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3・最悪の事態は回避できた……のか……?

 朝の静寂は、一瞬にして砕け散った。


 俺の放った「付き合って欲しいんです」という爆弾に、足を止めた野次馬たちが、がやがやと騒がしくなり始めた。


 そして、彼女の脳内に渦巻いていた、あの鋭利で黒い殺意の連呼が、今は嘘のように止まっていた。


 思考の波が、驚愕によって真っ白に塗りつぶされていた。


 だが、その空白も長くは続かない。やがて、凍りついた時間がゆっくりと溶け出すように、彼女の瞳にわずかな光が戻ってきた。


「え……と……」


 彼女の唇が震える。


「何で……私と、付き合いたいの……?」


 その問いは、あまりにも真っ当で、あまりにも重かった。


 俺と彼女には、接点なんて何一つない。今さっき彼女の口から聞かされるまで、学年もクラスも名前も知らないほどに遠い存在だった。能力で他人の思考を拾っていなければ、すれ違っても一生記憶に残らなかったはずの相手だ。


(……どうする。なんて答える!?)


 思考を巡らせる時間は、コンマ三秒もなかった。


 正直に「あなたの殺人計画を止めるためです」なんて言えるはずがない。かといって、好きなところを語れるほど、俺はこのさやか先輩のことを何も知らないのだ。


 ここで言葉に詰まれば、彼女の思考は再び「赤い未来」へと逆戻りする。


 もう、なりふり構っていられなかった。


 自分でも馬鹿な作戦だとは分かっている。整合性も、勝算も、何一つありはしない。だが、もう軌道修正は効かないのだ。


 俺は思考のハンドルを投げ捨て、アクセルを底まで踏み抜くように叫んだ。


「いつも!今にも折れてしまいそうな先輩を見ていて……目が離せなくなったんです!」


 ヤケクソだった。


 だが、これは単なる出まかせじゃない。昨日、泥にまみれた髪を独りで掃き集めていた彼女を見て、俺の胸の奥が焼けるように痛んだのは、紛れもない事実だった。


「……っ」


 ドサリ、と重い音を立てて、さやか先輩の手から学生鞄が地面に落ちた。


 今日、彼女が復讐を果たすために持って来た鉄の重みが、今は彼女の手を離れ、ただの荷物として転がっている。


 さやか先輩が、呆気に取られたように口を半開きにする。


 そして、その大きな瞳から、溜まっていたものが一気に決壊した。


「……うえ、うええええええん!!」


 さやか先輩は膝をつき、子供のように声を上げて泣き出した。


 同時に、俺の脳を直接揺さぶるような、凄まじい「爆音」が響き渡る。


『――っ!! 助けてくれる人が現れた! うれしい! うれしいいいいいいいいいいいいいいい!!』


 それは、叫びだった。


 思考というより、魂が発した咆哮だ。


 暗闇の底で独りきり、誰にも気づかれず、誰にも助けを求められず、ただ相手を壊すことでしか報復できないと信じ込んでいた絶望の中に、突如として投げ込まれた一本の命綱。


『見ててくれたんだ! 私のこと、見ててくれたんだ! 誰にも見えてないと思ってたのに! 嬉しい! 嬉しいいいいっ!! うえええええん!!』


 あまりの喜びの熱量に、俺は平衡感覚を失いそうになった。


(うるさい! うるさすぎる! 誰か、この音量を下げてくれ……っ!)


 周囲の野次馬の思考と、彼女の爆音の喜びが混ざり合い、俺の視界はチカチカと明滅する。


 泣きじゃくるさやか先輩の姿に、周囲の生徒たちはさらに騒ぎ始める。


「……っ、とにかく、ここを離れましょう」


 俺はおろおろとなだめながら、彼女の震える肩を支え、地面に落ちた鞄を拾い上げた。


 鞄は、ズシリと重い。まだ、その中には包丁が入っている。


 だが、少なくとも今、彼女の脳内に「殺人」の文字は微塵もなかった。


 俺は周囲の視線を避けるように、彼女を連れて近くのベンチへと移動した。


 座らせても、彼女は顔を覆ったまま、しゃくり上げながら泣き続けていた。


 しかし、脳を揺らしていた彼女の絶叫が、次第に落ち着いた、深い安堵の波へと変わっていた。


 それに連れて、俺の苛立ちも、少しずつ別の感情へとシフトしていった。


(……とりあえず、最悪の事態は回避できた……のか……?)


 張り詰めていた緊張の糸が、わずかに緩む。


 殺人計画は、一旦止まった。


 彼女を包んでいたあの殺意は、今は「自分を見てくれる人がいた」という圧倒的な救済感に押し流されている。


 だが。


(完全に終わったわけじゃない……)


 彼女をここまで追い詰めた原因はまだ消えていない。そして鞄の中にある「鉄の重み」も、なくなったわけではないのだ。


 俺は、泣き続けるさやか先輩の背中を、ただ必死に、不器用な手つきでさすり続けた。


「あの、先輩……」

「……ぐすっ、ごめ、んなさい……急に、こんな、うええん……」


 顔を上げた彼女の瞳は、赤く腫れ上がっていたが、そこにはもう、あの死人のような虚無はなかった。

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