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9・カタツムリのヘアピン

ここから14話まではコメディです。15話からはコメディではないですが……どうか付き合って欲しいです。

 学校から最寄りの駅ビルにある美容院。その待合席のソファに深く腰掛け、俺は雑誌をめくるふりをしながら、絶望的な演算を繰り返していた。


 どうすれば、この「理想の彼氏という名の終身刑」から逃げ出せるのか。


 自分で自分を弁護してみても、無罪放免への道筋は一ミリも見えてこない。


 まず、俺の方から「やっぱり嫌いになったから別れよう」と切り出すのは、実質的な自殺行為だ。そんなことを言えば、さっきまで包丁を持っていた彼女が今度は何をするのか分かったもんじゃない。


 かといって、あっちから振ってくれる可能性は――。


『悟君!悟君!!悟君……!!!私の世界!私の光!!私のすべて……!!!』


 隣の鏡の前でカットされているさやか先輩から漏れ出す、鼓膜を直接揺さぶるような爆音の思考ノイズ。これを聞く限り、可能性はゼロを通り越してマイナスだ。


 そして何より最悪なのは、周囲の状況だ。


 教師たちも、さやか先輩の両親も、二年の先輩方も。誰も、俺たちの別れなんて許してくれないだろう。今さら「あれは嘘でした」なんて言おうものなら、俺は「絶望のヒロインを弄んでさらに突き落とした希代の悪党」として、社会的に抹殺されるに違いない。


(……詰んでる。完全に詰んでるぞ。外堀どころか、内堀までコンクリートで固められてやがる)


 唯一の希望があるとすれば、それは「彼女自身に、俺を嫌いになってもらう」ことだけだ。


 幻滅を誘い、好感度を垂直落下させる。それ以外に、この泥沼から抜け出す方法はない。


 何か、何か嫌われるための決定打はないか……。


 焦る俺の視界の端に、美容院のキッズコーナーの隅に置かれたガチャガチャが飛び込んできた。


 可愛いフルーツのヘアピンや、キラキラした宝石風のヘアゴム。そんな女子受けしそうなラインナップに混じって、一つだけ異彩を放つ筐体がある。


『キモいヘアピンシリーズ:不気味な動物たち』


 カエル、クモ、イモムシ……。


 俺の心の中に、邪悪な閃きが走った。


 美容院で綺麗になろうとしている女の子に、こんなキモい生物のグッズをプレゼントする。しかも、「髪型が似合わない」なんて暴言を添えて。


 これだ。これなら、いくらなんでもドン引きするはずだ。


(カエルでもクモでもイモムシでも何でもいい。俺を嫌いにさせてくれる存在よ、来てくれ……!行け、二百円!)


 ガチャン、と重々しい音を立てて転がり出てきたカプセル。


 中に入っていたのは、ヌメりまで妙にリアルに塗装された「カタツムリの殻」をモチーフにしたヘアピンだった。


 ただ、そのクオリティには誤算があった。所詮二百円のガチャ産のヘアピンと言うべきか、造形が甘く、至近距離で見れば生々しいが、少し離れると単なる「ぐるぐるとした可愛い渦巻きデザイン」にしか見えないのだ。とはいえ、今はこれに頼るしかない。


「……おまたせ。悟君、似合うかな?」


 聞き取りやすい、けれど震える声。


 振り返ると、そこには見違えるほど整えられたショートヘアの殻果が立っていた。


 切り刻まれていた無残な毛先は一掃され、彼女の持つ儚げな美しさが際立っている。凄惨な過去は影も形も無く、期待と照れが混ざった表情も相まって、今の彼女は清楚なお姉さんに見える……が、俺は心を鬼にした。ここで見惚れては終わりだ。人間は見た目ではなく中身だ。ジェット機のような爆音の心の声を秘める彼女は、俺が付き合うには厳しいのだ。


「……いや、全然。似合ってないです」


 俺はわざとらしく顔をしかめ、吐き捨てるように言った。


「正直、無理やり直した感じがあって変ですよ。……ほら、これでもつけてください。似合わない髪型を隠すにはちょうどいいでしょうし」


 俺は、あのカタツムリのヘアピンを彼女の手に押し付けた。


 さあ、怒れ。泣け。「なんて失礼なの!」と叫んで、俺を軽蔑してくれ。


 だが、返ってきたのは、今日一番の――ホワイトアウトするほどの爆音だった。


『――っ!! やっぱり、変だよね! 自分でも、無理やり直した感じで変だと思っていたんだ! それを、少しでもマシにするために……悟君が、私のために選んでくれた! 初めてのプレゼント! 嬉しいいいいいいいいいいいいい!!』


「……えっ?」


 俺の呆然とした声を無視して、彼女は迷わずそのピンを自分の髪に差し込んだ。


 鏡を見つめる彼女の瞳は、もはや一点の曇りもなく輝いている。


「え……あの……?え?そ、それ、カタツムリなのですが?しかもガチャガチャのハズレで……今も、全然似合ってないですし……」


 焦って追撃の言葉を突きつけるが、彼女は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、ヘアピンを愛おしそうに撫でた。


「あのね、悟君。私、このヘアピン、凄く気に入ったよ。……だって、私の名前は『殻』に『果』で『さやか』だもん。名前に『殻』がついてる私に、カタツムリなんてぴったりだよ。私にとってはガチャガチャの大当たりだよ……。髪型は、確かにまだ変だけど……いつか、このヘアピンに相応しい女の子になるね!」


 頬を赤らめ、決意を新たにする「殻果」先輩。


 彼女の思考は、もはや恋心を通り越して、熱烈な忠誠心に近い何かへと変貌していた。


(……完全に、彼女の恋を燃え上がらせてしまった……)


 嫌われるどころか、「自分のコンプレックスを察して、名前にちなんだ小粋なプレゼントで励ましてくれた最高の彼氏」という超解釈が成立してしまった。


 逃げ場のない幸福感の爆音に包まれながら、俺は膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえつつ、さやか先輩と共に美容院を後にした。


 殺人計画は間違いなく止めた。


 けれど、俺が手に入れた「平和」は、どうやら本物の地獄よりもずっと、騒がしくて逃げ出しにくい場所だったらしい。

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