5・暴走
「聞こえなかった? 行かないって言ったの。もう、あなたたちの言うことなんて聞かない!」
そう言いながら、さやか先輩は一歩、前へ踏み出した。
その背中からは、昨日までの「いつ折れてもおかしくない」危うさは消え失せ、代わりに、何か強固な、けれどひどく不安定な全能感が溢れ出していた。
「私、彼氏ができて忙しくなったの。あなたたちと遊んであげる時間なんて、もう一秒もないから」
(……待って、そこまで言っちゃう!?)
俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
たしかに、今の彼女には俺という「彼氏」がいる。だが、彼女の中での「彼氏」という記号は、今やあらゆる絶望を跳ね返す無敵の盾であり、相手を徹底的に叩き潰すための最強の矛である存在に変貌していた。
「……はあ? 彼氏?」
リーダーの女子が、腹の底から絞り出すような嘲笑を浮かべた。
「あんたみたいなボロボロの不細工に、男ができるわけないじゃない。嘘をつくにしても、もっとマシなことにしなさいよ。それとも、あまりのショックで頭まで不細工になっちゃった?」
『見苦しい足掻きね』『どうせ妄想でしょ』
彼女たちの思考から、ねじ曲がった優越感が不快な音を立てて漏れ出す。だが、今のさやか先輩には、そんなノイズなど一切届いていないようだった。
「ふふっ。汚い心のあなたたちには、一生手に入らない存在だものね」
さやか先輩が、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。それは、いじめっ子たちを「自分とは住む世界の違う、哀れな存在」として見下すような、残酷なまでの蔑みだった。
「……羨ましい? 誰からも愛されないあなたたちには、私の幸せが理解できないのね。可哀想に」
瞬間。
教室内の温度が、数度下がったような錯覚に陥った。
リーダー格の女子の顔から、余裕の笑みが剥がれ落ちる。代わりに乗ったのは、沸点を一気に突き抜けた、真っ黒な激昂だった。
『殺す。絶対に許さない。その生意気な口を二度と開けられないようにしてやる』
俺の脳内に、鼓膜を直接針で刺すような、高熱の殺意が響き渡った。あまりの衝撃に、一瞬意識が遠のきそうになった。
「……こっちに来なさいっ!!」
リーダーの女子が、顔を真っ赤にして叫んだ。
怒りに任せて伸ばされたその手が、さやか先輩の細い腕を乱暴に掴もうとする。彼女を人気のない場所へ引きずり込み、徹底的に「教育」し直してやろうという、醜悪な意思。
だが。
その手が届く直前、俺は自分の身体が勝手に動くのを感じた。
ガシッ、と。
リーダーの女子の手首を、俺は正面から掴んで止めた。
「なっ……! 誰よあなた!? 放しなさいよ!」
激昂した女子の視線が、初めて俺を捉えた。
俺の手は、正直に言えば震えていた。いじめっ子たちの剥き出しの殺意は、超能力者である俺にとって、物理的な凶器よりも鋭く心を引き裂く。
けれど、俺の背後で俺のシャツを掴んでいる殻果から、凄まじい「熱」が伝わってきた。
『嬉しい! 悟君が助けてくれた! 嬉しい!嬉しい!!嬉しい!!!』
いじめっ子たちの殺意に恐怖を感じつつも、今この瞬間に自分を助けてくれたことに強く喜んでいる彼女の思考が、爆音となって俺の脳を揺さぶる。
――ここで引くわけにはいかない。
俺は震える声を押し殺し、教室内全体に響き渡るようなトーンで言い放った。
「――さやか先輩の、彼氏です。これ以上、彼女に乱暴するのはやめてください」
朝の教室が、真空になったかのような静寂に包まれた。
数秒の後。
「彼氏……!?」「マジかよ!?あれ、一年生だよな……」「尽櫛に男がいたのか!?」
蜂の巣をつついたような騒ぎが、一気に教室中に広がった。驚愕、懐疑、好奇、そして何より、事態を黙殺していた連中からの『気まずい』という自己保身の思考が、津波となって俺の脳を揺さぶる。
(……危なかった!! 送ってきて本当に正解だった!!)
もし、俺がいなければ、彼女はこのタイミングで再び絶望の底に叩き落とされていたはずだ。
しかし、同時に俺は、俺の袖を掴む殻果から流れ込んでくる「過剰な期待」に、背筋が凍るような感覚も覚えていた。彼女の心には今、俺という存在への狂信的なまでの信頼が満ち満ちている。
(……というか先輩、いくらなんでも暴走しすぎだろ……!)
いじめっ子のリーダーの手首を掴んだまま、俺は冷汗が止まらなかった。
殺人計画は、たしかに止まった。
だが、俺がついてしまったこの「嘘」は、もう、誰にも止められない濁流となって、俺たちの日常を飲み込み始めていた。




