気がした
走って行ってみればもう父さんは既に車に乗り込んでいて、僕はと言えば少し、焦ってる。やばい。小さく謝れど返ってくる言葉が無く、自身黙ってしまった。
普段から会話はない方かもしれない。はいとかいいえとか、それだけで過ごす毎日。支障は無い。それでいいと思っていた。
シートベルトを閉め、エンジンのかかった車は静かに動きだす。そんな事実とは裏腹に、気持ちだけは置いて行きたいと、思う。無理なのに。
「……神木さんとは、仲がよかったろう」
坂道を下りきった頃、それはあまりに突然で、不本意にも驚いてしまった。何か答えようとも喉が順応に反応する訳もなく、ただ真っ直ぐに前だけを見る目は見つめた。ガタガタ揺れる道で膝に載せた鞄が下がり、抱え直す。
父さんはそれ以上何も言わなかった。首を傾げ、緊張もほどほどに曖昧な返事をした。
「まあ、」
「そろそろだ」
何を言われたのかわからない。
「え?」
「お前だって知っているだろう。もう、長くない」
「もしかして、急患って」
音を立てたブレーキに少しだけ体が傾いた。
知ってたよ、そんなこと。だけどそんな事ってあるだろうか。昨日、話したばかり。なのに?
そんな思考を繰り広げる中、次には視界に信じがたい画が繰り広げられる。
揺れる栗色。背で躍るその髪に見覚えはあった。
「千、崎?」
もうわかんない。夢、だったらいいのにと、僕の頭の中で反芻ばかりする。
「ぁ……」
声が掠れてる。そうゆう事父さんは敏感に気づくから、
「君はここにいていい。颯太、行くぞ」
冷たい。
「……はい」
どうすれば、いいんだっけ。父さんに付いていく事が最善なんだろうか。白衣の後ろ姿を眺めながら、階段に足を掛けたのは正しいか。
その時僕は、シャツの裾を引かれていることに気づく。
「……何してる」
行かなきゃ、でも。
踵を返した。父さんは顔を歪ませた、が鞄を押し付けた。気付いた、正しくないよ。
俯いてたその頭に手のひらを当てそっとシャツから手を離した。今度は手首を掴んで、前へと走る。後ろは見ない。
六時と、もう三十分は過ぎただろうか。着いた公園にはもう誰もいなかった。砂っぽいベンチを少し払い、座るよう促した。少し開けた隣に僕も座る。
「どうして」
唐突なその一言に、不思議と何も驚かない。鈴を転がしたような小さな声に耳を傾けた。僕は多分、ある程度予測はたてていた。
「どうしてここに連れてきたの」
「……君が裾を引っ張ったから」
「理由じゃないよ」
「そう?」
どうして?
「いろいろ、聞きたいなと思って」
まるで自分に言い聞かせるような物言いだった。確認じゃなくて、飽くまで納得するため。
「言うことなんて、ないよ」
ぐうっと握られたスカートが不規則に皺を作る。千崎はなにか言いたげで、僕はきっと聞かなきゃいけない。
「……ほんとは、憶えてなくてもいいと思ってた」
「え……?」
ざ、と木が揺れた。その時だった。
豪風が僕を煽る。息が吸えない。詰まった息をなんとか飲み込んで前髪をぐしゃりと握り潰す。目を伏せた前の少女はただじっと風が過ぎるのを待っている。髪をまとめた白い紐が解けるのも知らずに。
「――手を伸ばして届くなら、」
――手を伸ばして届くなら、僕は頑張った――
「どうして、それ……」
「覚えて、る? 覚えてると思ったよ、颯太」
最後、あの児童書の最後。空を目指した男の子の最後の科白だ。
世界が眩んだ。そして思い出した、いつかの夢。あの音の無い世界を。
記憶が交錯する。ふわふわ揺れる千崎の髪、なにか知ってる気がした。毟って、交錯して、記憶が複雑に組み合わさっていこうとする。
知りたくない、まだ。おかしくなってしまいそうだった。記憶が増えるのが嫌だ。
「千崎椎乃って、いうの。君じゃなくて」
掠れた千崎の声が頭の中で響く。
どうしてそんな顔をする? 僕はやっぱり、なにか思い出さなきゃいけない。
息が乱れていると気づいた時、ふと見上げた千崎の顔は笑ってるような気がした。