表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/19

4・さやか先輩

 ホームルームが始まるまで、あと十五分。


 ようやく、さやか先輩の泣き声が止まった。


 正門脇の木陰のベンチ。朝の瑞々しい光が差し込む中で、彼女は俺の制服の袖を掴んだまま、何度も何度も深呼吸を繰り返していた。


 時間にして、告白からここまで三十分以上かかった。そう、彼女は、三十分以上も泣き続けていたのである。


 その間、俺の脳内には彼女の『嬉しい!助けてくれる人がいた!見ててくれたんだ!』という爆音の思考が、鼓膜を突き破らんばかりの勢いで響き渡り続けていた。


(……どれだけ孤独だったんだ、この人)


 正直、少し引いている自分がいた。


 見ず知らずの自分が「付き合ってください」と言っただけだ。それだけで、人生のすべてが救われたかのような狂喜乱舞。それほどまでに、彼女の世界には、自分を肯定してくれる他者が一人もいなかったということなのだろうか。


 俺の袖は涙と鼻水でぐしょぐしょだったが、彼女はそれに気づく様子もなかった。


「……ごめん。ずっと泣いてて、ごめんね。悟君」


 ようやく顔を上げた殻果先輩の目は、真っ赤に腫れ上がっていた。


 それでも、その瞳の奥には、先ほどまでの死人のような濁りは欠片も残っていない。


「……いえ。落ち着いたなら、良かったです」

「ありがとう。私と付き合ってくれて……本当に、嬉しい」


 彼女は、照れたように、けれど切実な面持ちで俺を見つめた。


「あの、ね……悟君。私のこと、『さやか』って呼んでいいよ。……ダメ、かな?」


 上目遣いでそう言われ、俺は喉の奥が詰まるような感覚に陥った。


 困惑しかない。つい一時間前まで、フルネームすら知らなかった相手だ。それをいきなり名前呼びするなんて、あまりにハードルが高すぎる。


 だが、俺は「彼氏」なのだ。たとえそれが、殺人を止めるための狂言だったとしても。


 今の彼女にとって、俺という「彼氏」は唯一の命綱。ここで突き放せば、彼女の心はまた瞬時に、あの赤い未来へと転落していくだろう。


「……分かりました。よろしくお願いします、さやか先輩」

「先輩とか、いらない」

「……呼び捨ては流石に、俺が厳しいです」

「そう……まあいいや。先輩って響きも悪くないし。……ねえ。一度、私の名前を呼んでくれる?」

「……さやか先輩」


 ぎこちなくそう口にすると、彼女は今にもまた泣き出しそうな、それでいて最高に幸せそうな笑顔を浮かべた。


 危うい、と思う。


 俺というたった一人の存在に、彼女の精神のすべてが乗っかっている。この全振り感は、救いであると同時に、俺にとっては底知れないプレッシャーだった。


「えっと……教室まで送ります」


 俺は立ち上がり、ベンチに置いていた彼女の学生鞄を拾い上げた。


 ズシリ、と手に伝わる鉄の重み。


 中身が包丁であることは確信している。だが、俺はそれに言及することができなかった。


 いきなり鞄の中を覗くわけにもいかないし、何より、さやか先輩自身も、せっかくできた「頼れる味方」である彼氏に、今さら「実は復讐のために包丁を持ってきていました」なんて口が裂けても言えないはずだ。


 二人の間には、その「重い沈黙」が横たわったままだった。


 一階にある俺の教室、一年一組を通り過ぎ、階段を上がって二階へ向かう。


 彼女を一人で教室に行かせるのは、あまりにも不安だった。


 二年一組。


 教室の戸を開けた瞬間、登校してきた生徒たちの視線が一斉に俺たちに突き刺さった。


 泣き腫らした顔のさやか先輩と、その後ろに立つ、見慣れない一年生の男子。


 教室内が、妙なざわめきに包まれる。


「あーら、おはよう不細工さん。ボロボロの不細工な髪に、涙で不細工な顔ね。……見苦しいったらありゃしない」


 聞き覚えのある声。


 昨日、体育館裏で彼女を嘲笑っていた女子生徒三人組が、獲物を見つけたハイエナのような足取りで近づいてきた。


 リーダー格の女子が、さやか先輩の短く切られた髪を指差して、クスクスと笑う。


「ああそうそう、昼休み、今日も体育館裏に来なさい。まだ掃除し足りない場所があるのよ。……分かってるわよね?」


 それは、逃げ場のない召集命令だった。


 昨日までの、世界に味方が一人もいなかった彼女なら、ここで肩を震わせ、俯いて頷くしかなかっただろう。


 三人組の心からは、『またいじめてやろう』『今度は何をさせようか』というドロドロとした暗い興奮が、吐き気を催すノイズとなって俺の脳を刺した。


 だが。


「……行かない」


 さやか先輩は、はっきりと、驚くほど澄んだ声で言い放った。


 怯えも、震えもなかった。


 彼女の心には今、圧倒的なバリアが張られている。


『悟君が見ててくれる。私の味方がここにいる。だから、もう怖くない!』


 その幸福な思考の爆光が、三人組の醜悪なノイズを力尽くで跳ね返していた。


「……は? 今、なんて言ったの?」


 三人組のリーダーが、信じられないものを見る目で目を見開いた。


 教室中の空気が、彼女たちに、そして毅然と立つ殻果に集中する。


 昨日まで「死んでいた」はずの獲物が、明確な意思を持って牙を剥いた。


 爆発寸前の緊張感が、二年一組の教室内を支配した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ