものを持っていく。好きなものを好きなだけするという日。
「おう! 颯太はやっぱ絵かあ。重そうだなそれ」
「まあね」
オレが一番好きな日でもある。この二日目は一年で一番の特別な日でもあるから。
ふと、颯太の視線がオレの手元に下がった。
「祐樹はやっぱりそれか」
「へへ、最近やってねーけどな!」
オレが持ってきたのはバイオリン。似合わないと何度言われたか。
「似合わねー……」
「いや、お前はもういいだろ」
颯太は小さく笑ってから、歩き出したからオレもそうする。
今日は買ったばかりの絵の具を持ってきたとか、とっておきの楽譜を持ってきたとか、それぞれそんな話を駄弁った。
「シイはさ、何を持ってくると思う?」
昨日は変な一日だった、こととか。だからちょっと変だなって思って、ほんの少しだけもやもやして。なのに颯太は少女を森に誘ったから、今日は少し複雑な心境だった。同情か、ただ興味本意なのか、知れないけど。
例外なく二人だけで過ごしてきた夏休み。遊んでいられる時間は、誰にも会わない。
「女の子だし、人形とか?」
「あぁー……」
だから、オレなりに緊張だってするわけで。
「なんだってかまわないだろ。それぞれしたいことをするんだ」
ここからは走って、いった。
暑い風を切って走る。青い空がぐんと遠くて、太陽が眩しい。変わらない夏と変わらないオレたちはいつまでも比例するわけではないらしい。
肩脇に抱えていたバイオリンがガコンガコン飛んだから、こんどは両手でしっかり抱え込んだ。
「シイ!」
椎の木が目印がいい。そう言ったのはシイだった。確かに大きいし、いいけど、紛らわしい。椎だかシイだか。
「颯太くん、祐樹くん、おはよう」
少し微笑むと、今度はオレたちの手をまじまじと見た。
「颯太くんは、絵を描くの。祐樹くんは……バイオリン」
バイオリン、の語尾が少し笑っているような気がした。いつだってばかにされたそれが、シイはちょっと違うと思った。
「すごい、ね。かっこいい」
「ま、ぁな……」
初めてだから戸惑って、熱さえ持った頬を強く擦った。バイオリンを誉められたのは、初めてだ。
ふいに颯太が、まじまじシイの手を見ては不思議そうに首を傾げた。つられて、オレの視線も手元に下げた。
「あれ? シイは何も持ってないけど」
「私?」
バイオリンのケースを開き、弓を取りだし一・二回振った。少し溶けてしまった松脂を滑らせて、オレもシイの答えを待つ。どうみても何も持っていないし、ポケットだって膨らんでない。何をするっていうんだろう。
「歌」
「え?」
「歌をね、うたうの」
そう言うと、いちど、くるりと回った。
草をふむ音。木の撓う音。風の通る音。そして始まったのは、シイの歌。
メロディが頭に流れてくる。ミのフラット、狂いはない。この曲は、次の旋律が予想できないほど複雑だった。
「……っ」
思わず、声が出なくなった。
こんな声聞いたことない。同じ小学生なんてどうしても思えない。
乾いた舌を一舐め、バイオリンを握った。そんなオレを見て、颯太は笑った。そして続けて言う。
「おれは描くよ」
じゃあオレは。
シイの旋律を壊さないように、ゆっくりと弓を引いた。優しく、儚げで、強い。その声を包むような優しい音を、奏でることができたなら、オレは満足できるだろうか。シイは驚いたように、一度その声を細くしたが、またすぐに戻った。
木漏れ日がまぶしい。腕にあたるたび、熱かった。嫌気が刺して、でもなんていうか、ちょっと楽しかった。スポットライトの真下に立ってるみたいで。
急に声が途切れた。しばらくは演奏を続けたけど、止めた。
「何?」
――――
もう昔のことだ。今さら何考えてるんだろうとため息を吐いた。今俺は最高に暇だ。
あの頃はもっと、今よりもずっと自由だったのに。暇じゃなくて自由。楽しくて楽しくて、空が暗くなってしまうのが嫌だったのに、今は?
「なあ、颯太はどう思うよ」
返事はない。完全に気を失っている。颯太の親父は往診中らしく、いなかった。だからどうしていいかわからない。俺はベッドに寝かせただけ。
「くそ、」
物凄い不安感が押し寄せる。信仰してるわけもない神に必死で祈った。どうか、どうか無事に目を醒ますように。