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8・「理想の彼氏」という名の終身刑

 正直に言えば、俺は今すぐにでもドロンと音を立てて逃げ出したかった。


 殺人計画のための包丁は確保された。いじめっ子たちの権威は失墜し、学校側も動き出した。俺がやるべき仕事は、もうこれっぽっちも残っていないはずだ。


(いやあ、良かったですねえ。それではアッシはこれにてドロンさせてもらいますよ)


 そう周囲に告げて、煙のように消えてしまいたかった。だが、現実は非情である。


「主役がいないとはじまらないだろ! さあ、こっちだ!」


 二年の先輩方に両脇を固められ、俺は半ば連行されるようにして別室へ向かわされた。そこは、警察や教師たちの聞き取りを終えた尽櫛一家が待機している場所だった。


 引き戸に手をかけた瞬間、部屋の向こう側から爆流のような思考が俺の脳を直撃した。


『悟君! 来てくれた! 嘘じゃない!夢じゃない!本当に私の隣にいてくれるんだ……!』


 無視だ。無視するしかない。俺は精一杯のポーカーフェイスを維持し、引きつりそうな頬を無理やり動かして部屋に入った。


「あの……おじさん、おばさん。俺、そろそろ自分のクラスに戻って、もう帰ってもいいですか?」


 そもそもこちらは徹夜明けなのだ。それなのに朝から色々と頑張りすぎて、頭も体も限界である。一刻も早くベッドにダイブして、今日一日の事をすべて忘れたい。そんな俺の切実な願いは、さやか先輩の両親の輝かんばかりの笑顔によって粉砕された。


「うむ。大丈夫だ。後は大人が責任を持って片付けるから、君はもう安心しなさい。……ああ、それと。これからは『お義父さん』と呼んでくれてもいいぞ」

「あら、気が早すぎるわよ、あなた。……でも、私も『お義母さん』でいいわよ、御心君。ふふ、本当に立派な息子ができたみたいで嬉しいわ」


(……気に入られすぎだろ! まだ彼氏になってから、数時間だぞ!?)


 あまりの展開の早さに眩暈がした。娘の救世主を逃がしてなるものかという、親としての執念と感謝が混ざり合ったプレッシャーが、物理的な圧力となって俺を押し潰そうとしてくる。


 すると、母親がさやか先輩の肩を抱き寄せ、財布から一万円札を取り出して娘の手に握らせた。


「さあ、さやか。これを受け取りなさい。……いい? 今から言う通りにするのよ」


 母親がさやか先輩の耳元で何かを囁く。それを受けた彼女の目が、希望に満ち溢れてキラキラと、あるいはギラギラと輝き出した。


 さやか先輩が何を言われたのかは、思考を読まなくとも分かっていた。だが、実際に彼女が俺の正面に立ち、期待に満ちた上目遣いで見つめてきた瞬間、俺の心臓は嫌な音を立てた。


「……悟君。あの、もし良かったら……一緒に、美容院に行ってほしいな。私、こんな髪じゃ、悟君の隣に歩くのが恥ずかしいから……」


 それは、紛れもないデートのお誘いだった。


 ボロボロに切り刻まれた髪。鏡を見るたびに昨日の絶望を思い出すであろう彼女にとって、髪を整えることは「過去との決別」であり「新しい自分(悟の彼女)」への儀式なのだ。


 断りたかった。


 眠い。疲れた。そもそも俺は、君のことが全然好きじゃない。


 だが、俺の背後では「最高の彼氏」の初デートの誘いの返事を期待に満ちた目で見守る二年の先輩たちが壁を作っている。正面には「娘を頼んだぞ」という圧を放つお義父さんとお義母さん。


 そして何より、目の前のさやか先輩から伝わってくる、救われた直後ゆえの「危うさ」を含んだ期待。ここで突き放せば、彼女の心は一瞬でまた粉々に砕け散り、今度は何をするか分かったもんじゃない。


(…………ああ、もう。詰んだ)


 俺は深い溜息をつきそうになったが、なんとかそれを堪えて、代わりに乾いた笑いを浮かべて答えた。


「……いいですよ。行きましょう、美容院」


「――っ!! ありがとう、悟君!!」


 爆音。今日一番の、脳が震えるほどの歓喜のノイズ。


 さやか先輩は嬉しさを抑えきれない様子で、子供のようにその場でぴょんぴょんと跳ねた。切り刻まれて短くなった髪が不揃いに揺れるが、彼女の顔にはもう、今朝までの絶望の影は一切なかった。


 学校を出て、夕焼けに染まる街を彼女と歩く。


 二年の先輩たちからは「お似合いだ」「ドラマみたいだ」という称賛の思考が飛んでくるが、俺の心は一ミリも晴れなかった。


(今すぐ振って、この面倒な後始末を全部放り出してしまいたい……。けど、どう考えても無理だよなあ、これ……)


 最悪の惨劇を書き換えた代償。


 それは、救った相手の人生を丸ごと背負わされるという、逃げ場のない「理想の彼氏」という名の終身刑だった。

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