駆けた
この世界がここで終わってしまったら、そんなことを考えた事があった。僕の手に握られた『これ』も、目の前の『それ』も、全部無くなってしまうのだ。
有るわけもない、そんな事を考えながら頬を伝う涙を必死で拭った。
足下を風が過ぎてゆく。風は、街を走る少年少女の声を呑み込み、消えた。それと同じくらいこの場所は儚くて、遠い。いくら手を伸ばしたって、僕はもう追いつけないだろう。これまでも、これからも、ずっと。
僕の世界だけがだんだんと消えていく。どうか、誰か憶えていて。僕が過ごしてきた、夏の跡を。
◆◆◆
暑い。ああまた、夏が来る。
七月上旬、午後三時四十五分。刺すような強い日差しがアスファルトに照り付ける。汗が身体中を纏い、不快感をさらに煽った。
古い天文室の中は、むせ返るほどに暑かった。踏み入れた足を一歩引いて、扉は全開にしたまま、軒下の小さな影の中に座り込んだ。この暑さでは、きっと誰一人ここには近づいて来ないだろう。そう思うと、なぜだか酷く安堵した。
自販機で買ったサイダーの缶から、幾度となく水滴がしたたり落ちていく。アスファルトに残る黒い染みが、じわりじわりと広がっていくのを眺めながら、プルタブに指を引っかけて勢いよく開けると甘ったるい夏の匂いがした。すっかり乾いてしまった喉にぐっと流し込む。強い炭酸に少しむせてしばらく咳いたあと、大きく深呼吸をした。
鉛筆を探していた。指先が地面を弄る。けれど、いくら探っても鞄は手に当たらなかった。どこかに、置いてきてしまったことに気づいたのはその時だった。なぜだかわからない。ばかみたいだ。でも、取りに戻ろうとは、まったく思わなかった。
静かに深く息を吐いてそのまま目を閉じると、風の音を感じた。セミの声がした。夏の音だ。それと、水の音。遠く先の方で水の流れる音がする。水が地面を叩く音。少し首を伸ばしてみたけど、柵の向こうなんて見えなかった。背を押すような優しい追い風が髪を少し揺らすのは、まるで前へ前へと促しているようで、僕は空になったサイダーの缶を地面に置いてゆっくりと立ち上がった。
前へ。強い日差しに目が眩む。閉じかけた瞼をそっと開ける。目に映ったその光景に目を瞠ったのはその直後だった。
一面の金色。いや、違う。黄色だ。陽が反射した細かい水飛沫が、僕にそう見せた。ヒマワリだ。
水が地面を叩く音。黄色によく映えた青いホースを持った少女が、蛇口を数回捻るとしんと音が止んだ。
「なに、してるの」
見覚えのあるネクタイと、あとは、強い光でよく見えない。僕は静かに声に出してみた。
「千崎、さん」
本当は、そこにいるのが誰かなんてよくわからなかった。ただ、無意識に彼女の名をさかんだのだ。
彼女の制服の、朝顔状のスカートが風に従い大きく揺れる。束ねられた長い髪も首や肩にまとわりついていていたけれど、彼女は気にした様子を見せるわけでもなく、そのまま風に流していた。
そしてふわりと浮かべた笑みが、一瞬見えた気がした。
「暑く、ないですか、屋上!」
彼女もまた、僕に聞こえるように叫んでみせた。無邪気な笑顔が、ほんの一瞬懐かしく見えた。ほんの一瞬……僕も笑った。
「そこから見えるヒマワリは、きれいですか」
その言葉を最後に、唐突に音が途切れた。映像だけがつまらなく切り替わる陳腐な無声映画のような、気の利かない自分の視界がぐらぐらと揺れる。不意に発した自身の短い声も、何も聞こえない。
なぜか。それはわかってる。
僕は聞こえない耳を手のひらで塞いで、目を閉じた。暗闇の中で、少しだけ目頭が熱を持つ感覚だけが残っていた。
鈍い頭痛がする。気がついた時、僕は教室の、僕の席に座っていた。時計の針は、六限目の終わりころを指していた。
ぼうっとした頭のまま、進んでいないノートに手を付けたところで、右隣から消しゴムが飛んできた。小さく丸くなったそれを左手で受け止めてから隣を見ると、黒板をまっすぐ見つめたまま、返せ、と言った。
「珍しいな、居眠りなんて。大丈夫かよ」
「まあね」
「優等生はいいよなあ、お咎めなしかよ」
チャイムが、鳴った。放課後が始まる。屋上に行けば、あの夢は繰り返されるのだろうか。最後に聞いた千崎の言葉に、何か返事ができるだろうか。なんて。
顔を上げて、教室を一眺めした。窓側の、前から数えて三番目の席には、プリントが数枚乱雑に置かれている。そこは千崎の席だった。
「起立――」
もういちど。
もう、いちどでいい。あの場所に戻りたい。なぜだろうか。わからない。
ホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなる。教室の鍵は日直に預けて、うるさい人混みを掻き分けて、僕は足早に階段を駆けた。
閲覧して頂けたこと、大変嬉しく思います。
ありがとうございます。
不定期な更新になりますが
よろしくお願い致します。